祈りの生活に入る

ある機関紙から依頼された文章をここに公開します。
「祈り」をテーマにした6回シリーズの1回目です。



 祈りについて書くようにと依頼を受けて、なかなか祈れない私が祈りについて何を書けばいいのかと、戸惑いつつ書き始めています。この機会をいただいて、むしろ自分自身が祈りについて、聖書のみ言葉と向き合い問われ気付かされたことを分かち合えればと願っています。半年の間、よろしくお願いします。

●わたしたちにとって「祈り」とは?
 わたしは26歳でバプテスマを受けました。クリスチャンの家庭で育ったわけではなかったので、教会生活を始める中で少しずつ「祈る」という体験を重ねて来ました。当初、私は「祈り」とは、なにかマラソンや跳躍のように、訓練や努力によってだんだん身につけていく、霊的な修行のようにイメージしていました。信仰の先輩方の祈る言葉を真似ることから始まり、聖書や説教の言葉、「祈り」に関する本を読み、神に対する呼びかけ方や、神賛美の言葉、悔い改め、とりなし、願いの言葉など、一通り「祈り」の要素や言葉について、知識として学びました。そういう知識がなければ、ちゃんと祈れないのではないかと思っていたからです。
 しかしそのようにして「祈り」に関する知的な理解を深めても、「祈り」が容易になったわけではありませんでした。特に、教会において人前で祈らなければならない時には、周りの人が自分の祈りをどのように聞いているのかが気になり、心から神に向かって祈っているとは言えない祈りをしていることもしばしばでした。さらに、熱心な信仰者や説教者が「もっと祈るべき」「祈りが足りない」という言葉を語ることがあり、そのような言葉を聞くたびに、自分の「祈り」の少なさが責められているように感じていました。その頃は、聖書を読んでいても、なにか自分の祈りの少なさが責められているように感じることが多く、たとえば福音書の主イエスの言葉の中で「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」と、女性の訴えを取り合おうとしない不正な裁判官に、あきらめず訴えつづける女性のたとえを見つけると、そこまで熱心に忍耐強く祈れない自分を責め、また、ゲッセマネの園で祈る主イエスのそばで眠ってしまった弟子たちに「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と主イエスが語った言葉が、自分への叱責の言葉のように感じられて、「祈り」が辛く、重荷のように感じる時期がありました。
 以前の私にとって「祈り」とは、日常のなかにある自然な営みというよりも、宗教的な修行や、怠けようとする体を打ちたたき、朝早くから行う訓練のようなイメージを抱いていたのです。その結果「祈り」が重荷となり、「祈り」における喜び、平安を味わうことから遠ざかっていました。今の私はそのような「祈り」のイメージから解放され、自由にされましたが、もし皆さんの中で、今号のテーマ「祈りの生活に入る」という言葉を聞いた時に、なにか「祈りの修練、訓練の生活に入る」というイメージで受け取り、それゆえに「祈り」そのものが重荷になってしまっている方がおられるなら、まずそのような「お勤め」「しなければならない重荷」という、ネガティブなイメージを、払拭していただきたいのです。
 あらためて問いかけさせてください。主イエスを信じるクリスチャンにとっての「祈り」とは、なんであるのかと?

●天の親と子の交わり
 福音書の中で、弟子たちから祈りを教えてほしいと願われた主イエスは、神に向かって「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6:9)と呼びかけて始まる祈りを教えてくださいました。それまで弟子たちは、このように神に向かって「父よ」と親しく呼ぶ祈りを知らなかったことでしょう。主イエスはどのような立場の人も分け隔てなく「父よ」と神を呼ぶようにと教えられたのです。
 さらに使徒パウロは、ガラテヤの手紙4章6節において「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」と語ります。もちろん「父」という表現は、信仰者と神との関係を現わすメタファーです。神に性別などありません。信仰者と神との関係が、親と子の関係にたとえられているのです。しかも「アッバ」という幼子が親を呼ぶときの表現で言い表すほど、神は私たちを、深い愛と信頼関係の中に導き入れてくださった。全宇宙を創造された聖なる神を、「アッバ、父よ」と呼び祈ることが許されている。これ以上の特権はありません。
 ですから、神を「アッバ、父よ」と心から呼べる人にとって「祈り」は、訓練や修行によって習得する技能であるわけがないのです。神は主イエスにおいて、私たちを神の子、天の親の子としてくださった。神との親しい愛の交わりに今や私たちは入れられている。天の親子の愛のコミュニケーション生活に入れていただいた。それが「祈りの生活に入る」ということです。

●祈りと聖霊
 さて使徒パウロはエフェソの手紙6章18節の前半で、こういうことを語ります。「どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者のために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」
 パウロはここで、聖霊に助けられて祈るようにと言います。「絶えず目を覚まして根気よく祈る」ことも、聖霊に助けられて祈ることにおいて実現するものなのでしょう。そもそもクリスチャンにとっての「祈り」とは、天の親と子の親しい交わり。交わりを実現する聖霊の助け、働きがなければ、「祈り」はむなしい独り言になってしまいます。私たちがどのような言葉を連ねて祈ってみても、そこに聖霊の助けと働きがあって初めて、それは天の親と子の交わり、「祈り」になる。いや、むしろ聖霊の助けと働きを受けているからこそ、私たちは祈ることができるのでしょう。
 「アッバ父よ」と心から安心して呼びかけ、「愛する子よ」と語りかける天の親の言葉を聴く。聖霊によって実現する、神と人との交わりの奇跡。それが私たちの「祈り」。

●聴くことから
 生まれたばかりの赤ちゃんは、お母さんからなんどもなんども「大好きよ」「かわいい子ね」と、愛の言葉を聞きながら育っていくものです。たとえまだ赤ちゃんが自分の語る言葉を理解していないとしても、親は根気よく子に語り続けます。そしてやがて時が過ぎ、親の言葉を聞き続けた赤ちゃんの口から、最初の一言がほとばしり出る日がくるのです。
 天の親と私たちの愛の交わりが「祈り」ならば、私たちが神に向かって語るより前に、むしろ天の親の方こそが、子である私たちに根気よく語り続けておられるのではないでしょうか。預言者サムエルは「僕は聞きます、主よお語りください」と祈りました。私たちの祈りも自分の心の思いを一方的に語る独り言ではなく、天の親の愛のみ言葉を心に思い巡らしつつ、心から溢れ出る言葉をもって祈ることができますように。天の親と子の交わりとしての祈りのイメージを大切にしたいと思います。

●話し合いのために
・私たちの「祈りの生活」について、バプテスマを受けた頃、試練の時を振り返り、そして今の状態を率直に分かちあってみましょう。