エフェソ6:18-20
11月は毎年、わたしたちの仲間の宣教師を覚えて祈る、世界祈祷週間の礼拝を、何回かにかけてささげます。
今、私たちがここで当たり前のように礼拝しているのも、だれかが自分の心地よい場所から離れ、この日本にまでやってきて、福音を伝えてくだっさったからです。
そのようにして、約2000年前、主イエスから始まった福音の良い知らせは、今に至るまで連綿と伝えらて、私たちもその福音に与っているからここにいるわけです。
この2000年の間、流れ流れた、救いの水の流れを、わたしたちのところで止めるわけにはいかないわけです。川の水は流れ続けなければ淀んでしまうように、福音の水を流し続けないと、教会は淀んでしまいます。
今、わたしたちのバプテストの仲間から、インドネシア、カンボジア、シンガポール、ルワンダへと「福音」の水を流す、そのいわば蛇口の先端となって、出かけて行ってくださっています。
そして送り出している私たちバプテスト教会の仲間たちは、祈ることで、彼らの口から、福音の水が十分流れるようにと、サポートさせていただく。祈ることで、福音の水が流れる水圧があがっていく。
そんな祈りのイメージを、抱いてみたらどうでしょう。
先ほど朗読された、使徒パウロの言葉も、当時のいわば宣教師パウロが、そのような祈りを、教会に求めている言葉でした。
特に19節ですね
「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください」と
「わたしのために祈ってください」「恐れることなく、福音を大胆に語るには、教会の祈りが必要なのです」
パウロは、おそらく、さまざまな場所に出かけては、福音を伝え続けたその経験の中で、これは人間の熱心さや力ではどうにもならないこと。血肉の戦いではなく、霊的な助けが必要なのだ。祈りが必要なのだと、語るのです。
もちろんお金も必要です。宣教師が生活するために、活動するために、お金が必要です。でも、お金がいくらあっても、教会は造れないし、お金では、人は救われたり、福音を信じてクリスチャンになることも、新しく生まれるということも起こりません。
祈りという、目に見えない霊的な命が、命の水が、神さまとのつながりの中で流れなければ、福音はつたわらない。
それはだれよりも福音をつたえ歩き、たくさんの失敗と苦難と迫害を経験した、パウロだからこそ、「わたしのために祈ってください」と、願うのでしょう。
みなさんは、「わたしのために祈ってください」と最後にお願いしたのは、いつだったでしょうか。
また、誰かのために祈ったのは、いつが最後だったでしょうか。
「すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と。
「絶えず目を覚まして、根気強く祈り続けなさい」
「絶えず目を覚まして、根気強く」といわれると、なにか気持ちが重くなるかもしれません。なかなかそこまで祈れない、自分はだめな信仰者だと、なにか心が重くなるかもしれません。
しかし、思い起こしてみれば、主イエスの弟子たちも、主イエスと一緒にいたときは、あまり祈らない人たちだった。
不思議ですけれども、福音書のなかには、主イエスの弟子たちが、一緒に祈っているという記事は、ほとんどないのです。
イエスさまが祈っておられる姿は、たくさんあります。朝早く人里離れた場所で、祈られたり、徹夜で祈られたり、さまざまに、主イエスが祈っておられる姿は記されています。
弟子たちは、そんなイエスさまに、祈りを教えてくださいと言ったこともありました。
でも、弟子たちが祈っていたという言葉は、福音書にないのです。もしかしたら、わたしが知らないだけかもしれません。もしあったら、教えてください。福音書の中には、弟子たちの祈る姿は出てこない。
ところが、福音書のあと、主イエスの十字架と復活のあとの、弟子たちの活躍が描かれている、使徒言行録には、弟子たちが一緒に祈る姿がたくさん出てくるのです。
今や、目に見える形で、イエスさまはいないけれども、聖霊が弟子たちのなかに宿ったあと、弟子たちは祈りだし、そして力つよく、大胆に、福音を語り出していくのです。
祈ることも、福音を語ることも、人の熱心さ、血肉による戦いではなく、聖霊による働き。目に見えない主イエスの助けがあって、初めて実る、霊的な事柄だから。
それは、今日のみ言葉の中で、使徒パウロがこう語っていることとも、響き合うのです。
18節の前半から読んでみます。パウロはこう言います。
「どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者のために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と。
そうなのです。目を覚まして、根気よく祈るのは、「霊」の助けによってと、パウロは言うのです。
霊とは、「聖霊」のことを言っています。「どのような時にも、聖霊に助けられて、祈りなさい」と。
祈りとは、聖霊に助けられてするものであると。
みなさんは、祈るとき、この「聖霊の助け」というものを、感じておられるでしょうか?
いったい、聖霊に助けられて祈るとは、具体的には、どういうことなのでしょう?
もう少し「祈り」について、深く考えてみましょう。
「祈り」とは何でしょう。人はなぜ祈るのですか?
信仰に興味のない人は、祈りに何の意味があるのか、ただの独り言。または、自己暗示じゃないかと言うでしょう。
祈りとは何なのでしょう。もし、あなたが神のことを、「天の父」と心から呼べるなら、「アバ父よ」と親しく呼ぶことができるなら、わかるはずです。なぜなら、その人は、自分が神の子であることを知っているからです。
そう、なぜわたしたちは祈るのですかと、問われるなら、その答えはただ一つ。
神は私の天の親であり、わたしたちは、神に愛されている、神の子だから祈る。これが答えです。
天と地を造られた大いなるお方を、命の源なる方を、親しく「天の父よ」「アバ父よ」アバとは赤ちゃんがアババと親を呼ぶ言葉からきている言葉です。安心しきて呼ぶ、これ以上ない親しい親子の関係、交わり。
こういう奇跡的な関係を実現するのが聖霊の働き。聖霊は神と私たちをつなげてくれる、交わりの霊なのです。
ある有名な神父さんが、キリスト教は、難しい教えとか戒律を守る宗教ではなく、天の父と、御子キリストと聖霊との交わりのなかに、入れていただく、いわば「交わり教」なんですよ、といわれたのをきいて、新鮮な思いになったことがあります。
なにか教えを守ることで救われるという「戒律教」ではなく、神様との交わりに入れていただく「交わり教」
神さまに向かって、「天の父よ」と親しく祈り交わっていい。交わり教。
そして「祈り」とは、神と人との愛の交わり、コミュニケーションに他ならない。
決して、祈りは独り言ではないのです。交わりの霊、聖霊の助けのなかで、神との交わりが実現している神秘。
それは、聖霊を受けた後の弟子たちが、豊かに祈る仲間になったことと無関係ではないはずです。
聖霊の助けによってこそ、「祈り」は豊かな、神さまとの交わりとなるのだから。
そして、その交わりのなかで、育まれて、み言葉を大胆に語る勇気と力を頂くのだから。
宣教師の方々が、住み慣れた場所を離れて、福音を伝えようとする、その勇気と忍耐。
嶋田宣教師ご夫妻が遣わされたカンボジアの、クメール語なんて、日本語とはかけ離れている言語で、母音(ぼいん)がたくさんあるのだそうです。聞きとることさえも難しい。言葉を習得するだけで、いったい何年かかるのかという、世界です。
住み慣れた心地よい場所から離れて、全く言葉のわからない、孤独な場所へと、人が遣わされていく。ある意味、無謀。しかし、そうせずにはいられなくなるとすれば、それは聖霊の働らき。
そして、聖霊の働きであるなら、聖霊の助けがあるなら、決して孤独ではありません。
わたしと家族が、山形の田舎で家族だけで、家の教会をしていた頃。だれも知り合いのいない生活に、孤独を感じていたわたしたちは、たまに遠くから知り合いが訪ねてくると、本当にうれしかったことを思い出します。
小さかった子どもたちは、その知り合いにまとわりついて離れないこともよくありました。そして、その人が帰ってしまうと、ないてしまうこともよくありました。
人は、「交わり」がなければ生きられない。交わりから切り離されことは、心を病むほどの痛み。その痛みをわたしたち家族も少しだけ味わい知りました。
それは今、住み慣れた場所、親しい関係から出て、言葉の通じない場所で生きている、宣教師のご家族こそ、まさにそうでしょう。
いや、実は今ここにいるわたしたちも、それぞれに、人と心の通じないさびしさや、痛み、理解しあえない孤独を、感じることが、あるでしょう。
そうであるからこそ、わたしたちには、「祈り」が与えられていることが、どれほどありがたいことでしょうか。
どんな時でも、聖霊に助けられて、「天の親」と交わり、天の親に語りかけ、天の親の愛の言葉に聞いて、交わることができるのだから。
わたしはある時、深い孤独を知った頃から、深く祈るときに、なぜか、涙がでてくるようになりました。最初はなぜだかよくわかりませんでした。でも、ある時気づいたのです。これは悲しみの涙ではなく、安心の涙なのだと。
不安と緊張の日々、孤独に心痛めるとき、祈りの中で、神の愛の懐にいだかれるような安心。ほっとする祈り。
皆さんもそんな祈りの経験をしたことがあるのではないですか。
「祈り」とはしなければならない「苦行」でも「苦役」でもない。不安で泣いていた子が、天の親に抱かれて、安心の涙を流す喜びの時。
「もっと祈るべきだ」とか「祈りが足りないから、だめなんだ」というような、競争の道具ではないのです。
祈り。それは、どんな時も変わることなく愛し受け入れてくださる、天の親に、聖霊に助けられて、つなげられる、愛の交わりの時。
「アバ父よ」「天の神さま」そのように、心から安心して呼び、「恐れるな」「愛する子よ」と、温かく言葉をかけてくださる、神さまとの交わり。それがキリスト教の祈り。わたしたちの祈り。
ですから「祈り」とは、「愛」です。何かを手に入れるための「手段」ではありません。
病の友を覚えて祈る。どうか癒してくださいと祈る。苦難はわたしたちを祈りに導きます。
しかし徹夜で祈っても、愛する人が、癒されないこともあるでしょう。それは祈りが聞かれなかったということですか。祈りが足りなかったということでしょうか。
それは、祈りというものを、何かを手に入れる手段にしてしまっていることでしょう。
そうではなく、祈りとは愛であり、その苦しみにある人と、つながることであり、祈りの目的は、まさに祈ることそのものなのです。
祈りとは愛すること、つながること。神と私たちと、そして困難の中にある宣教師の方々と、つながること。
それが「祈り」。
18節のパウロの言葉を、もう一度味わいましょう
「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」
この、「根気よく祈り続けなさい」とパウロの語る言葉が、苦役でも重荷でもないのだということを、むしろ、聖霊による、恵みであるということが、おわかりいただけたでしょうか
生まれたばかりの赤ちゃんは、お母さんからなんどもなんども、「大好きよ」「かわいい子ね」と、同じ言葉を語りかけられて育ちます。赤ちゃんが、言葉がわからなくても、そんなことは関係なく、親はかわいい子に、根気よく語り続けるものなのです。そして何千時間、その愛の言葉を聞き続けた赤ちゃんは、自分の口から、最初の一言を語るようになるでしょう。
天の親との愛の交わり、「祈り」。それもまた、根気よく、神様とつながり続ける営み。
いや、むしろ、天の親である神さまこそ、根気よく、子であるわたしたちに、愛の言葉を、語り続けておられる。礼拝の中で、聖書の言葉をとおして、祈りの中で、神は私たちに、語り続けている。
祈りとは、まずもって、神の愛の言葉を、心静かに聞くことです。預言者サムエルが、「僕は聞きます、主よお語りください」と祈ったように。
根気よく、神の愛の言葉を聞き続けることです。「大切なわが子よ」と語りかけてくださる神の言葉が、心の中に満ち溢れるまで、根気よく、なんどもなんでも、聞き続けることです。
根気よく語られる、お母さんの愛の言葉が、赤ちゃんの心の中に満ち溢れて、最初の一言を発するように、
祈りの中で、神の愛の言葉を聞き続け、神との交わりの中で、心に神の言葉が満ち溢れるとき、
わたしたちの口からも、神の言葉があふれてくる。
「あなたは神に愛されている大切な人。神の愛を信じましょう」と、福音の言葉が、口からあふれてくるでしょう。
福音を大胆に語る力。その原動力こそが祈り。
根気よく祈る祈り。
ですから、私たちの仲間の中から、宣教師として出かけて行った人々を、わたしたちは覚えて祈り、つながります。祈りつながることが、宣教師の方々を愛することだから。
祈りによってつながることこそ、、孤独を生きる宣教師を支える、命綱なのだから。
最後に、19節、20節のパウロの言葉を、わたしたちの仲間の宣教師の思いと重ねつつ、聞きとり、メッセージを終わりとします。
「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として、鎖に繋がれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください」