「根気よく祈る」(2017年10月15日主日礼拝メッセージ)

エフェソの信徒への手紙6章10節から20節

 先週から、急に寒くなりました。体調を崩されて、今日、この場に来られない方もおられるでしょう。

週の初めの、この約1時間。この場所に体を運んで、同じ空気を感じつつ、共に天を見上げられることは、当たり前ではない、神様の恵みです。

日曜日は、年に52回しかやって来ませんし、礼拝は約1時間ですから、

よく考えてみれば、こうして共に集い、顔を会わせている時間は、年にたった52時間ということですね。

礼拝の後の昼食を一緒にしたり、水曜日のお祈り会で顔を会わせることもありますけれども、それでも、時間にすれば、顔を会わせている人でも、年に100時間くらいじゃないですか。

一日は24時間ですから、単純に考えれば、年に4〜5日くらいの時間なんですよ。実際に顔を会わせている時間は。

会社や学校や、家族という、毎日、顔をあわせる人々と比べれば、圧倒的に顔をあわせる時間は少ないでしょう。

それなのに、そういう毎日顔をあわせる人々より、むしろ教会で出会う人々のほうが、自分の悩みを知っていたり、深く、気にかけてくれている。

そういうことを、経験しますでしょう。

それはなぜかと言うなら、わたしたちは、たとえ顔を合わせていなくても、「互いのことを覚えて祈る」ということをするからではないですか。

今日、事情や病気のために、ここで顔を会わせることができないとしても、

いや、むしろそういう時にこそ、篤くその人のことを覚えて、祈るではないですか。

近くにいても、たとえ、地球の裏側にいようとも、その人を覚えて主に祈るとき、

わたしたちの心は、その人と繋がるでしょう。主が、わたしたちを繋げてくれるでしょう。

困難の中にいる友や、病と闘っている友を覚えて祈るとき、

それは、ただ、その問題が解決することや、病が癒やされることだけが、目的で祈っているというよりも、

むしろ、その人のことを思って、心を尽くして、祈っている、その時間そのものが、大切な時間。

その人の心と、自分の心が、主にあって、不思議に繋がっている、大切な時間。

たとえ、顔を会わせる時間が少ないとしても、

わたしたちには、目に見えないところで、互いのために祈り、主が繋げてくださっている、大切な時間があるのです。


先週の水曜日に、教会員のFさんの手術がありましたけれども、その日の昼の、教会のお祈り会には、いてもたってもいられないと、祈りに来られた方々もおられました。

祈らずにはいられないという思いに導いてくださるのは、神の霊、聖霊の働きでしょう。

すべての人の心を知っておられる神の霊が、あの人と共に寄り添い、共に喜びも苦しみも分かち合うようにと、

わたしたちを祈りへと導いて下さっている。


人と人の心を、祈りによって、不思議に繋いでくださっている、聖霊の働きがあることを、私は信じます。


 さて先ほど朗読された、エフェソの信徒の手紙のなかで、使徒パウロは、教会の人々に、こう言いました。

18節

「どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と。

「聖なる者」とは、「立派な人」のことではなくて、

神に愛されている人のことです。今、それに気づいていても、気づいていなくても、神に愛されている人は「聖なる者」。そういう意味で、わたしたちはみんな「聖なる者」です。

たとえ、顔をあわせる時間は少なくても、神の霊、聖霊が助けて下さるので、わたしたちは、お互いを覚えて、目を覚まして祈り続けることで、繋がり続けることが出来ます。

一日に何度か、その人のことを思い出し、祈る。

声に出さなくても、心の中で、その人を思い祈る時間。わたしたちは繋がっているのです。

「根気よく祈りなさい」と訳されている言葉は、他の翻訳では「忍耐の限りを尽くして祈りなさい」となっています。

これは、祈りは退屈だけれども、頑張って、忍耐して、祈りなさい、という意味でしょうか。

これを記した使徒パウロは、他の手紙の中で、こういうことを言っています。

「あなたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と

そんなパウロが、今日の箇所で「すべての「聖なる者」のたちのために祈りなさい」といったのは、

わたしたちが、あの人のことは祈れても、この人のためには、祈れない、祈りたくない、ということが、起こるからでしょう。

そういう、自分の好き嫌いの感情を越えて、あの人のために、この人のために、すべての「聖なる者」のために、祈るということは、

「忍耐」のいることでしょう。

あの人の為に祈りたくないという、そういう自分の思いと戦い、忍耐し、祈りつづける。

そういう、目に見えない「祈りの戦い」を通して、

主は、目に見える人と人との関係に、和解を、平和を、実現してくださるのではないでしょうか。


今日の聖書の箇所の前半では、まさに「戦い」のイメージを使いながら、パウロは語っていたわけです。

・主に依り頼み、その偉大な力によって強くなれ。

・悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように、神の武具を身につけよ。

・わたしたちの戦いは、血肉を相手にしているのではないのだ。この世界に闇をもたらしている、目に見えない力、影響力、霊を相手にしているのだ

 わたしたちの戦いの本質は、目に見える人間関係とか、社会不安とか、そういう、目に見える形で現れる、その背後にある、目に見えない闇の部分なのだと、パウロはいいます。


 先日、ラスベガスで銃の乱射事件が起こる。それはそれは、ひどい「悪」が、心の「闇」が、突如、表に現れてくることがあります。

表面的には「銃をもっているからこういうことになるのだ」という話になるけれども、

別に、一般市民が、銃をもっている国は、アメリカだけではないのです。それなのに、アメリカで多くこういう乱射事件が起こるのは、目に見える「銃」ということだけを問題にしていても、わからない。

目に見えない、人間の心の闇、罪にこそ、問題の本質があるのではないですか。


 わたしたちは、なぜ、ちょっとしたことで、かっとしてしまうのでしょうか。

言ってはならないこと、やってはならないことをしてしまうのでしょうか。

自分でもどうにもならない、心の闇、ネガティブな、否定的な力を感じたことのない人は、ないでしょう。

使徒パウロは、それをとても敏感に感じる人でした。

彼はローマの手紙の中で、自分の心を見つめて、こういいます。

「わたしは善をなそうという意思はありますが、それを実行できない・・・。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている・・・。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と。


そのように、自分自身の心の闇を、パウロはとても敏感に感じ、また見つめる人であったからこそ、

人の努力や理性では、どうにもならない領域があるのだと。

今日のエフェソの手紙の中で、「福音」「信仰」「み言葉」「祈り」という、神の武具を身につけなさいと、語っているのでしょう。

こういう神の武具で、戦わなければ、人間の理性や努力ではどうにもならない、暗闇の支配があるのだと。

12節でパウロは言います。

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と。

この目に見えない部分、目に見えない領域に届くのは、祈り。

全ての聖なる者を覚えて、あの人、この人を覚えて、祈る、祈りの戦いがあって初めて、

目に見える、人と人との関係に、平和を、和解を、神様が実現してくださるのではないか。


 分かりやすく、これを、体の健康に譬えてみましょう。

わたしたちが、今日も健康で、健やかでいられるのは、目に見えない体の内部で、一時も休むことなく、免疫細胞が、病原菌や癌細胞と戦ってくれているからなのです。


白血球のなかにある免疫細胞が、病原菌と闘ってくれなければ、わたしたちはすぐに病気になってしまうでしょう。


病原菌が体に侵入して、風邪をひいたときに、「体温」があがるのは、病原菌に十分に勝てるように、免疫細胞を活性化し、免疫力を上げるためであるわけです。

風邪をひいたら、熱が出るのは、ちゃんと理由がある。病原菌と闘う戦闘準備完了ということです。

そうやって、わたしたちの体は、目に見えないところで、免疫が日夜闘ってくれるので、目に見える部分が安らかで、健康でいられることと、

ある意味、わたしたちの「祈り」の戦いは、似ている。

わたしたちの身の回りの、様々な関係が、平和であるとすれば、実は、そこには目に見えないところで「互いを覚えて祈っている」からではないでしょうか。

自分自身の心を、闇から守り、お互いに愛し合い、共に生きることが出来るように、日夜「祈り」が捧げられているからこそ、


その目に見えない「祈りという戦い」があるからこそ、目に見えるところに、人間関係に、平和が実現していくのではないですか。


目に見えないところで、今日も誰かが、「すべての聖なる者のために、絶えず目をさまして根気よく祈っている。」

もし、今、私たちの周りに、平和があるならば、それは、誰かの祈りによって、支えられている「平和」であり、福音の「実り」ではないでしょうか。



目に見える平和は、目に見えない戦いによって、支えられている。

目に見えない部分こそ本質であり、そこに通用するのは、人の知恵や努力ではなく、み言葉と祈りなのだ。

これが、今日のエフェソの手紙の最後の箇所で、使徒パウロが伝えたかったことではないでしょうか。



もし、わたしたちが、「根気よく祈りつづける」ことを、やめてしまうなら、

この社会は、世界は、ますます病んでいってしまう。

体に病原菌が入ったなら、体は体温をあげて、免疫力を高めるように、


今、この病んでいる時代、問題をまえに、神様は、わたしたちの「祈りの体温」を上げておられるのではないでしょうか。

この世界が病んでいるのなら、平和が脅かされているのなら、

わたしたちの、身の回りに、様々な問題がやってきたのなら、

それは、神様が、祈りの体温をあげておられるということではないですか。


パウロは今日のみ言葉の11節でこういいます。

「悪魔の策略に対抗してたつことができるようにと」

目に見えない「祈り」などよりも、「目に見える、金が力なんだよ。」とつぶやいてくる、悪魔の策略に対抗して、

たつことができるように、神の武具を身に着けたい。

ひとりで戦うのではなく、教会という仲間と共に、互いのために祈り合い、支え合い、繋がりあっていきたい。


わたしたちには、すでに与えられている宝がある。「祈り」がある。

「祈り」に導かれていくのなら、どんな問題も、神のめぐみなのです。

「祈り」に導かれるのならば、どんな試練も、決して無駄にはならないのです。


あの、主イエスを、十字架につけていくという、この世界の罪の絶望という、闇さえも、

「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは自分が何をしているか、わからずにいるのです」という主イエスの、十字架の上の「祈り」となり、


父なる神は、確かにその祈りに応えて、主イエスを死から復活させ、

わたしたちを、この世界の罪を赦し、救ってくださったのだから。

どんな問題も、祈りに導かれるなら、そこから主は素晴らしい救いの業を、実現してくださるに違いないのです。



 さて、先週の礼拝では、ウィクリフ聖書翻訳協会の松丸総主事から、ウィクリフの働きについて、スライドを交えて伺いました。
 聖書どころか、文字さえもない部族にはいっていって、生活を共にし、言葉を学び、彼らの言葉で聖書が読めるようにと翻訳することで、福音を伝えている人々の働きを知りました。
 松丸さんは、ソフトな優しそうな雰囲気の方でしたけれども、きっと現地で言葉に出来ないご苦労があっただろうと思います。

 その後、わたしはたまたま、インターネットでウィクリフについて検索していたのですが、去年のキリスト教関係のニュースに、ウィクリフのことが載っていたのです。

 中東にあるあるウィクリフのオフィスを、過激派が襲い、4人の職員が殺害されたニュースでした。オフィスは破壊されたけれども、8つの言語の、翻訳途中のデーターが、保存されていたハードディスクは無事でした。

この事件について、ウィクリフの代表の方の言葉が、記されていました。

「この恐ろしい試練を経験した翻訳チームの心と傷の癒やしのために、主に祈りましょう。神様が、翻訳チームの思い、心、体を強め、人々のため、福音の翻訳を継続することができるよう祈ってください」

そして、こう言葉が、続けられていました。

「殺人者のためにも私と一緒に祈ってください。心が頑ななこの人たちのために祈ってください。彼らが自分のやったことに対し、主が彼らの目を開いてくださるよう祈りましょう。彼ら一人一人に、今、彼らがどこにいるかにかかわらず、主が、彼らと会ってくださるように。主は慈悲深い方であることを主ご自身が示してくださり、彼らが主の赦(ゆる)しと愛、平安を知ることができるように」

そして、
「どうかこれを、危険な場所にいる翻訳チームを励ます機会としてください。そして、祈り続けてください」

そう語っていました。
ただ、「祈ってほしい」と。「祈り続けてほしい」と

今日与えられたみ言葉の最後の箇所で、

使徒パウロは教会の仲間に、心から願っています。

「わたしのためにも祈ってください」と

「適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことが出来るように」

「福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください」と願っています。

祈って支えてくれる教会の仲間がいなければ、自分一人では、どうにもならないことを、パウロほど大きな神の働きをしたからこそ、いやと言うほど知っていたでしょう。

目に見えるところではなく、目に見えないところで、目を覚まして根気よく祈り続ける祈りによって、支えられなければ、

一人では決して、一歩も前に進めないことを、戦えないことを、

パウロほど知る人はいなかったでしょう。

彼は社交辞令で「祈ってください」と行っているのではないのです。本気で言っているのです。

「祈ってください」「祈り続けてください」と。

突然、行く手を塞ぐ、壁を前にして、

人間の限界と、弱さを知らされ「もうだめだ」と思うときにも、



それでも、わたしたちには、「祈り」が残っている。

いいえ、人間の弱さと、限界を思い知らされるときにこそ、

わたしたちにあたえられている、「祈り」という宝。

主に繋がり、互いに繋がることのできる、希望が、光り輝くのです。


この、使徒パウロの言葉に励まされ、ここからあらたに歩み出しましょう。


「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」