「わたしたちは神のもの」(2018年7月1日 主日礼拝メッセージ)

1ペトロ4:7-11

今日、朗読されたペトロの手紙は、こう語り始めす。

「万物の終わりが迫っています」

なにか、顔に水をいきなり浴びせられたような、

「はっと」させられる宣言です。

ほかの聖書の翻訳では、「万物の終わりが近づきました」と、時が近づいたと訳しています。

つい、毎日同じような日常のなかに生きていると、

このまま、この日常が、いつまでも終わることなく、いつまでも続いていくのだと、錯覚してしまいますけれども、

一人一人の人生の時間は、日常は、確実に終わりに向かって、今日も進んでいるという、この当たり前のことに、

神の言葉を前にして、向き合わさせられます。

この世界も、私たち一人一人のいのちも、

神が創造し、神が始め、そして神が導き、神の時に、神が終わらせる。

しかし、わたしたちにとって、その終わりの日とは、失望の日ではなくて、希望の日。

罪に悩み、苦しむ、この世界のなかで、

しかし神は、主イエスキリストによって、この世界、そして私たちを罪から救い、

やがて終わりの日に、神の救い完成し、もはや苦しみも、悲しみも、涙もない、新しい天と地に生きることになる。


このペトロの手紙を受け取った、最初の頃の教会の人々は、この希望によって、迫害と苦難のなかを生き抜いていきました。

それから、2000年以上の時が流れましたけれども、

今も、この「万物の終わりの日が迫っている」ということ。つまり「救いの日が近づいている」ことは、なんら変わっていません。

おそらくこの世界の終わりの日がくるよりも、私たちの一人一人の人生の終わりが来る方が、早いでしょうけれども、

やがて神さまとお会いする、その終わりの日を意識しつつ、今日という日を生きるのが、信仰生活であることは、

初代の教会の人々も、わたしたちも、全く同じだろうと思います。



今月は「信仰生活を考える月間」として、一ヶ月を過ごします。

つい、あたりまえになりがちな、毎週の礼拝、神を信じる「信仰生活」について、新たな気持ちで、向き合い、見つめ直したいと願っています。

今日は、その最初として、「わたしたちは神のもの」というテーマを掲げました。

そもそも、誰一人として、自分の命を、自分の意思によって始めた人はいないわけです。

神が愛と目的をもって、人生を始めてくださり、神が今日まで導き、そして、神が愛をもって、やがて終わらせ、完成してくださる。

今わたしたちは、そういう神から預かった命、賜物、人生そのものを、生きています。

「わたしたちは神のもの」


そして、パウロは、コリントの手紙の中で、イエスキリストを信じて、心の底に、聖霊をいただいた人々に、こういいました。

「知らないのですか、あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と。

神から目をそらして、自分のしたいこと、自分のため、自分、自分と、生きてきてしまった、その罪が、神の子イエスキリストを十字架に付けたことに気づかされ、

そのわたしたちの罪のゆえに、十字架のうえで流された、主イエスの血が、

私たちの罪を赦し、罪から解放してくださることを、知った人々の中に、神の霊が、聖霊が宿ってくださっていることを、パウロは語ってきたのでした。

聖霊は、自分のために生きる力ではなく、神のために生きていく力。知恵、愛という賜物を与えて下さいます。

その、聖霊の賜物は、一人一人に違う現れ方をしますが、

働きや現れ方はちがっても、同じ聖霊に導かれているのなら、心をあわせて、ともに、神の栄光のために生きていくことができる。

そういうキリストの体に、わたしたちは繋げられていると、パウロは教えています。


さて、今日のペトロの手紙では、そのことを、少し違った言い方で、こう表現します。

10節
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語るものは神の言葉にふさわしく語りなさい。奉仕する人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。」と。

大切な言葉が続いています。

今日、もっとも注目したいのはこの言葉です。

あなたがたは、「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」という言葉です。

「管理者」と訳されている言葉は、英語の翻訳では、「スチュワード」です。


昔、飛行機の客室乗務員の女性のことを、スチュワーデスと言いましたね。

その時代は、あのスチュワーデスの男性版がスチュワードですよと、説明したりできましたが、今はできなくなりました。

この「スチュワード」という言葉は、日本語に訳しにくいのです。「管理者」という翻訳だと、なんだか管理職のような固いイメージになってしまうのですが、スチュワードは、日本語の「管理者」という言葉のイメージとは、ちょっとちがうようです。

主人が僕を愛して、預けてくださった宝を、大切に大切に、生かしたいと願う。そんな僕の心というイメージのほうが、スチュワードに近い。

主イエスが、5タラント、2タラント、1タラントを、主人から預けられた僕の例え話をなさいましたね。

主人を恐れて、土の中にそのタラントを埋めてしまった僕は、主人から叱られてしまうというこの例え話も、

それぞれに、すでに与えられているタラント、賜物の、よいスチュワードとは、どういうことなのかを、感じ取る例え話でしょう。


よい「スチュワード」として生きる。スチュワードの精神を、スチュワードシップといいますけれども、


それは、なにか、自分が神さまのために頑張らなければ、神さまに裁かれ、見捨てられてしまうというような、恐れに動かされる、奴隷状態のような、律法主義とは、全く違います。


むしろ反対に、主が私たちに仕えてくださったから。

僕のようになって、その命をさえ、わたしたちのために、十字架のうえに捧げてくださった、その愛に感動して、

主に愛されている、ありがたさゆえに、この愛に応えたい。ただ、感謝したい。

この主に愛されている「僕」の心こそ、

スチュワードシップであるのです。


ですから、これはなにも目新しい話でも、難しい哲学でもなく、

ただ、このわたしは、主に愛されています。愛されて、沢山の恵みをいただき、生かされています。ただただ、そのことが感謝です、というシンプルな信仰に立ち返るだけの話なのです。


神のものである自分。神のものであるあなた。

そのお互いが、同じ神の恵みを喜んで、神に愛されているお互いとして、

恵みを分かち合っていきる。これは実にシンプルなはなしです。


これがシンプルさを失って、なにか難しいことになってしまうとすれば、


いつのまにか、「自分は神のもの」というよりも、やはり、自分のものは自分のものと、なにか、ひっしに守るものが増えてしまい、心が不自由になっているのかもしれません。


信仰生活の中に、なにか、これは、神さまから隠しておきたい。これは自分のものにしておきたいという、そういう要らないものがたまってしまったら、

信仰生活の喜びを回復するために、単純、シンプルな信仰に立ち戻りませんか。

信仰生活のだんしゃり、ですね。

どうせ、自分のものにしていても、神の国にはもっていけないのですから、いらない荷物は整理しておきたい。


「万物の終わりが迫っている」のですから。

ペトロの手紙が書かれたときも、そして、今も、明日、主の時がやってくるかも知れないという意識を持つことは同じこと。

だれ一人として、明日も今日と同じ日だと、わかるわけがないのですから。


そういう終末を意識して、今を生きる人々に、ペトロの手紙は、こう告げます。


7節後半。

「思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい」と

ほかの訳では「祈りのために、心を整え身を慎みなさい」となっています。

終末を意識して、今を生きるということは、どうせ終わりが来るのだから、今を楽しめという、軽はずみな生き方にはならない、ということです。


むしろ、終わりの日をイメージするからこそ、思慮深く、慎み深くあるようにと、ペトロの手紙は語ります。

明日、終わりの日がくるとしても、


なにも慌てず、思慮深く、身を慎み、祈るようにと、言うのです。

あのマルティンルターの、たとえ明日終末がくるとしても、今日、わたしはリンゴの木を植えるといった、有名な言葉を思い出します。

終わりの日をちゃんと見据えるからこそ、

人生の時間は限られているからこそ、

慎み深く、思慮深く、祈る生き方になっていく。

わたしたちの教会には、そのような信仰の先輩方が、沢山いてくださいます。

まだ50代のわたしなどより、何十年も長く、人生の嵐を経験し、思慮深くされた方々がおられます。

先週は、シメオン会がありましたけれども、思慮深く、慎み深い、信仰の先輩方との交わりは、「ほっとさせられ」て、いいですよ。


身を慎しみ、教会のために祈り続けてくださっている方々が、沢山いてくださるからこそ、わたしたちの教会は、柔らかな雰囲気を造っています。

先週も、初めて来られた方が、教会の温かな雰囲気に感動しておられました。

また、先週は神学校週間の礼拝でしたけれども、メッセージを語ってくださった吉村和子神学生が、後日わたしにこのようなメールが送ってくださいました。

「証とメッセージの奉仕をさせて頂き、本当にありがとうございました。
教会学校から参加させて頂き、礼拝後には昼食もご一緒できましたこと、心より感謝申しあげます。

神さまが教会の皆さまの内におられ、ご聖霊が豊かに働いておられることを実感し、

わたしにとっても大変貴重な体験でした。


本当に、「ほっとする」温かい教会ですね。」




嬉しいですね。「ほっとする教会」というのは、最高の褒め言葉だと思います。

「なにか、とても忙しそうな教会ですね」といわれるよりも、

「ほっとする教会ですね」といっていただくほうが、嬉しいことです。

なにげない愛の配慮、ホスピタリティーを感じられるのでしょう。



9節でも、「不平をいわずにもてなしあいなさい」といわれています。

ただ「もてなしあえばいい」ということではないのです。

わざわざ「不平をいわずに」と、ついていることが、ポイントです。

つい、善いことでも頑張りすぎると、「不平」が口からでてくるものです。



あの、マリアとマルタの姉妹の話もそうでした。

エスさまを一生懸命もてなそうとした、姉のマルタは、その一生懸命さゆえに、なにもしないで座っていた、妹のマリアに対する「不平」が、口から飛び出したわけでした。

「イライラ」や「不平」が飛び出したら、もてなしになりませんね。

とても「ほっと」などできません。

ホスピタリティー。愛の配慮を、「不平」「不満」から守らなくてはなりません。



そのために必要なのが、思慮深く、身を慎んで「祈る」祈り、じゃないでしょうか。


お互いに対する愛を、スチュワードの心を、汚してしまう「不平」「不満」から、

私たちを守るもの。それは「祈り」


この、祈りがなければ、「ほっとする教会」もないのです。


人間の集まるところ、いつも、互いに「不平」や「不満」が渦巻いているものです。

いいことをすればするほど、心の中にイライラが溜まってしまうこともあるでしょう。

牧師も、罪深い人間ですし、沢山失敗もしますし、人に不快な思いをさせることも、沢山しているでしょう。

それは、わたしのことを、一番そばで見ている、妻や子どもたちが、その一番の証人です。

牧師のどうしようもなさは、しょうもなさは、私の家族によく聞いてみたら、わかります。


でも、みなさんも同じでしょう。

いや、自分は100%正しく生きている、という方はおられますか。

ぜひ、ご家族に、取材に行ってもいいですか。


聖書が、正しい人はいない、一人もいない。すべての人は罪を犯し、無益なものとなったと、告げてくれていることは、むしろ救いです。

そんな、自分は自分を救えないと、自分に失望し、

主イエスの十字架の救いに、すがることができる人は、実に幸いです。


神の愛によって、罪の破れを包んでいただいていた人は、幸いです。


8節でこう言われています。

「なによりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」

罪を責めてみても、どうにもなりません。罪は、赦されるしかないからです。

キリストを十字架につけた、人間の罪も、ただ、神の憐れみによって、赦されるしかないように。

罪の破れは、愛によって覆われるしかありません。


しかし、破れてしまった袋も、布で覆うなら、また使うことができるように、

主は、わたしたちの罪の破れを、十字架の愛によっておおってくださいました。

わたしたちは、その神の愛とゆるしを知り、自分のこととして体験したので、

今、ここに集まり、そして、このあと、主の晩餐式に与るのです。


その神の愛に罪を覆われたわたしたちに、パウロは、


「主があなた方を赦してくださったように、あなたがたもゆるしあいなさい」と、チャレンジしました。


互いに愛し合い、愛によってお互いの罪を覆いなさいと、言われています。

わたしたちは、みんな、神に愛されている、神のものだから。

神のものとされている、仲間であるからです。


この神の愛にこたえ、互いに愛し合い、ゆるしあっていきるなら、


神の栄光が、豊かに現わされていくのです。