「既に得られたと信じる祈り」(2017年9月17日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

マルコ11:20-25

 大きな台風が近づいていますけれども、今日もこうして、この場に体を運ぶことがゆるされて、なにかと、心騒ぐ出来事の多い日々を生かされていますけれども、しばし心を静めて、共に心をあげて、主に祈ることができる幸いを、心から感謝しています。

 この世界は天ではありませんから、いつも不安や恐れと隣り合わせですけれども、しかし主イエスを知っているわたしたちの経験から言えば、不安は不安では終わらず、むしろ天の父への祈りへと、私たちを導いていくものではないでしょうか。

 毎週水曜日の夜のお祈り会では、日曜日の礼拝の聖書の箇所を、集まった方々と一緒に読んで、感想を言い合っているのです。

 先ほど朗読された主イエスの言葉。特に、22節からの言葉ですね。

「神を信じなさい。はっきり言っておく、だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる。だから、言っておく。祈り求めるものは既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」という言葉を聞いて、

お互いに「信じて祈る祈り」について、様々なことを語り合い、経験を証しあいました。

教会の親しい仲間、愛する人が、重い病気になったときのこと。毎日毎日その人のことを思って祈った日々。それこそ、きっと癒されると信じて祈った、あの日々。

そして、ある人は奇跡的に病が癒やされることもあり、しかし、ある人はそのまま、天に帰って行った、数々の出来事。

その祈りの経験を、振り返って語り合ったそのひと時は、ある意味で、「祈りの奥義を分かち合う」聖なる時間でした。

そしてそれは、今ここに集う私たちの多くの人々が、それぞれの人生のなかで、経験させられてきた、祈りの経験でありましょう。


そのような、祈りの体験をしてきたわたしたちに、今日、また新たに主イエスの言葉が響くのです。


「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」


との、力強い約束の言葉が、響くのです。


「やがて得られる」でも「きっと得られる」でもなく、「既に得られた」と信じて、神に祈るようにと、励まされる主イエス

わたしたちは、ときに、過去の経験に囚われてしまいます。

祈っても祈らなくても、人は最後には、みんな死んで行くではないか。あの人もこの人も、天に帰っていったではないか。

祈ることに、なんの意味があるのだろうかと。

そのような祈りに対するむなしさ、「虚無」の闇へと、わたしたちの心を引きずりこむような、魂の誘惑を感じることはないでしょうか。

そのような誘惑に、抗うように、今日、主イエスが語られる、神の言葉として、

この言葉を、心を開いて受け止めたい。

「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」のだと。

この、主イエスの言葉を、心の奥深くに、聞き取りたいのです。


この言葉の責任が取れるのは、牧師の私ではありません。責任逃れだといわれようと、「人間」はだれも、この主イエスの言葉の責任などとれるわけがないではないですか。

ただお一人、この言葉を語られた、神の御子、主イエスご自身だけが、ご自分が語られた言葉の責任を取ることが、おできになるのです。

ですから、もし文句があるなら、わたしには言わないでくださいね。

主イエスに言ってくださいね。というのが、わたしの本音。



ただ、そうではあるけれども、一方で、この主イエスの言葉を信じて生きてきた、わたしたちの証は語れるでしょう。

わたしたちは、この主イエスの言葉があったからこそ、何度でも励まされ、祈り続けてこれた日々を、経験を、証出来るでしょう。


この主イエスの言葉がなかった、約束がなかったら、

わたしたちは、試練の時、苦難のときも、祈り続けることができただろうか。


自分や愛する人が病気のときに、諦めないで、何度でも祈ることができただろうか。


「既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」と言われた、この主イエスの言葉に、励まされたからこそ、さまざまな悲しみの中で、絶望せずに、いられたのではないでしょうか。


この主イエスの約束のゆえに、約2000年の間、幾多の失望、絶望の闇を乗り越え、

戦争の時代も、迫害の時代も、むしろ闇が深ければ深いほど、祈りも深く、強く、神に捧げられてきたのではないでしょうか。

そもそもなぜ、「既に得られたと信じて祈る」ことなど、出来るのでしょうか。

それは、私たちの信仰深さではなく、祈りを聞いて下さる方が、わたしたちを愛しておられる、天の父、天の親であるからであるのです。


天の親は、わたしたち神の子に必要なものは既に知っていてくださる。そう主イエスはマタイの福音書で言われました。

だからこそ、「祈り求めるものは、すべて既に得られたと信じて祈りなさい」と、主イエスは言われるのです。


つまり、この祈りは、自分の信仰深さではなく、祈りを聞いて下さる方への、信頼の祈りなのです。

ただ、「既に得られた」と強く信じ込めば、願いがかなうのだという、そういう祈りではないのです。

わたしたちの必要を、わたしたち以上に知り、深く愛しておられる、天の父、天の親への、


深い信頼の祈りの表現。わたしたちはそう受け止めます。


そもそも、祈りとは、祈る自分の信心深さによって、神を動かすことではなく、

祈りを聞いて下さるお方への、神の愛と、信実に対する信頼の表れなのだから。

それこそが「祈り」の本質であるのです。



実は、この「祈り」の本質について、主イエスは、先ほど朗読された聖書の箇所の、すこし前の箇所で、問われていたのです。


先ほど朗読された箇所は、弟子たちが、いちじくの木が枯れているのを発見したことから、始まったお話でしたけれども、

今日は読みませんでしたが、この前の箇所からここに続く、話の流れをすこしお話しなければなりません。

この前日、主イエスと弟子たちは、このいちじくが枯れる前に、木のそばを通っていたのです。そして、いちじくに実がなっていないことを、主イエスは嘆くという、出来事があったのです。

そして、そのあと、主イエスと弟子たちは、エルサレムの神殿に入っていったのです。

そこで主イエスは、神殿の境内のなかで、献金の両替をし、捧げ物の動物を売ることで、もうけていた人々を追い出しながら、こう言われました。

「わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである。
ところが、あなたたちは、
それを強盗の巣にしてしまった」と。

今、エルサレムの神殿で人々が祈っている祈りも、捧げ物も、主イエスのまなざしから見るなら、

それは神を愛し、神に心を尽くして捧げられている祈りでも、捧げ物でもなく、

むしろ、神から、自分の為に、自分たちのために、奪おうとしているだけの祈りをしている、

「強盗の巣」になっているではないかと、糾弾されたのです。

この主イエスの言葉に、宗教家たち、祭司長、律法学者たちは、怒り狂い、イエスをどのようにして殺そうかと謀り始めたのでした。

つまり、エルサレムの神殿において、熱心に祈っていた宗教家たちの中に、実ったものとは、

「神の御子、主イエスへの殺意」であったわけです。

エルサレムの神殿で祈られていた祈りの、なにが問題だったのでしょう。

主イエスが両替人の台をひっくり返されたのは、異邦人の庭と言われる場所です。

異邦人もそこに入ることができる場所でした。

そこにおいて、主イエスは言われたのです。

「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と。

つまり、すべての国の祈りの家になっていないではないかと言われたのです。

自分たち、イスラエルを救い、異邦人のローマを倒してくださいと、祈っていた人々。

自分たちを救い、敵を滅ぼしてくださいと、そういう祈りに満ちていたであろう、エルサレムの神殿の境内で、

主イエスは言われます。

わたしの天の父の家は、すべての国の人の、祈りの家なのだと。

天の父、天の親である神は、敵も味方もなく、すべての国の、すべての人の祈りを聞いて下さるかたなのだと、言われます。

これはユダヤの人々にとって、驚くべき言葉であったでしょう。

彼らが信じていた「神」は、自分たちイスラエルだけを愛し、救う「神」であったのだから。

そして、今日、朗読された箇所へと、お話は続いていきます。

神殿を後にして、歩き始めたイエスさまの一行は、あの実のなっていなかったイチジクの木が、枯れたことに気づいたのです。

その時、主イエスは弟子たちに言いました。

22節「神を信じなさい。」と。

「神を信じなさい」

そう主イエスは言ったのです。当たり前すぎて、読み過ごしてしまいそうな一言です。

「神を信じなさい」

これは実は、主イエスにしては、珍しい言い方なのです。「信じなさい」とは言われても、「神を」とあえていうことは、珍しい。

神殿で祈られていた祈りは、だれを信じ、だれに向かって祈られていたのか。

主イエスは、「神を信じなさい」と言われます。

その「神」とは、自分たちイスラエルだけを救う神ではない。

自分たちだけを愛し、敵は滅ぼす神ではない。

主イエスは言われます。わたしの家は、すべての国の祈りの家と呼ばれるべきなのだと。

「神」を信じるとは、すべての国の、すべての人の祈りを聞いて下さる、祈りの家の主(あるじ)である、天の父をしんじることなのだと。

敵を滅ぼし、自分たちを救ってほしいと祈る。それは、主イエスのいうところの「神を信じていのる祈り」ではないのだと。

神はその敵をさえ愛し、すべてを愛しておられる、天の父であるのだと、言われるのです。


「神に願い、祈る」その内容が、

自分ではない、誰かを変えてほしい。目の前の状況を変えてほしいと、

神を動かそうという祈りであるなら、


その祈りは、祈る人の中に、なにも変化も、実りも実らせないのではないでしょうか。


自分は変わらずに、誰かを変え、状況を変えることしか願わないのですから。

そのような祈りは、祈るその人に、良いものを実らることは期待できません。

むしろそれは、「神」を信じている祈りではなく、自分の欲望という偶像を信じて、祈っているのではないでしょうか。

いったい、だれを信じ、誰に向かって、わたしたちは祈っているのでしょう。

主イエスは言われます。「神を信じなさい」と。

あなたの敵をさえ、愛している、神を信じて祈りなさいと。


ゆえに、25節でこう言われます。

25節
「たって祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」と

神は、敵も味方もなく、すべての人を愛しておられる、天の父であるから。

その神に祈り、神と交わりをもつ人は、もはや自分だけが救われ、あの人を、あの連中を、あの国を、滅ぼしてください、とは、祈れない人になっていくでしょう。

すべての人の祈りを聞かれる、天の父に祈る人は、

あの人もこの人も、同じ天の父が愛している神の子であることに、祈りの中で心の目が開らかれていくでしょう。

ゆるし、赦されるという「よい実り」が、神への祈りのなかで、実っていくでしょう。

ゆえに、主イエスは言われます。
「神を信じなさい」と。

その神は、わたしの祈りにも、敵のあの人の祈りにも、耳を傾けられる神。

すべての国の人の祈りの家の主(あるじ)であると、主イエスは言われます。

このすべての人の祈りを聞かれる、「神」を信じて祈る。それがわたしたちの祈り。

この神を信じて祈るとき、

たとえ山に向かって、「立ち上がって、海に飛び込め」といい、少しも疑わず、そのとおりになると信じるなら、そうなると主イエスは約束し、

さらに、祈り求めるものは、すべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるとさえ、言われるのです。

これはもちろん、今までの話の流れでおわかりの通り、

自分の夢とか自己実現のために、信じれば山も動くとか、夢も実現するという、そういう話ではないことは、おわかりでしょう。

それでは、神を信じている人の祈りにはならない。

それは、自分を信じ、自分が信じたとおりに、祈ったとおりに、実現するという、自分を信じる祈りです。

そうではなく、主イエスは「神を信じなさい」といわれるのです。

神を信じて祈るとき、その祈りの中では、むしろ逆のことが、わたしたちに引き起こされるのです。

つまり、初めは、自分の願いや思いのとおりに、神に動いていただきたいと、祈り格闘するなかで、祈り続ける日々の中で、

その祈り、神との交わりの中で、むしろ自分の思いが、神によって変えられ、神ではなく、自分が動かされていくということが、引き起こされていく。

それが、「神を信じる」信仰者の人生に、数多く起こり、証されてきた出来事です。

使徒パウロは、コリントの信徒の手紙の中で、自分の病のいやしについて祈ったことを、告白しています。

パウロにとってそれは辛い病気だったのでしょう。そのために、伝道の働きが進まないと、パウロを悩ませていたものだったのでしょう。

パウロはそれを「サタンから送られた使い」とさえ言い、「この使いについて、離れさせて下さるように、わたしは三度主に願いました」といいます。三度といっても、三回だけ祈ったわけではなく、何度も何度も祈ったということです。パウロは病が癒やされることを、主に祈りに祈りました。

そして、その祈ったすえに、パウロは主からの祈りの答えを受け取るのです。

「わたしの恵みはあなたに十分である。ちからは弱さの中でこそ十分に発揮される」と。

すでに今、その状況の中に、その弱さの中に、主の恵みは十分に注がれている。
このことに気づき、目が開かれ、パウロの心は新しくされ、変えられていきました。


ニューヨークのリハビリセンター研究所の壁に書かれていたと言われる、有名な詩があります。その施設にいた患者さんがつくったといわれる、この詩は有名なので、ご存じの方もおられると思いますけれども、よい詩ですから、ご紹介させてください。




大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった

より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前に前にひざまずくようにと弱さを授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ





自分だけのいうことを聞いてくれる、偶像ではなく、

すべての人を愛しておられる、神を信じ、祈りつづけるとき、

実は、もっとも変わることを拒んでいた、自分では動かすことのできない、自分自身という山が、

かたくなに、変わることを拒んでいた、罪に縛られていた、自分という山を、

神は動かし、神の恵み、神の愛の海へと、沈めてくださる。

自分が、祈り求めていたあらゆるものは、実は、すべて既に与えられていた。

なんと自分は、豊かに祝福されていたのかと、気づき、感謝するものへと、

神は、この自分というかたくなな山を、神の愛と恵みの海へと、動かしてくださる。

それは、神の愛を信じ、祈りつづける日々のなかでこそ、引き起こされる奇跡。

わたしたちの、すべての必要をご存じである、天の父を信じ、祈りを聞いて下さる神の愛を信じ、

祈り続けるその日々を通して、神との交わりを通して、

人を恨み、かたくなになっていた、心の山も砕かれ、

赦しあうお互いへと、祈り合うお互いへと、

わたしたち自身という山を、動かし、変えて、恵みに心開かせてくださるのです。

神はすでに、神にしかできない、救いの業を

主イエスの十字架と復活という、愛の業を成し遂げて、

罪と死という、人には動かせない「山」を動かし、自由と、永遠の命を、わたしたちに与えてくださっています。

このかけがえのない宝を、わたしたちは、既に得ているのです。

そのことを信じさせていただいて、今、わたしたちは、ここに集っています。

たとえ、この地上で、病が癒やされても、癒やされなくても、

すでに永遠に生きる命へと、いやし、救った神の愛は、なにも変わっていないのです。

神の愛は、天の親の愛は、なにも変わることなく、わたしたちに注がれています。

だからこそ、わたしたちは、まっすぐに、心の思いを天の父へ向けて、祈り続けます。

「どうせ祈っても」と諦めたりしません。

祈り続けたからこそ、知ることのできたこと。変わっていけたこと、成長できたこと、

そういう豊かな、神が実らせる「実り」が、あるのです。

ゆえに、主イエスの祈りへの励ましの言葉を、最後にもう一度、共に受け止めましょう。

「だから、言っておく、祈り求めるものは、すべて既に与えられたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」。