「十字架につけよ」(2017年4月2日花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書23章13節〜25節

 礼拝のなかで2年間に渡り、読み進んできたルカによる福音書も、いよいよクライマックスです。今日の聖書の箇所は、重い内容ですから、立ち止まらず、さっと読み過ごしてしまいたいと、そういう思いも湧き上がるかもしれません。

牧師はいつもメッセージの準備をしながら思っているのです。

今日、はじめて教会に来られた方がいるかもしれない。その方にわかることばで、神様の愛を伝えたい。

そして同時に思うのです。自分の耳に心地よい言葉だけを選んで、語ってはいけない。

耳が痛くても、心に痛くても、聖書が語っていることばを、まっすぐに聞き取りたい。

そういう葛藤を感じつつ、あとは主にゆだねて、いつもここに立たされています。

この、かつては、主イエスの教えに感動した民衆が、

「ホサナ、ホサナ。イスラエルの王」と、喜びの叫びをあげて、従ってきた民衆が、

その同じ口から「その男を殺せ」「十字架につけよ」と叫んだのだという、この重い出来事を、

気持ちが重くなるから、耳に痛いからと、読み飛ばしてしまうなら、

同時に、このような人間を、なお愛し、救う、神の愛の大きさ、恵みの深さも、分からなくなってしまいます。

キリストの復活は、十字架なしにはやってこない。イースターは、主イエスの復活の希望は、

主イエスに向かって、十字架につけよ叫んだ、この人間の絶望的な姿と、一つのこと。

十字架と復活は、一つ。人間の絶望と、神の救いは一つ。

悲しみと喜びは、一つのことであり、喜びだけ切り離して味わうことはできないのです。

ですから、今日、わたしたちは、この「十字架につけよ」と叫ぶ人間の姿を、わたしたち自身が抱えている罪の問題として、目をそらさないで見つめたいのです。わたしたちが、そこから救われるためにも。


 さて、ユダヤの権力者たちに捕えられた主イエスは、ユダヤを支配していた、ローマ帝国が派遣した、総督ピラトのもとに連れてこられました。

このとき、死刑を行う権限を持っていたのは、ピラトだけだったからです。主イエスがじゃまなユダヤの指導者たちは、ピラトに引き渡して、イエスを十字架につけ、殺してしまいたかった。

そこで彼らは、このイエスという男は、民衆を扇動し、ローマに反乱を起こそうとしている、危険人物であると、訴えたわけです。

この時代は、そのようなローマに反抗する危険人物が沢山出てきていた時代です。

今日の箇所で、主イエスの代わりに釈放されることになる、バラバもその一人です。強大なローマの抑圧に対して、今で言うところの「テロ」を引き起こす人が、後を絶たなかった。そんな危険人物、指導者は、ローマによってみんな十字架につけられたのです。

だから、このイエスのことも、民衆を扇動している危険人物であると訴えれば、イエスを十字架につけることが出来ると指導者たちは考えた。

ところが、主イエスを尋問し取り調べたピラトは、彼らが訴えられているような、事実を見つけられなかった。

民衆を扇動して、ローマへの「テロ」を画策している事実はなかった。

 今の時代でたとえるなら、国会で議論している、「共謀罪」いや、「テロ等組織 犯罪準備罪」が制定され、そういう法律が出来たとしても、主イエスはそれに引っかからなかったということです。

実際、そういう事実は本当になかった。むしろ主イエスは、そのように誤解される言動を、あえて避けてこられたのだから。

それに、総督ピラトにとっても、民衆が騒ぐようなことは避けたい。余計な死刑はしたくない。

だから、主イエスを鞭で打つだけで、釈放しようとするのです。

ですから、主イエスはここで釈放されてもよかったのです。殺されなくてもよかったのです。


 ところが最後に、民衆が叫び始めた。「その男を殺せ。バラバを釈放せよ」と叫び始めた。

ピラトが、この男を釈放しようと呼びかけても、人々は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。

ピラトはいいます。

「いったい、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる犯罪はなにも見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と。

しかし人々は「イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続け、その声はますます強くなった」のです。

やむなくピラトは、彼らの要求を飲みます。バラバを釈放し、主イエスを彼らの好きなようにさせることにした。

つまり十字架につけるために、引き渡してしまった。


さて、水曜日の夜のお祈り会で、いつも集う人々と、礼拝において語る聖書の箇所を共に読み込みます。ある意味、一緒に、2時間近く、このメッセージの準備をしているのです。

そこで、わたしはそこに集う皆さんに、質問したのです。

なぜ、あれほど主イエスの言葉に感動し、期待し、ついてきていた民衆が、最後の最後になって、「あの男を殺せ」「十字架につけよ」と叫んだのかと。

ユダヤの指導者たちは、主イエスが人々を扇動したといったが、むしろ、指導者たちこそが、民衆を扇動して、「十字架につけよ」と叫ばせたわけです。

いったい、どうやったら、こんな扇動ができるのでしょう。

今まで、ユダヤの指導者たちは、主イエスを捕らえたくても、民衆が主イエスを慕っているから、手が出せなかったのです。

その民衆をどうやったら、「あの男を殺せ」「十字架につけよ」と、たった数日のうちに、扇動することが出来たのでしょうと、質問してあ。


そして、共に2時間近くこのことを考え、語り合いました。そして、出た結論はなにか。

それは「わからない」ということでした。

もちろん民衆は、主イエスのことを、ローマを倒すメシア、キリストだと期待していたのに、その当てが外れて、失望したから、「その男を殺して、革命のために、役に立つ、バラバを釈放せよ」と、叫んだのは、わかる。

民衆は、ローマを倒すはずと思っていたイエスが無力に捕らえたので、期待を裏切ったので、「十字架につけよ」と叫んだということはわかる。

しかしたった数日の間に、そこまで扇動した、ユダヤの指導者たちは、いったいなにをしたのか。どういうことをいったのか。民衆の中で、どういう心の変化が、起こっていったのか。そこがわからなかった。

福音書はまったく民衆の心理を語らないのです。書かないのです。

いや、書けなかったのではないか。それが、お祈り会で話し合うことで、気づかされたことなのです。

ここでどういう言葉が交わされ、民衆の心の中で、なにが起こったのか。

それを書きあらわすことなど、出来ないのだ。

人間の心の中のどろどろとした部分を、書き表すことはできない。


わたしは、連想するのです。

たとえば、こういうことがあるでしょう。

あの普段おとなしい人が、なぜ、あんなことをしてしまったのか。

どうして、あのやさしい人が、こんなひどいことを、してしまったのか。
その心の動きを、言葉にすることが、できるのか。


それは、自分自身を振り返ってみても、なんであの時、あんなことを言ってしまったのか。やってしまったのか。

カーとなって、言ってはいけないことを言い、やってはいけないことをやってしまったのだ。

その心動きを、文章に書き表すことなど、できないでしょう。ただ「かーとなった」としか言えないでしょう。

しかし、理由がどうであれ、一度「言ってしまったこと」「やってしまったこと」は、もう、取り返しがつかないのです。

民衆がどういう理由で、カーとして「十字架につけよ」と叫んだのか。その理由を知ったところで、

「十字架につけよ」と叫んでしまったという事実は、二度と取り消せないのです。

わたしたちが、かーとして、誰かに対して、口走ってしまった言葉も、誰かに対して、行ってしまったことも、


あのときは、疲れていたんです。イライラしていたんですといってみても、なかったことにはできない。

その意味で、なぜ民衆が手のひらを返すようにして、「十字架につけよ」と叫んだのかと、理由を詮索することに、意味はないのです。

重要なことは、その理由にあるのではない。そうではなく、人々は確かに、主イエスに向かって、「十字架につけよ」と叫んだという、事柄にあるのです。


主イエスは「十字架につけよ」と人々から叫ばれたのです。

福音書が語っているのは、なぜ人がそんなことを言ったのかという、心理分析ではなく、、

主イエスは、人間から、「十字架につけよ」と叫ばれたのだという事実であり、

神の子であるお方が、人から見捨てられ、捨てられたという事実なのです。

福音書は、この主イエスの視点から、人間の姿を映し出しているのです。

言い換えるなら、人間の視点ではなく、神の視点から、ピラトやユダヤの指導者、そして民衆の姿を、まっすぐに映し出しているのです。

それぞれの人間が、自分の視点からみて、正しいと思うことをしている、その姿が、

主イエスの視点からみるなら、神の子の視点から見るなら、実に残酷で、的を外していることを、

そして、人々は、自分が正しいと思うことを行い、結局、バラバを選んで、主イエスを十字架につけていったことを、

主イエスの視点から、淡々と福音書は語るのです。

人々は、これこそが正しい判断だと信じ、

心から、叫んだのです。
「その男を十字架につけ、バラバを釈放せよ」と。

ああなんと、人間というものは、自分の視点からしか、ものごとが見えないのでしょうか。

自分のしていること、言っていること、叫んでいる姿が、主イエスから、どう映っているか。

神の視点からみたら、どれほど的を外しているか。


その愚かさ、醜さに気づけないまま、人はいつも誰かを傷つけ、神の御心を悲しませているのです。


人は、自分の顔を、自分の目で、直接見ることは、できないのですから。

鏡で見ても、写真やビデオでみても、それは、本当の自分の姿ではないように、

人は、決して自分自身の視点から、自分の本当の姿を見ることは出来ないのです。

本当の自分の姿を、曇りなく、まっすぐご覧になっているのは、神だけ。

そして、主イエスだけ。

福音書は、この主イエスの視点に移る、人の真実の姿を映し出します。

自分では気づくことのできない姿が、映し出されています。



さて、そうであるなら、逆に、こうも言えるのです。

もし、私たちが、自分自身の姿を、この民衆のなかに見いだすことができるなら、

実は、わたしも、あの民衆の一人なのだと、自分の姿を、この民衆の中に見出すことができるなら、

その人の目は、今、主イエスの視点に立っているといえる。

主イエスの視点から、自分を見ているといえる。

主イエスの視点からみえる、本当の自分の姿に気づいているといえる。

それこそ、神の恵みによって、聖霊の働きによって、

自分の視点を超えた、主イエスの視点から見える、自分自身の姿を見ている。

その、本当の自分の姿を、見出した人は、幸いです。

それは、たとえ直視できない自分であったとしても、
認めたくない、自分の見にくい罪の姿であったとしても、

その自分を、すでに主イエスは赦しておられることに、その神の愛と出会うことであるからです。

この後、十字架の上で主イエスは祈られます。

「父よ彼らをおゆるしください。彼らは自分がなにをしているのか、分からずにいるのです」と。

実は、自分の視点からしか見えていないまま、自分がやったこと、言ったこと、叫んだことが、どれほど人を傷つけ、神の御心を悲しませてきたこと、まったく分からないまま生きてきたにも関わらず、

主イエスによって、わたしたちはすでに赦され、そして今日の日まで生かされて来た。

そのことに、気づいて、感謝を献げることが出来る人は、幸いです。

ひとつ、その「気づき」のために、第二次世界大戦末期の、ある出来事をお話しさせてください。

 早く戦争を終わらせたい。そういう願いのもとに、決死の覚悟で、危険な飛行任務に出発する兵士がいました。その兵士たちのために、チャプレン、牧師が、こう祈りました。

「全能の父なる神よ、あなたを愛するものの祈りをお聞きくださる神よ、わたしたちはあなたが、天の高さも恐れずに戦いを続けるものたちと共にいてくださるように祈ります。彼らが命じられた飛行任務を行うとき、彼らをお守りくださるように祈ります・・・・・そしてあなたのお力を身にまとい、彼らが戦争を早く終わらせることが出来ますように。戦争の終わりが早く来ますように、そしてもう一度地に平和が訪れますように、あなたに祈ります。あなたのご加護によって、今夜飛行する兵士たちが無事にわたしたちのところへ帰ってきますように・・・イエス・キリストの御名によって、アーメン」(石川明人『戦場の宗教、軍人の信仰』八千代出版

 これから危険な飛行任務に旅立つ兵士のために、そして戦争が早く終わるようにと、この地上に平和が来るようにと、祈ったこの祈り。このチャプレンが祈った祈りは、感動的な祈りです。

そしてこの祈りによって、1945年8月6日に、広島に原爆を投下するために、「エノラ・ゲイ爆撃機は、出発していったのです。

この平和の祈りは、広島の人々の立場に立てば、まさに、「十字架につけよ」と呪い叫ぶ、祈りではなかったでしょうか。

わたしたちは、自分の視点からしか、物事を見ていないのです。自分がいったい、神の目に何をしているのか、気づいていなどいないまま、分からないまま、自分の正義を、自分の平和を叫び、祈り、沢山の間違いを、取り返しの出来ない、罪を、侵し続けているのではないでしょうか。

「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです」

主イエスは、「十字架につけよ」と叫ぶ群衆たちのために、祈られました。

何をしているの分からずに、人を傷つけ、神の御心悲しませている民衆のために、そして、わたしたちのために、

主イエスはすでに、赦しを祈ってくださっている。

今、ここに集うわたしたちひとりひとりのために。キリストは、すでに赦しを祈っておられる。

わたしたちはこの後、晩餐式を行います。
神の前に、自分がなにをしているかわからないでいるわたしたちの、

人を傷つけ、神を悲しませる、その言葉の剣によって、刺し貫かれた体から、

十字架の上で流れ落ちる血が、わたしたちを罪から救う、神の赦しと恵みになるのだと、

わたしたちは、自分の視点からでは、決して理解できない、

この神の視点から告げられた、救いの宣言を、

この救いの神秘を、天からの恵みとして、信じさせていただいたのです。

この神の愛の視点に立たせていただいて、

今、神に愛され、神に赦されている自分の姿を、見ることが出来るようになったのです。

その神の愛の視点に立ったわたしたちは、もはや、誰に対しても、「十字架につけよ」「あなたなどいらない」とは叫びません。叫べません。

主イエスに愛され、赦されている、自分の姿を、知ったのだから。

むしろ、まだその主イエスの眼差しを知らないで、

自分がいったい、神の目に、どのように写っているのか、なにを言っているのか、なにを叫んでいるのかわからないまま、傷つけている人を、受け止めたい。

神の愛の視点から、自分自身を、あの人を、この人を見つめて、

許し合い、共に生きていく、新しい一週間を、ここから歩み出したいのです。

祈りましょう。