マルコ14章32節〜42節
去年の12月のクリスマス礼拝で、バプテスマを受けたIさんが、練習を重ねて重ねて、今日、はじめてオルガンの、奏楽の奉仕を、神様に捧げてくれています。嬉しいことですね。教会全体の喜びです。
よく、なんで、目に見えない神様なんて信じられるんですか。神様なんて人間の作り出した願望じゃないんですか、と言われる方がいますけれども、
神様は目に見えないのが当たり前で、目に見えるようなものは、神ではない。
でも、風は目に見えなくても、風が吹けば葉っぱは音を鳴らすように、
神様も目には見えなくても、その働きは、確実に、わたしたち一人一人を通して、ちゃんとなされていて、そのうち見えるようになってくる。
教会は、そんな神様が生きて働いておられる、その働きの実りが、つどう人々の姿や証を通して、よく見え、よく聞こえる現場。
今まで、神様に祈ったことなどなかった人が、神様に向かって、したしく「天のおとうさま」「アッバ父よ」と祈る人になっていくという、この奇跡。
このように、親に愛されている子のように、絶対の信頼をもって、神を呼んで、祈ることができる宗教は、他にありません。
主イエスが開いてくださった、この素晴らしい福音の世界。
わたしたちのすべてを知り、愛しておられる神との交わりの世界。
祈り。
9月の一か月間は、この「祈り」について、マルコの福音書のなかの、主イエスのお姿を見つめてきました。
ある時、人々から離れて、朝早く一人になり、天の神と向き合い祈られたイエスさま。
ある時は、「汚れた霊」の束縛から、祈りによって解放してくださった、イエスさま。
そして先週は礼拝では、「祈りもとめるものは、すべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」といわれて、私たちが「祈り」続けることを、励ましてくださったイエスさま。
そして今日、9月の最後の日曜日。わたしたちは、主イエスご自身が祈られる姿を、3人の弟子たちと共に、じっと見つめています。
この直後には、権力者たちに捕らえられ、無実の罪で、十字架にかけられていく、その直前の祈りです。。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を伴い、ゲッセマネという場所に、主イエスはやってきたのです。
今まで、一人で祈られることが多かったイエスさまは、このゲッセマネの祈りにおいて、3人の弟子たちに、ご自分の祈る姿を見せて下さいました。
「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」といわれて。
そこで、三人の弟子たちが目撃した光景は、ある意味、驚くべき主イエスの姿だったのです。
「イエスはひどく恐れてもだえ初め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」』
「ひどく恐れ」「もだえられた」イエスさま。
「もだえる」と訳されている言葉は、ある解説によれば、「人々から捨てられている」「切り離されている」という意味の言葉だそうです。
苦しみもだえるというよりも、苦しみに対して、誰の助けもないまま、自分一人で向かわなければならない、そういう孤独ゆえの悲しみを、イメージします。
この時の弟子たちは、このあと主イエスの身に、どのような苦難が襲うのか、しかも、自分たち弟子たちさえも、主イエスを見捨てて逃げてしまうことも、
そのすべての人に見捨てられて、十字架の上で主イエスが死んでいかれることも、弟子たちは、まったくわかっていなかったのです。
むしろこの時の弟子たちは、イエスさまが、神の力を発揮して、イスラエルを抑圧するローマを滅ぼし、自分たちを解放してくれるその時は、間近なのだと・・・。
今、自分たちは、その決定的瞬間に向かって、イエス様と共に、立ち上がろうとしているのだと、期待と興奮のなかにいたのです。
しかし、その弟子たちの思いは、計画は、神の御心とは違っていたことを、わたしたちは知っています。
むしろ、そのように自分たちだけを救い、敵を滅ぼすことで生まれる、憎しみの連鎖の世の中に、
神は、主イエスは遣わされ、
「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と、
今までだれひとりとして語ったことのない言葉を語り、
その言葉の通りに、十字架への道を歩み、
ねたみと憎しみにかられて、ご自分を殺そうとする人々のために、
十字架の上から、「父よ彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と祈られたのでした。
この主イエスこそ、神の子、キリスト。
この主イエスの十字架、そして復活にこそ、
目には見えない神の愛が、救いが現われたのだ。
キリストの弟子たちは、のちにそのことに気付いていくのですが、
しかし、この主イエスのゲッセマネの祈りのときには、弟子たちは、このあと主イエスが捕えられ、十字架につけられていくなど、考えてもいなかった。
イエスさまがなにを恐れまどっているのか。
いったいなぜ「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」といわれているのか、理解できなかったでしょう。
それまでも、何度かイエスさまが、「自分は十字架につけられ死ぬが、三日目に復活する」と言われていたけれども、それを理解できなかった。
理解していたら、ここで弟子たちは眠り込んだりはしなかったはずです。
主イエスが「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と懇願しながら、必死になって、祈っている、そのすぐそばで、弟子たちは眠りこんでしまった。
これは弟子たちの体が疲れていたとか、酒に酔っていたという、そういう問題なのでしょうか?
少しくらい眠くても、師匠が起きて祈っているのだから、弟子たちも頑張って、目を覚まして祈っているべきだという、弟子としての心得とか、体力が問題になっているのでしょうか?
そうではないでしょう。
彼らが眠くなったのは、体の弱さとか、体力の問題ではなくて、
主イエスの危機感が、彼らにはわからなかった。
関心がもてなかった、ということにあるのだから。
映画やお芝居を見てみて、途中で寝てしまうことがあるでしょう。別に体は疲れていなくても、眠かったわけでもないけれど、つまらないと感じると、人はなぜか眠くなる。
自分には関係がない、関心がない、つまらないものを見せられたら、「目を覚ましていなさい」と言われても、どうにも我慢が出来ないほど、眠くなるでしょう。
礼拝メッセージも、そういうことがあるでしょう。
ある牧師さんの本を読んでいたら、
「牧師は、みんなが眠れるくらいのメッセージができるようになったら、一人前だ。未熟な牧師の話は、聞いていてあぶなっかしくて、おちおち眠れない」なんて、ウソかホントか、ちょっと言い訳めいたことが書いてありました。
でも、私は思うのです。眠くなってしまうのは、聞こえてきたことが、自分には関係がない、関心がないからじゃないのかと。
弟子たちが目を覚ましていられなかったのは、イエスさまが必死に祈っておられる言葉、その姿に、関心も興味もなかったからじゃないか。
。
ローマを倒す力を求め、目に見える成功を求め、上へ上へとのぼっていく道にしか関心がなかった、この時の弟子たちには、
今、その反対の道を、
「十字架の死」という、下へ下へと下る道を、歩みぬこうと、苦闘し、祈っておられるイエスさまの、祈りの言葉を聞いても、その必死な姿をみても、
なんのことかわからず、共感もできず、興味ももてないまま、退屈で退屈で、眠りこんでしまったのではないでしょうか。
この弟子の姿は、他人事ではなくて、神様の御心に対して、関心の薄い、心が鈍い、わたしたちの姿ではないでしょうか。
主イエスは、眠ってしまった弟子たちに言われました。
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と
ある神学者は、こういいました。
「なぜ弟子たちは眠れたのだろうか。それは自分を信じていたからである」と。
こういう危機的なときに、ゆっくり眠っていられる。それは、神ではなく、自分を信じている状態だというのです。
自分を信じていたから、眠ることができたのだと。
しかしやがて、自分を信じて眠り込んでいた弟子たちは、その自分がいかにいい加減で罪深く、主イエスをこそ裏切って逃げ出してしまう、罪深い人間であることを知らされていくことになります。
そんないい加減な、限界だらけの自分を信じ、眠りこんでいた弟子たち。
一方、ここで主イエスは、むしろ自分ではなく、天の父を信頼し、信じていたからこそ、目を覚まして、祈り続けられたのでしょう。
自分の力に信頼し、頼る時、わたしたちの口から、神への信頼の祈りは、消えていくことでしょう。
わたしたちがなかなか祈れないとすれば、それは、忙しいからでも、疲れているからでも、ワインの飲み過ぎでもなくて、
まだ、自分の力を信頼しているからではないでしょうか。まだ、自分の人生は、自分ですべてコントロールできると、信じているからではないでしょうか。
聖書を読み、祈りながら、すぐ眠くなってしまうのは、神ではなく、まだ、自分自身を、より信頼しているからではないでしょうか。
弟子たちが眠りこんでしまったこと。それは、目を覚ましているための、体力が問われていたのではなく、
神への信頼が、天の父、天の親への信頼が、問われていたのです。
一方、主イエスはなんども同じ言葉で、こう祈られました。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。
幼子が父を呼ぶように、「アッバ父よ」と神を呼び、
「あなたはなんでもおできになります」という、絶対の信頼を表明し、祈られました。
そして、「この杯をわたしから取りのけてください」と、主イエスが訴えたのも、この願いを聞いて下さる、天の父への信頼があったからこそ、祈られたのでしょう。
どうせこんなことを言っても、聞いてもらえない、というのなら、最初から、このようなことを、祈られるわけがない。
「この十字架という杯を、取りのけてください」という願いを、ご自分の意思を、天の父は、ちゃんと聞いて下さっていると、信頼しているからこそ、主イエスは「この十字架という杯を、取りのけてください」と祈られたに違いない。
どうせ「天の親の思い通りにしか、ならない」と思っておられたら、こんな祈りをするわけがないのです。
天の父は、ちゃんと聞いて下さっている。その絶対の信頼があるからこそ、まっすぐに「取りのけてください」と祈られた主イエス。
その上で、最後の最後に「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、祈られたのでした。
主イエスの祈りは、「天の父」への信頼ゆえ祈り。
なにも自分の思いを語らず、最初から、ただ「御心に適うことが行われますように」と祈るのが、神を信頼することではない、ということです。
それは信頼ではなく、「どうせ何を言っても、神の御心にしかならない」という、あきらめの祈りだから。
天の父への信頼とは、神に祈る「交わり」神との「コミュニケーション」、「ある時は格闘」から逃げずに、祈り続けるプロセス、すべてが神への信頼そのものなのだから。
「どうせなるようにしかならない」という気持ちで祈る「御心が行われますように」という祈りは、神への信頼を放棄している、諦めと失望の祈りではないでしょうか。
主イエスは、この十字架という杯を飲むことが、神の御心であることを、十分にわかっているそのうえで、なおまっすぐに「この杯を取りのけてください」と、祈られたのです。
どうせ、御心にしかならないというあきらめの祈りは、神への信頼の祈りではありません。
むしろ、神の意志と、自分の意思を戦わせる、祈りの格闘をすることが、神の御心であるのです。
「祈りの精神」という名著を書いた、フォーサーズという神学者は、こういいます。
「常に神の意志を実行なさったキリストは、自分の死に抵抗し、最後の時が来るまでしばしば死を免れておられる。
最後のときにも、キリストは不可避と思われる死に対して全力を傾けて抵抗し、祈りを捧げておられるのである。
・・・キリストは死の覚悟が出来ておられた。しかし、死は最後の場合であり、あらゆる手段がとられて、もはや死以外に道がないという時に死を甘受されたのであった。
キリストは最後まで他の方策がありはしないかという希望を捨てられなかった。
そしてついに自由意志にもとづいて、自発的に死んでゆかれたのである。」
他の箇所では、こういうことさえ、語っています。
「神の意志に打ち勝つほどに祈ることが、神の御心なのだ」
「神のより高い意思の実現を目指して、頑強に粘り強い祈りを捧げることが、さらに御心に適うことなのである」と。
「御心がなりますように」とわたしたちが祈るのは、「どうせ神の御心にしかならないのだ」という、諦めの祈りでは決してないのです。
むしろ逆に、諦めることなく、自分の意志と願いを、まっすぐに天の父にぶつけて、格闘することさえも、いや、格闘することこそが、神の御心であるのです。
この「杯を取りのけてください」と、天の父と格闘の祈りを捧げられた末に、その最後の最後に、自分の意思も願いも、すべてを天の父に委ねて、心からの信頼をもって、「御心がなりますように」と祈るために。
心からの信頼をもって、「御心がなりますようにと」祈るために、格闘する姿を、
主イエスは弟子たちにみせてくださったのです。
主イエスは、「求めなさい、そうすれば与えられる」と弟子たちに教え、ある時は、友のためにしつようにパンを求める人のたとえや、不正な裁判官でさえも、しつように訴えてくる、やもめの訴えを聞くものだと、たとえ話をなさりながら、
諦めずに、自分の意思を、神にぶつけて、しつように祈りつづけるようにと、教えられました。
祈っても、祈らなくても、神の御心にしかならない、というようなことを、主イエスは一度も語ったことはありません。
むしろそのような、天の父に祈ることを、諦めさせ、失望させることこそ、誘惑であるのです。
眠り込んでいた弟子たちに、主イエスは言われました。
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と。
人は、心は燃えていても、体は弱い。やがて、だれもが、弱くなり、最後には、死を経験していくのです。
だからこそ、そのプロセスの只中で、失望に陥らぬように、目を覚まして祈りつづけなさいと、主イエスは言われます。
使徒パウロが「わたしたちは、落胆しない。たとえわたしたちの『外なる人』(つまり、体)は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」(霊)は、日々新たにされていく。」と、心燃やされて語ったように、
わたしたちの、今の試練は、やがて、比べものにならないほど素晴らしい、永遠の栄光へと、復活の命へと、至るのです。
この希望に、目を覚まして、心を燃やして、祈り続けたいのです。
今、わたしたちはこの不穏な時代にあって、戦争の足音さえ聞こえてきそうな、時代におかれているなかで、
何を祈っても、なるようにしかならないと、祈りをあきらめたりしません。
「御心がなりますように」と、祈って終わりにしません。
そうではなく、この体も、世界も、弱く限界あるからこそ、どうか憐れんでください、助けてください、救ってくださいと、祈り続けます。
不条理の苦しみ、死の苦しみから、救ってくださいと、祈り続けます。
目を覚まして、祈り続けます。諦めずに、祈り続けることこそ、「神の御心」なのだから。
十字架は、十字架では終わらず、必ず「復活」へと至ることを信じて、
この希望に目を覚まして、祈り続けたい。
しかし、たとえ、なんども祈りに失望し、眠り込んでしまうような、弟子たち、そしてわたしたちであったとしても、
主イエスこそ、諦めることなく、今日もこの礼拝の場へ、祈りの場へと、
今日、わたしたちを導いてくださいました。
そして、主イエスはわたしたちに言われます。
「もういいだろう」「さあ、時が来た」、「立て、行こう」と