「聖霊に導かれて」

shuichifujii2006-08-02


サマーキャンプ二日目
主日礼拝メッセージ
聖書箇所:ガラテヤ5章16節〜26節

 サマーキャンプも祝福のうちに終わろうとしています。今年のキャンプも大変思い出深いものになりました。私たち家族にとっては最後のキャンプになりましたけれども、一期一会(いちごいちえ)という言葉があるように、どのような出会い、どのような交わりも、当たり前ではない、そのときに神様が与えてくださった一度きりの出会いであり、交わりと受け止めて、大切にしたいものだと、つくづく思ったサマーキャンプでした。

 人生は出会いで決まると言います。わたしたちが、いったい誰と出会い、いったい誰と時を過ごすのかによって、まさに人生は大きく変っていきます。
 しかし、同時に、そんなに大切な出会いや交わりなのに、これは人間の努力によってはどうにもならない、神の恵みなのです。

 一生を共にする伴侶と出会うことも、これは努力でなんとかなるものではなく、与えられるものです。結婚したくても、こればっかりは、出会いが与えられないと出来ない。さらに、出会ったとしても、相手の全てが分からないうちに、どこかで、えいや、って飛び込んで決断しないと結婚というものは出来ないわけです。
 青年の方々には、このさい、わたしの遺言だと思って聞いて頂きたいのですけれども、結婚というのは、決断ですよ。恋愛をずるずるひきずっていてはいけません。神様の御心を求めて祈ったら、えいやっと信じて決断しましょう。そして、いざ結婚てしまったら、この人こそが、神様が与えてくださったベストパートナーなのだと、信じ続けるのであります。結婚とは、実に信仰によって始まるのであります。そして、まちがっても、あとで、他の人にしとけばよかったな。あっちの方がよかったな、などとは思わない。信仰で始まったのだから、最後まで信仰で乗り切るわけであります。それが幸せな結婚生活。

 何が言いたいのか、お分かりいただけますでしょうか。つまり、わたしは、イエスさまとの関係もそうなのだと言いたいのです。イエスさまを信じるということは、イエスさまと結婚するようなものでしょう。世の中には、イエスキリストは素晴らしいという人は沢山いるし、キリストを研究している人も沢山いる。でも、彼らは信じてはいないわけです。つまり、キリストは好きだ、魅力的だ。でも、結婚する気はないということなんですね。結婚する決断はしたくない。できれば、ずるずる恋愛関係でいたいというわけです。

 でも、クリスチャンというのは、聖霊に導かれ促されるようにして、イエスさまを信じる決断をするわけですよ。イエスさまと結婚をして、永遠に共に生きる決断をする。それが信仰によって救われるということでしょう。信仰による義であります。しかし、いざ結婚してみれば、結婚生活には様々な誘惑があるように、信仰生活にも誘惑があるわけです。その最たる誘惑とは、パートナーであるキリストの導きよりも、自分のことを信じてしまう誘惑。キリストの導きよりも、自分の価値判断を信じる誘惑であります。

 ガラテヤの教会は、まんまとその誘惑に乗せられて、キリスト信仰だけではだめだ。救われるためには、割礼も必要だと言うようになった。割礼が必要だというのは、自分たちの勝手な価値判断でしょう。パウロはそんなこと教えていないわけです。しかし、いや、わたしたちには割礼も必要なのだと言い張った。それはつまり、イエスさま、あなたのことも信じるけれども、わたしたちは自分のことも信じて割礼しますよ、ということなんです。パウロは、そんなことでは結局、イエスさまなんて必要ないと言っているのと同じだ、恵みをうしなうぞと怒っているわけですね。

 イエスさまを信じて一緒になったのに、パートナーであるイエスさまの導きに従わず、自分の思いで生きつづける。パウロはそれを、霊によって始めたのに、肉によって仕上げるのですかともいいました。

 そもそも、信仰生活とは、霊によって始められる奇跡であります。聖霊によって、御霊によって始められる神の奇跡。それが信仰。
 今、二人の方がバプテスマの準備をしていますけれども、その一人の方は、3月に脳溢血で、もう先がないか、一生半身不随ですと医者に言われた、そんなところから、本当に奇跡的に癒されて、歩けるまでになった。そして、そのあいだに奥さんは、病室にいつも大きく御言葉を書いて、神様が助けてくださるから大丈夫と、励まして祈り続けて、そうやって、それまではまったく宗教とは無縁、仕事人間だったご主人が、御言葉によって考えが変えられて、ご自分の罪も示されて、キリストの十字架を信じる決断をする。これは、人間業ではないわけです。聖霊によって成された奇跡。キリストを信じる決断というのは、これは聖霊に導かれなければ起こらないことであります。信仰を告白する。それはただ、なんとなくキリストが好きだという、そんな告白をするのとはわけが違うわけです。それこを永遠を共にするお方として告白するわけです。まさに、結婚を決めるということです。こういう決断は、聖霊によってのみなされる神の奇跡。

 なのに、そうやって、霊によって始めさせていただいて信仰生活を、肉によって仕上げるのかと、パウロは言います。聖霊に導かれて始まったのなら、最後まで聖霊によって導かれて行く。それが信仰ではないか。

 つまり、信仰生活とは、霊に始まり、霊の導きに生きる生活であります。聖霊の導きといってもわかりにくいなら、神様の見えない働きと言ってもいいでしょう。

 それは決してなにか神秘的な体験をするとか、そういうことを意味しません。自分を見失って、神秘的な霊に動かされるというような、そんなことでもありません。そうではなく、私たちの現実の生活のなかで、わたしたちには目に見えないけれども、確かに、神の見えない働きがあるということです。私たちの背後には、いつも神の働きがある。そのことを信じているから、献金のお祈りのときには、いつも、このお金を神様のために用いてくださいと祈るわけですね。実際は、人間がそれを使うのだけれども、牧師の俸給になったりして、私がお昼にラーメンを食べたりするのに使ったりもするのだけれども、それでも、この献金を神様のご用のためにお使い下さいと祈るのは、すべての背後に神様のお働きがあると信じているからですね。
 しかし、だからといって、人間の意志が全く無くなってしまうわけではない。わたしたちは、聖霊の導きを祈りながらも、結局は、自分の意志と決断で、献金を用いるわけですね。それぞれ自分に与えられた時間もお金も、自分の意志と決断で用いるわけです。しかし、なおその決断に、わたしたちは、聖霊の導きがあると信じているわけです。

 わたしは昔、ある青年から、先生はどうして麻美さんと結婚することが、神様の御心だと分かったのですか。どんな導きがあったのですかと、そんなことを聞かれました。きっと、なにか神秘的で素敵な導きでもあったと入ってあげたら良かったんでしょうけれども、残念ながら、そんな特別なことはなかった。ただ、わたしがその方に申し上げたのは、二人が出会い、やがて結婚について祈る決断に導かれ、やがて結婚という決断をしたという、それがまさに聖霊の導きだと信じている、ということでありました。

 聖霊に導かれるということは、なにか自分の意志がなくなって、我を忘れたようになることではありません。祈りに導かれ、そして、自分の意志と自分の責任をもって決断していく。そこにまさに聖霊の導きというものがあるのであります。


 今日の聖書の箇所で、パウロはこういっています。
16節「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはない。」

 そして肉の欲望とは、19節にあります。
「肉のわざは明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒りなどだと」

 そしてそれに対して、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であります。

 この肉の業と霊の実について、こういう説明を聞いたことがあります。

 「肉の働きというのは、つまり、決断しないで生きることにある。ここにでてくる不品行からはじまる泥酔、宴楽のすべては、はっきりと決心して行うというようなことではない。つまり、祈りをもって決心して好色になるとか、人をそねむことにするとか、そういうことはない。反対にこれらの肉の働きは、畑の雑草のように、わたしたちの心が油断しているときにこそ、不決断であるときにこそ、芽を出し、生い茂ってくるものだ。つまり、ずるずるべったりにそうなるのだ」
 「そしてそれに対して、霊の導きによって生きるということは、決断して生きることだ。愛をもって仕える、ということはずるずるべったり愛をもって仕えようとなどということは起こりえない。他の人を心から愛し、これに仕えること、これはいつも決心を要する。もっと祈ることを決断しなければできないことだ。したがって真実の自由とは、ずるずるべったりにわけのわからないことをやることではなく、真に自分の行くべき道を行くことであり、なにをするかについて決心し、決断することだ」と、そのように述べていて、大変教えられました。

 肉とは自分の欲望にずるずるべったり。しかし霊の導きとは、決断へと導くということであります。

 パウロは、13節で、あなたがたは自由を得るために召されたのだといいました。自由とは、つまり、他人に支配されるのでも、律法に支配されるのでもなく、自分で決断出来るということであります。それは、聖霊に導かれる、キリストの霊に導かれる、そういう決断であります。互いに愛することも、互いに信じることも、互いに仕えることも、これは、聖霊によって引き起こされる決断なのであります。

 わたしたちは悪い事をする時には、いつもずるずるべったり、何かに流されるようにして、決断をいたしません。
 これくらいいいかな、もっと大丈夫かなと「好色」に走ったりする。もう、これでやめようと決断しないから、飲み過ぎて泥酔してしまう。ずるずるべったりの仲良しグループのなかで、陰口、うわさ話がはびこっていく。

 もちろん、間違った決断をすることもあるでしょう。決断すればいいということでもない。しかし、間違った決断なら、戻ってくることができる。なぜなら、間違ったという、罪の自覚があるからであります。
 しかい、ずるずるべったり肉に縛られ、陰口、うわさ話、仲間争いをしているときには、自分の罪に気がつかない。自分の肉に気がつかないわけです。



 もうなくなったのですが、井戸垣彰という牧師先生が、「聖霊に導かれて進もう」という本を書きました。キリスト者の肉の問題に鋭く切り込んだ本で、ぜひ、皆さんにも読んで頂けたらと願っていますけれども、その本の冒頭に、こんな言葉が書いてあります。

 「何年か前、ある教会のご奉仕に伺ったとき、集会の後で一人の方から個人的な相談を受けた。
 教会のある大切な奉仕を担当し、自分なりに精一杯やっているつもりであるが、先生がいちいち細かい点を言い過ぎる。これではやる気がしない、というような相談だった。
 お話を聞いた後、私は次のように答えた。

 確かに先生の言い方は悪いだろう。ほめないで欠点だけ指摘されたら、やる気を失うに違いない。だが先生の側のことは別にして、先生に対して怒っている、そのあなた自身の怒りはどうなのか。

 その方は虚をつかれたようにはっとして、「そうでした、わかりました」と答えた。

 この方とおなじように、わたしたちはいろいろな問題に苦しむとき、相手方や、事情の悪さにだけ心の思いを向ける。そして、必死になってこらえ、相手をゆるそうとし、何とか持ちこたえようとする。そして、相手の悪に対して怒っている自分に対しては、光を当てようとしない。相手が悪いのだから怒るのは当然ではないか、と自分を正当化してしまう。
 最近いただいた手紙もそうだった。自分が試練にあって苦しんでいるのに、教会の牧師は十分わかってくれるどころか、あれこれ注意する。言いたいことを言わせない。教会をかわりたい。このような手紙だった。

 私はズバリ返事を書いた。自分のことを分かってくれないと不平を言うあなたの自己愛がわざわいの中心であり、それに目をつぶって周りを攻撃するのは、的はずれである、と。
さいわい、「求める中心がわかりました」とご返事を頂いた。」


 わたしたちは、キリストの導きに従って生きる信仰生活を始めたのに、いつのまにか、自分の思いを、ずるずるべったりと肯定する、肉に舞い戻ってしまうのであります。そしてたとえイエスさまが赦せと言っても、自分は赦せないと、イエスさまの御言葉よりも、自分の思いを肯定してしまう。イエスさまが互いに愛しなさいと言われていても、愛したくないという自分の思いをずるずるべったり肯定してしまう。それが肉なのであります。聖霊に導かれるというのは、そういうずるずるべったりの肉にむかって、いや、わたしはそれでも御言葉にしたがって、生きると決断することであります。それでも赦します。それでも愛します、それでも仕えますと、決断することであります。そうやって決断するとき、聖霊はその歩みを助けて下さる。できないできないといっていないで、決断します、主よ、助けて下さいと祈って前進するのが、御霊に導かれる歩みなのであります。

 二五節でパウロ
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しよう」といいます。
 霊の導きに従って生きるなら、その導きに従い、決断して前進するのであります。
 ですから、霊の導きによって歩むとは、決断していきることなのであります。それは、自分の肉と闘い、それを振り切って御言葉に立つ決断であり、愛に生きていく決断であります。そしてその道を選び取るわたしたちを、聖霊は助け導いて下さるのであります。


 わたしたち家族が酒田に行く決断をしたのも、聖霊の導きであると信じています。そしてその決断をして歩む歩みを、聖霊が助け導いて下さると信じています。
 そして、教会もある意味、ずるずるべったりではなく、無牧という決断をしたのです。このような決断のなかに、聖霊の導きを信じるのであります。

 確かに、これからの教会のことを思うとき、不安もよぎるかもしれません。
 しかし、パウロは、聖霊の結ぶ実は、「愛、喜び、平和」と言っています。聖霊によって決断したのなら、「愛、喜び、平和」の実が実る。これは、単なる感情の話しではありません。愛もまた、決断です。たとえ嫌いな人であろうと愛するという、そういう決断へと、聖霊は私たちを導いてくださるわけであります。

 そして、喜びという実も、単なる感情のことではありません。喜びというものも、ある意味決断なのであります。

 喜びの手紙である、ピリピの信徒への手紙は、パウロが獄中のなかで書いた手紙です。とても普通では、喜べる状況ではないなかで、しかし、そのなかで「喜びなさい」と彼は書いた。たとえパウロを苦しめようとする人がいても、それがクリスチャンの仲間であったとしても、それによってキリストが告げ知らされていることを、わたしは喜ぶと、パウロは書くのです。

 ですから、喜びとは、単なる感情ではないのです。喜ぶことも、自分の意志で選び取ることであり、決断することなのです。だからピリピの教会にむかってパウロは、「喜びなさい、重ねていうが、喜びなさい」とパウロはいうのです。喜ぶこともまた、聖霊に従うなかで、自分の意志で選び取ることだからです。

 こんな状況で、喜べるわけがないだろうと、言いたいそんな状況の中で、ずるずるべったり、自分の愚痴や悲しみのなかに埋没して、ああ自分はなんて可哀想なんだと、他人を責め、自分を責める。そんな肉の中をパウロは生きなかった。彼は肉ではなく、霊に導かれることを選んだのであります。それはつまり、このような状況の中で、とても喜べない状況の中で、喜ぶ決断をすることだった。それが聖霊に導かれることだったのであります。そして、ここにこそ、本当の自由があるのであります。

 愛しえない人を愛する決断も、喜び得ないことを喜ぶ決断も、聖霊によってわたしたちにそれを選ぶ自由が与えられている。それが聖霊に導かれて生きる自由であります。


 ゆえに、霊の導きを信じ、霊に助けられて、御言葉に従っていきる自由を、ともに生きていきましょう。この世界が切に求めている自由を。互いに愛し合い、ゆるしあい、仕え合う自由を、聖霊に導かれていきぬいて参りましょう。