わかりあえないときにできること

人には、

話せばわかりあえる時と場合と、

話してもわかりあえない時と場合があるのです。

話して分かり合える時と場合においては、

大いに語り合ったらいいけれど、

話してもわかりあえない時と場合と気づいたなら、

話すのをやめて

距離をおき

しずかに祈ることです。

私にとっての平和活動

私にとっての平和運動は、福音を語ることなんですよ。

なぜなら、目に見える紛争、暴力、搾取などについての平和問題に関しては、

政治や経済、教育、医療、教育などの処方箋があるけれども、

日々刻々と、目に見えてないところで行われている、

子どもや親に対する虐待とか、

夫婦の間の争い、DVとか、

学校や会社やあらゆるコミュニティーにおける、差別やいじめ、ハラスメントなどは、

政治、経済、医療、教育などの、ある意味「泥縄」の処方箋では、

その闇には届かないし、届いたときには、手遅れだったりするわけでしょう。

このもっとも身近な関係における、平和問題という、

重く重大な課題の当事者は、

ほかでもない、わたしたち一人一人なんです。

そのわたしたち一人一人が、

この重要かつ、もっとも困難な平和問題に取り組んでいくための、

力の源泉が、神の愛と和解の福音。そして神の助けを祈る祈り。

そうわたしは信じているので、

まっすぐに、神の愛の福音を語りつづけ、

神への祈りへ人々を導くことが、

私にとって、もっとも有効かつ重要な平和運動なんですね。

今も、人には隠され、見えないようにされている、

身近なところに、

神の助けによって、平和が実現しますように。

「わたしたちは神のもの」(2018年7月1日 主日礼拝メッセージ)

1ペトロ4:7-11

今日、朗読されたペトロの手紙は、こう語り始めす。

「万物の終わりが迫っています」

なにか、顔に水をいきなり浴びせられたような、

「はっと」させられる宣言です。

ほかの聖書の翻訳では、「万物の終わりが近づきました」と、時が近づいたと訳しています。

つい、毎日同じような日常のなかに生きていると、

このまま、この日常が、いつまでも終わることなく、いつまでも続いていくのだと、錯覚してしまいますけれども、

一人一人の人生の時間は、日常は、確実に終わりに向かって、今日も進んでいるという、この当たり前のことに、

神の言葉を前にして、向き合わさせられます。

この世界も、私たち一人一人のいのちも、

神が創造し、神が始め、そして神が導き、神の時に、神が終わらせる。

しかし、わたしたちにとって、その終わりの日とは、失望の日ではなくて、希望の日。

罪に悩み、苦しむ、この世界のなかで、

しかし神は、主イエスキリストによって、この世界、そして私たちを罪から救い、

やがて終わりの日に、神の救い完成し、もはや苦しみも、悲しみも、涙もない、新しい天と地に生きることになる。


このペトロの手紙を受け取った、最初の頃の教会の人々は、この希望によって、迫害と苦難のなかを生き抜いていきました。

それから、2000年以上の時が流れましたけれども、

今も、この「万物の終わりの日が迫っている」ということ。つまり「救いの日が近づいている」ことは、なんら変わっていません。

おそらくこの世界の終わりの日がくるよりも、私たちの一人一人の人生の終わりが来る方が、早いでしょうけれども、

やがて神さまとお会いする、その終わりの日を意識しつつ、今日という日を生きるのが、信仰生活であることは、

初代の教会の人々も、わたしたちも、全く同じだろうと思います。



今月は「信仰生活を考える月間」として、一ヶ月を過ごします。

つい、あたりまえになりがちな、毎週の礼拝、神を信じる「信仰生活」について、新たな気持ちで、向き合い、見つめ直したいと願っています。

今日は、その最初として、「わたしたちは神のもの」というテーマを掲げました。

そもそも、誰一人として、自分の命を、自分の意思によって始めた人はいないわけです。

神が愛と目的をもって、人生を始めてくださり、神が今日まで導き、そして、神が愛をもって、やがて終わらせ、完成してくださる。

今わたしたちは、そういう神から預かった命、賜物、人生そのものを、生きています。

「わたしたちは神のもの」


そして、パウロは、コリントの手紙の中で、イエスキリストを信じて、心の底に、聖霊をいただいた人々に、こういいました。

「知らないのですか、あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と。

神から目をそらして、自分のしたいこと、自分のため、自分、自分と、生きてきてしまった、その罪が、神の子イエスキリストを十字架に付けたことに気づかされ、

そのわたしたちの罪のゆえに、十字架のうえで流された、主イエスの血が、

私たちの罪を赦し、罪から解放してくださることを、知った人々の中に、神の霊が、聖霊が宿ってくださっていることを、パウロは語ってきたのでした。

聖霊は、自分のために生きる力ではなく、神のために生きていく力。知恵、愛という賜物を与えて下さいます。

その、聖霊の賜物は、一人一人に違う現れ方をしますが、

働きや現れ方はちがっても、同じ聖霊に導かれているのなら、心をあわせて、ともに、神の栄光のために生きていくことができる。

そういうキリストの体に、わたしたちは繋げられていると、パウロは教えています。


さて、今日のペトロの手紙では、そのことを、少し違った言い方で、こう表現します。

10節
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語るものは神の言葉にふさわしく語りなさい。奉仕する人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。」と。

大切な言葉が続いています。

今日、もっとも注目したいのはこの言葉です。

あなたがたは、「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」という言葉です。

「管理者」と訳されている言葉は、英語の翻訳では、「スチュワード」です。


昔、飛行機の客室乗務員の女性のことを、スチュワーデスと言いましたね。

その時代は、あのスチュワーデスの男性版がスチュワードですよと、説明したりできましたが、今はできなくなりました。

この「スチュワード」という言葉は、日本語に訳しにくいのです。「管理者」という翻訳だと、なんだか管理職のような固いイメージになってしまうのですが、スチュワードは、日本語の「管理者」という言葉のイメージとは、ちょっとちがうようです。

主人が僕を愛して、預けてくださった宝を、大切に大切に、生かしたいと願う。そんな僕の心というイメージのほうが、スチュワードに近い。

主イエスが、5タラント、2タラント、1タラントを、主人から預けられた僕の例え話をなさいましたね。

主人を恐れて、土の中にそのタラントを埋めてしまった僕は、主人から叱られてしまうというこの例え話も、

それぞれに、すでに与えられているタラント、賜物の、よいスチュワードとは、どういうことなのかを、感じ取る例え話でしょう。


よい「スチュワード」として生きる。スチュワードの精神を、スチュワードシップといいますけれども、


それは、なにか、自分が神さまのために頑張らなければ、神さまに裁かれ、見捨てられてしまうというような、恐れに動かされる、奴隷状態のような、律法主義とは、全く違います。


むしろ反対に、主が私たちに仕えてくださったから。

僕のようになって、その命をさえ、わたしたちのために、十字架のうえに捧げてくださった、その愛に感動して、

主に愛されている、ありがたさゆえに、この愛に応えたい。ただ、感謝したい。

この主に愛されている「僕」の心こそ、

スチュワードシップであるのです。


ですから、これはなにも目新しい話でも、難しい哲学でもなく、

ただ、このわたしは、主に愛されています。愛されて、沢山の恵みをいただき、生かされています。ただただ、そのことが感謝です、というシンプルな信仰に立ち返るだけの話なのです。


神のものである自分。神のものであるあなた。

そのお互いが、同じ神の恵みを喜んで、神に愛されているお互いとして、

恵みを分かち合っていきる。これは実にシンプルなはなしです。


これがシンプルさを失って、なにか難しいことになってしまうとすれば、


いつのまにか、「自分は神のもの」というよりも、やはり、自分のものは自分のものと、なにか、ひっしに守るものが増えてしまい、心が不自由になっているのかもしれません。


信仰生活の中に、なにか、これは、神さまから隠しておきたい。これは自分のものにしておきたいという、そういう要らないものがたまってしまったら、

信仰生活の喜びを回復するために、単純、シンプルな信仰に立ち戻りませんか。

信仰生活のだんしゃり、ですね。

どうせ、自分のものにしていても、神の国にはもっていけないのですから、いらない荷物は整理しておきたい。


「万物の終わりが迫っている」のですから。

ペトロの手紙が書かれたときも、そして、今も、明日、主の時がやってくるかも知れないという意識を持つことは同じこと。

だれ一人として、明日も今日と同じ日だと、わかるわけがないのですから。


そういう終末を意識して、今を生きる人々に、ペトロの手紙は、こう告げます。


7節後半。

「思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい」と

ほかの訳では「祈りのために、心を整え身を慎みなさい」となっています。

終末を意識して、今を生きるということは、どうせ終わりが来るのだから、今を楽しめという、軽はずみな生き方にはならない、ということです。


むしろ、終わりの日をイメージするからこそ、思慮深く、慎み深くあるようにと、ペトロの手紙は語ります。

明日、終わりの日がくるとしても、


なにも慌てず、思慮深く、身を慎み、祈るようにと、言うのです。

あのマルティンルターの、たとえ明日終末がくるとしても、今日、わたしはリンゴの木を植えるといった、有名な言葉を思い出します。

終わりの日をちゃんと見据えるからこそ、

人生の時間は限られているからこそ、

慎み深く、思慮深く、祈る生き方になっていく。

わたしたちの教会には、そのような信仰の先輩方が、沢山いてくださいます。

まだ50代のわたしなどより、何十年も長く、人生の嵐を経験し、思慮深くされた方々がおられます。

先週は、シメオン会がありましたけれども、思慮深く、慎み深い、信仰の先輩方との交わりは、「ほっとさせられ」て、いいですよ。


身を慎しみ、教会のために祈り続けてくださっている方々が、沢山いてくださるからこそ、わたしたちの教会は、柔らかな雰囲気を造っています。

先週も、初めて来られた方が、教会の温かな雰囲気に感動しておられました。

また、先週は神学校週間の礼拝でしたけれども、メッセージを語ってくださった吉村和子神学生が、後日わたしにこのようなメールが送ってくださいました。

「証とメッセージの奉仕をさせて頂き、本当にありがとうございました。
教会学校から参加させて頂き、礼拝後には昼食もご一緒できましたこと、心より感謝申しあげます。

神さまが教会の皆さまの内におられ、ご聖霊が豊かに働いておられることを実感し、

わたしにとっても大変貴重な体験でした。


本当に、「ほっとする」温かい教会ですね。」




嬉しいですね。「ほっとする教会」というのは、最高の褒め言葉だと思います。

「なにか、とても忙しそうな教会ですね」といわれるよりも、

「ほっとする教会ですね」といっていただくほうが、嬉しいことです。

なにげない愛の配慮、ホスピタリティーを感じられるのでしょう。



9節でも、「不平をいわずにもてなしあいなさい」といわれています。

ただ「もてなしあえばいい」ということではないのです。

わざわざ「不平をいわずに」と、ついていることが、ポイントです。

つい、善いことでも頑張りすぎると、「不平」が口からでてくるものです。



あの、マリアとマルタの姉妹の話もそうでした。

エスさまを一生懸命もてなそうとした、姉のマルタは、その一生懸命さゆえに、なにもしないで座っていた、妹のマリアに対する「不平」が、口から飛び出したわけでした。

「イライラ」や「不平」が飛び出したら、もてなしになりませんね。

とても「ほっと」などできません。

ホスピタリティー。愛の配慮を、「不平」「不満」から守らなくてはなりません。



そのために必要なのが、思慮深く、身を慎んで「祈る」祈り、じゃないでしょうか。


お互いに対する愛を、スチュワードの心を、汚してしまう「不平」「不満」から、

私たちを守るもの。それは「祈り」


この、祈りがなければ、「ほっとする教会」もないのです。


人間の集まるところ、いつも、互いに「不平」や「不満」が渦巻いているものです。

いいことをすればするほど、心の中にイライラが溜まってしまうこともあるでしょう。

牧師も、罪深い人間ですし、沢山失敗もしますし、人に不快な思いをさせることも、沢山しているでしょう。

それは、わたしのことを、一番そばで見ている、妻や子どもたちが、その一番の証人です。

牧師のどうしようもなさは、しょうもなさは、私の家族によく聞いてみたら、わかります。


でも、みなさんも同じでしょう。

いや、自分は100%正しく生きている、という方はおられますか。

ぜひ、ご家族に、取材に行ってもいいですか。


聖書が、正しい人はいない、一人もいない。すべての人は罪を犯し、無益なものとなったと、告げてくれていることは、むしろ救いです。

そんな、自分は自分を救えないと、自分に失望し、

主イエスの十字架の救いに、すがることができる人は、実に幸いです。


神の愛によって、罪の破れを包んでいただいていた人は、幸いです。


8節でこう言われています。

「なによりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」

罪を責めてみても、どうにもなりません。罪は、赦されるしかないからです。

キリストを十字架につけた、人間の罪も、ただ、神の憐れみによって、赦されるしかないように。

罪の破れは、愛によって覆われるしかありません。


しかし、破れてしまった袋も、布で覆うなら、また使うことができるように、

主は、わたしたちの罪の破れを、十字架の愛によっておおってくださいました。

わたしたちは、その神の愛とゆるしを知り、自分のこととして体験したので、

今、ここに集まり、そして、このあと、主の晩餐式に与るのです。


その神の愛に罪を覆われたわたしたちに、パウロは、


「主があなた方を赦してくださったように、あなたがたもゆるしあいなさい」と、チャレンジしました。


互いに愛し合い、愛によってお互いの罪を覆いなさいと、言われています。

わたしたちは、みんな、神に愛されている、神のものだから。

神のものとされている、仲間であるからです。


この神の愛にこたえ、互いに愛し合い、ゆるしあっていきるなら、


神の栄光が、豊かに現わされていくのです。

礼拝音楽研修会二日目

shuichifujii2018-05-13

11日金曜日から礼拝音楽研修会のスタッフとして函館に来ています。

昨日12日は、函館教会を会場にして、礼拝において主と会衆につかえる「奏楽」「聖歌隊」「バンド」のありかたについて、語り合い整える時間をもちました。

今日13日、日曜日の午前中は、4人のスタッフは、函館教会、函館美原教会、そして少し離れた苫小牧教会に分散して、礼拝に参加。

礼拝のあと、函館と苫小牧の2会場で、礼拝音楽研修会の続きを行いました。

わたしは、午前中は函館教会の教会学校から参加。

成人科は一クラス。少年少女が一クラス。

「聖書教育誌」のカリキュラムで聖書を読み、分かち合うスタイル。

花小金井教会と同じやりかたなので、すっと入っていけます。

場所が違っても、同じ聖書の箇所を読み分かち合えるという、

「聖書教育誌」をもちいた教会同士の繋がり、この連帯は、バプテスト連盟の一つの賜物だなと、あらためて思います。

礼拝には、ギデオン協会のアピールの方も参加。一緒に礼拝しました。

昨日の研修のなかで練習した青少年の「バンド」による、賛美のリードがとてもよくて、会衆が一つになって歌うことができたのも、嬉しい体験でした。

聖書のみ言葉のメッセージをさせていただきましたが、み言葉によっても心が繋がれた体験をしました。感謝。


午後からの研修会では、わたしが開会メッセージ。江原教会音楽室室長の講演。その後、お茶菓子をいただきながら、分かち合いの時間をもち、研修会は終了。

とてもお互いの心理的距離感の近い、研修、対話がなされたと思います。

研修会の感想を書いていただいた中で、地方において行き詰まりを感じている教会に、このように遠くから、現場まで出向いてきてくれる研修会が、求められているのではないか、という感想がいくつかありました。

今回は、新しい試みとしてこのような形となりましたが、今後の方向性として、ますますそれぞれの地域、現場にまで出て行き出会い、つなげていくスタイルになっていくことが望ましいのだろうなと、そういう実感を深めた、研修会となりました。

礼拝音楽研修会一日目

shuichifujii2018-05-12

5月12日〜13日 函館(苫小牧)で行われる、全国礼拝音楽研修会のスタッフとして、11日から函館入りしています。

実は函館は2度め。前回は東北にいた頃、東北と北海道連合の合同の青年修養会のスタッフとして、新幹線で函館に来ました。

今回は東京から飛行機です。1時間15分であっという間につきました。


日本バプテスト連盟の教会音楽室が主催する「全国礼拝音楽研修会」は、今回で13回を数えます。毎回場所を変えて、その地域の方々との出会いを喜んでいます。

今回は北海道で開催するのですが、北海道連合の会長さんとの準備のプロセスの中で、北海道の中でもさらに地方の現場に出ていって出会っていこう、ということになり、

通常、北海道で大きな集会をおこなうときは、大きな都市である札幌でするのですが、

今回は、旭川と函館の2地区で2回開催することになったのでした。

旭川は2月に行い、今回2回めの函館が、今回の開催となったわけです。

函館には、函館キリスト教会と函館美原バプテスト教会の2つのバプテスト連盟加盟教会があります。

会場は函館教会です。礼拝堂以外に、沢山の部屋があり、キーボードなどの楽器も豊富にある教会なので、会場としてお借りすることになりました。

今日第一日目は、礼拝に仕える「奏楽」「聖歌隊」「バンド」のみっつのカテゴリーで、研修が行われました。

わたしの今日の役目は、「バンド」の研修の補助と、写真かかりでした。

二日目は、午前中の函館教会での礼拝メッセージと、午後からの研修会の開会メッセージ。その後の懇談の司会進行などがお役目です。

この研修会には、函館地区の教会からだけではなく、室蘭や札幌、そして山形からも、電車で数時間かけて、やってきてくださる方がおられました。感謝です。

室蘭からは、インドネシアから日本に来ている学生さんも、3人参加「聖歌隊」のパートに参加してくださり、大きな声で日本語で一緒に歌ってくださっていたことが、嬉しい光景でした。

こちらとしても、できるだけ英語での対応をして、コミュニケーションを取りたいと願いつつ、準備しました。

こういう出会いの中で、お互いが少しずつ変えられ、成長していけるのですね。

「バンド」の研修では、中学生や高校生の子たちと、礼拝の中で「バンド」について、率直にかたりあうことができました。

自分たちが、神さまに賛美を捧げているつもりでも、そこにいる他の人々が、おいてきぼりになっていないだろうか。

一緒に一つの心になって、賛美することが、神さまに喜ばれる賛美ではないか。

そんな気づきをあたえられたと、後の発表の時に中学生の女の子が語ってくれました。感謝です。

「奏楽」のパートも、お互いに普段悩んでいること、考えていることを語り合って、とても有意義な時間だったと聞きました。

人数を沢山集める集会ではなく、むしろ、一人でもそこでしか会えない方々と、ゆっくり時間をすごし、語り合うことで、

その後、その出会いのなかでまかれた神さまの命の言葉が、豊かに実っていくことを、確信した、第一日目でした。