マルコ9章14節〜29節
先週の礼拝のなかで、わたしたちの教会から福岡の西南神学部に送り出した、Tさんが、結婚の決断をしたんですよと、ご報告いたしました。
先週おられなかった方もいらっしゃるかもしれませんので、一応、今日もお伝えしておきますね。
「あの」T君が、結婚の決断をしたのです。もちろん、T君だけがしたわけではなくて、相手のかたも、T君と結婚する決断をしてくれたのです。
なんと素晴らしい出来事でしょう。結婚の決断って、神聖な出来事ではないですか。
よくよく考えてみれば、世界には約70億の人がいて、そのすべての人と出会ったわけでもないのに、ほかの人と結婚する可能性を捨てて、「わたしは、あなたと結婚します」と、決断するのですから、実に神聖なる決断。
こういう決断は、いくら人工知能が進んでも、コンピューターにはできないでしょう。
将棋や囲碁は、あらゆる可能性を計算するコンピューターがどんどん強くなっていくけれども、
結婚相手を決めるというような、理屈を越えた決断は、理屈を越えているからこそ、コンピューターには無理。
囲碁や将棋のように、すべての人との可能性を計算しなければ、答えをだせないのが人工知能だとすれば、
人間は違うでしょう。
合理的な考え、計算を越えて、行動することがあるでしょう。
どうなるかわからなくても、「えいや」っと飛ぶようにして、決めてしまうということがあるでしょう。
べつに、T君のことじゃないですよ。私たちはみんなそういう経験をしているのではないですか。
合理的な計算だけで、生きているわけじゃない。
言葉ではうまく説明できない、感情の動きに動かされることがあるでしょう。
美しい音楽に感動する感性、感情があるでしょう。
言葉や数字では表せない、説明できない、心の領域があるでしょう。
人間には、「魂」とか「霊」と言われる、説明のできない領域があることに、気づいているからこそ、
今、まさに理屈を超えた神を、礼拝するために、集っているわけです。
ヨハネの福音書のなかで、イエス様はこういうことをいわれました。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」4:24 と
神は、人間が「言葉」によって、そのすべてを言い表すことのできない「霊」であり、
そして人にも、「霊」が与えられているからこそ、礼拝できる。人工知能に礼拝は無理なのです。
人には、普段気づかない「無意識」の領域があることは、もう常識ですけれども、フロイトとかユングという有名な心理学者がそれを発見する遙か前、
数千年前から、聖書は、人には自分でも認識できない深い心の領域があることを、「霊」という言い方で語ってきたのです。
そして、人間の深い心の領域。「霊」に対して、人間の外側から働きかける「霊」があり、
福音書のなかでは、特に、人を苦しめ、縛り付ける「霊」の働きが、「汚れた霊」と言われているわけです。
実証しなければ、実験で確かめなければ、迷信だと片づけたくなる現代人の私たちは、「汚れた霊」などという言葉を聞くと、それは古代の迷信だと、片付たくなる。
ですから、先ほど朗読されたような、「汚れた霊」にとりつかれた男の子が、「けいれん」していたり、「泡を吹いたり」していたのは、今の時代なら、「テンカン発作」と診断される、病気だったのだと、解釈することが多いのです。
医学が発達していない古代の人々は、それが分からなかったから、これは「悪霊」とか「汚れた霊」にとりつかれたのだと言ったのでしょうと、合理的に説明してくださる。
つまり今日の出来事は、イエス様が、熱心なお父さんの願いを聞いて息子の「テンカン」を、癒してくださったと、解釈するのです。
でも、本当にそうなのでしょうか。それはなにか、目に見えないもの、認識できないものは、ないのだという、実証主義、近代合理主義に凝り固まっていて、
福音書が本当に伝えようとしていることが、読み取れていないように思う。
マルコの福音書がここで伝えようとしているのは、「病気の癒し」ではなくて、「汚れた霊」が主イエスによって、追い出された、という出来事なのだから。
「テンカン」という病とは、なにも関係ない出来事。
本質的には、神に愛されている人間から、その自分らしさを、見失わせてしまう、そういう「霊」「汚れた霊」を、主イエスは追い出されたのだということを、マルコの福音書は語っているのだから。
マルコの福音書は、この男の子以外にも、「汚れた霊」によって、自分を見失った人々を、何人も登場させます。
たとえば、マルコの1章では、会堂にいた、「汚れた霊」に憑かれた男性が現れ、こう叫んだと書いてあります。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ」
また、マルコの5章では「汚れた霊」によって、人と共に生きられなくされ、墓場に一人住んでいた男性が登場して、
主イエスに向かって、こういいます。
「いと高き神の子イエス。かまわないでくれ。後生だから苦しめないでほしい」と。
つまり、福音書は「汚れた霊」の影響を受けた人々の状態を、ただ言動がおかしくなってしまったのだと、伝えているのではなく、
そうではなく、むしろ、イエスさまが神の子であること知り、人の心の中から、追い出されることを恐れている、そういう、「霊的な存在」として、語っているのです。
「病気」とか、「精神の病」とは、明確に違うのです。
むしろ、神の愛から引き離し、神に愛されているその人らしさを見失わせ、心を縛り付け、神からも、人からも引き離し、滅ぼそうとするような、ネガティブな心の思い。心の深いところから、その人の感情や考え方を縛ってしまう、力があることを、福音書は語っているのです、
これは、なにも、おどろおどろしい現れ方をするとは限らない。
あの弟子のペテロでさえ、あるとき、イエス様から、「引き下がれ、サタン。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われたことがあるのです。
イエスさまの周りに沢山の人々が集まってきたころ、イエス様が突然、弟子たちに向かって、自分はやがて十字架につけられ死に、三日目に復活すると、言いだされて、ペトロはびっくりした。そして、イエス様、何を言っているんですか、そんなことがあるわけないでしょうと、いさめた。
そのときのペトロの心さえも、イエス様からみるならば、
永遠の神の愛ではなく、サタンとか「汚れた霊」によって、目の前の成功だけに心が支配され、縛られていると、見えたのでしょう。
そのように、「サタン」とか「汚れた霊」というものは、なにか、おどろおどろしい現象として、必ずしも、立ち現われてくるわけではないのです。
主イエスの十字架が、どれほどわたしたちにとって、必要な神の恵みなのか、神の愛なのかがわからなくなる。
神の愛のまなざしで、自分のことを、お互いのことを見ることができなくなる。
永遠より、目の前の成功に心を縛るのも、サタンや「汚れた霊」の働きなのです。
神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさいと。
神の国、神の愛の支配が、主イエスによって、今ややってきたのだと。
ローマに支配され、支配者にいたぶられ、失望のなかにいた人々のなかで、
「福音」を語り始めた主イエスによって、
人々の心の中から、神の希望を、愛を信じられない、心の闇が、「汚れた霊」が追い出されていきました。
今日の箇所で登場してきた、この息子が、
神に造られ愛され、存在している自分の命を、
活き活きと、まっすぐに生きられないように縛り付けられ、、口から泡を吹かせられ、、火の中水の中に投げ込まれ、、滅ぼそうとする、その闇の力、ネガティブな力。
それは、こういう現象としていつもあらわれなくても、
わたしたち自身の日常の中でも、神に造られ、愛されていると、知識ではいくら聞かされても、
なんどもなんども、聖書を読んでいるのに、「神の愛」について、聞きつづけているのに、
いつのまにか、また「いや、自分はだめだ。あの人もだめだ」と否定し、責め、滅ぼしたくなる感情に、心縛られてしまう。
そういう、自分ではどうにもならない、心の闇と、わたしたちも、無関係ではないでしょう。
もう、10年以上も、電話で時折カウンセリングをしている、青年がいて、彼はどうしても自分を責め、人を責める心に縛られてしまうのです。
あなたは、神に愛されているのだよ、そのしるしが、主イエスの十字架なのだよと、伝え、数年前に彼は近くの教会でバプテスマを受けました。そして、しばらくはいい状態だったのだけれども、また最近、自分を責め始めてしまう、その自分の心に縛られて苦しみ、電話をしてきます。
彼の話を聞き、神の愛を伝え、そして祈ると、安心して電話を切ります。そういうことを、なんどもなんども繰り返してきました。
神に愛されていると、知識で聞いても、自分自身のなかから、それを否定し、受け入れようとせず、自分を責めつづける、ネガティブな心の底の動きがあるのです。
自分を責め、それゆえに人を責め、赦せない感情にこころが縛られて、滅ぼし合ってしまうことがあるのです。
知識としてわかっていても、どうにもできない「霊」の領域があるのです。
考え方を変えたくらいでは、どうにも変わらないネガティブな感情、心の束縛、囚われがあるのです。
この深い、人間の心の底の、「霊」の領域に、人間はふれることは出来ません。
ただ、祈りによって、主イエスに触れていただくしかないのです。
今日の聖書の出来事の結論で、主イエスがいわれていることは、そういうことでありましょう。
「この種(しゅ)のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(マルコ9:29)
考え方さえ変えれば、マインドさえ変えれば、人生に成功するとか、人間関係がうまくいくとか、この世の成功哲学ではとどかない、人間の深い心の領域、その暗闇に届くことが出来るのは、ただ「祈り」だけであると。
主イエスは言われます。
「この種(しゅ)のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(マルコ9:29)
そもそも、今日の物語の発端は、主イエスと3人の弟子たちだけで、山の上に上っていた、その主イエスの不在中に、残されていた弟子たちに、息子をいやしてほしいと、息子とお父さんが助けを求めてやってきたところから始まったお話なのです。
弟子たちはすでに、主イエスから「汚れた霊」を追い出す力を与えられていたのです。実際にそういうこともしていたのだと、6章に記されているのです。
なのに、なぜかこの時弟子たちは、「汚れた霊」を追い出せなかった。
かつて出来ていたのに、このときはできなかった。それで、弟子たちはなにをしていたのかといえば、
14節にこう書いてあります。
「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」のだと。
弟子たちは、信仰について、律法学者と議論していたのです。議論とは、知識の領域ですることです。
信仰とはなにか、神とはなにかと、議論をしていたその弟子たちの横には、苦しむ子と、苦悩する父がいたのです。
その二人を置いたまま、神や信仰について、議論をする。
それが、山に昇っていた主イエスが、下りてきたときにご覧になった光景でした。
ゆえに主イエスは言われます。
「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」と。
神の愛から引き離され、口がきけないほどに、心縛り付けられ、苦しむ息子と、苦悩する父親を脇に置いて、
神とは、信仰とは、わたしはこう考えると、議論をしていた弟子たち、宗教家たち。
そして、この痛んでいる時代に、立たされている教会への、深い問いかけの言葉として、わたしはこの主イエスの言葉が響いてきます。
信仰を言葉にし、言葉で語ること。それをわたしたちは、とても大切にします。
だからこそ、聖書もしるされ、読まれ、言葉でメッセージが語られるのです。
わたしたちの信仰にとって、言葉は非常に大切です。
そのうえで、しかし、言葉では音楽の美しさを、伝えられることなどできないように、
神は、言葉の説明などを越えて、「霊」として「聖霊」として今も働かれていることを、忘れるわけにはいかないのです。
書かれた「文字」や「言葉」を越えて、生きて働かれる、神の「霊」のいのちが、働きがあるのです。
わたしは昔、常磐台教会で、牧師に招聘していただいたとき、近隣の牧師さんをまねいて、諮問会議というものをしていただいたのです。牧師としてやっていけるか、先輩の牧師の方々から、質問やアドバイスをいただくわけですけれども、
その諮問会議のために、神とはなにか、救いとは何か、教会とは何かと、自分の信じる「信仰」を言葉にして準備しなければなりませんでした。
わたしは、先輩の牧師さんから、どこから突っ込まれても大丈夫なように、「はい、これは聖書のここに書いてあります」と、調べ抜いて、入念に準備して会議に臨んだわけです。
さて、結果的には、だれも突っ込んできませんでした。ほっとしたのです。しかし、ある大先輩の牧師さんから頂いた、一言が、私にとって生涯忘れられない、心に刺さる言葉を、いただいたのです。
それは、こういう言葉でした。
「どうか、あなたが、ここに書いた信仰告白の通りに、信じて歩んでください」と
言葉で信仰を語る。神を語る。福音を語る。
しかし、それを本当に信じて、信じ抜いて、昔も、今も、これからも、歩み、生きているのか、いけるのか?
苦しむ息子と父親をそのままにして、律法学者たちと、議論していた弟子たちは、
その自分たちが語っている信仰の言葉の通りに、信じて生きていたのだろうか?
いや、信じて生きていなかったから、追い出せなかったし、議論に逃げていたんじゃないか?
主イエスは言われます。
「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」と。
これは、この時の弟子たちだけの話ではなく、「信じます」と言葉で告白しながら、信じ切れないでいるわたしたち、言葉で語ったとおりには、生きぬけない、わたしたちへの、問いかけの言葉。
神に向かって、信じます、愛します、従います。捧げますと、讃美歌を歌い、言葉で語っているわたしたちの生活の、その実態は、どうなのだろうかという、問いかけの言葉。
わたしたちの語る言葉、生活のすべてを知っておられる主イエスは、言われます。
「なんと信仰のない時代なのか。いつまであなたがたと共にいられようかと。いつまで、あなた方に我慢しなければならないのか。」と。
「我慢しなければならないのか」というこの言葉は、「持ち運ぶ」という意味もあると、聞いたことがあります。
主イエスは、このような弟子たちを、わたしたちを、なお、「持ち運ん」でくださっている。
主イエスの言われる、「信仰」に生き抜くことのできないものをさえ、なお、神の国へと、持ち運び抜いて下さる。
わたしは、数年前に、一度決定的にもう牧師はできない、やめようと、思った時期がありました。
ちょうど東日本大震災が起こったころ。小さな開拓伝道所で6年目の春。やっと教会に来るようになった人たちも、みんな去って行ってしまった。また家族だけになってしまった。そのころ、震災の悲しみも加わり、いったい神様はどこにいるのか。神様は本当におられるのか。もうわからなくなってしまうそんな心の暗闇、苦悩に、すっかり夫婦でとらえられてしまったその春。
「神様、あわれんでください」としか、それさえも、ことばにならない程、失望していたその春のある日。
神様は、わたしが全く想像もしなかったところから、ある地元の女性のクリスチャンを教会に集わせ始め、小さな教会を助けはじめ、翌年のイースターに、そのご主人がバプテスマを受ける恵みさえ与え、私の口から、また、希望を語ることが出来るように、神への賛美を語ることが出来るようにしてくださいました。
その時のわたしこそ、まさに、何も希望を語れなくされていた、この「汚れた霊」にこころ縛られた息子であったのです。
その私のために、わたしたち家族のために、だれかが祈っていてくださったから。だから、今、わたしはここに立つことができている。そう心底思います。
わたしたちは、いくら「信じます」といってみても、その自分の言葉通りには、どこまでも信じ切れない、信じ抜けない、主イエスから「なんと信仰のないものか」と言われるしかないものでしょう。
試練を前にして、困難を前にして、すぐに失望し、落ち込み、恐れ、言葉を失う者でしょう。
しかし、たとえ、わたしたちがそのような、信仰のないものであろうとも、
その自分自身を隠さずに、ごまかさずに、「お助けください」「あわれんでください」と、祈る祈りを、主イエスは聞いてくださるのです。
それは、わたしたちに立派な信仰があるからではなく、そうではなく、
そんな不信仰な者を、不信心な者の罪を背負い、キリストが十字架の上にあげられたから。
どうしても、人を救わずにはおれない神の愛が、神の信実が、十字架と復活によって、この世界に示されたゆえに、
信じ切れないわたしたちの、そのありのままを、神は義とし、受け入れてくださる。
この神の信実を、信じゆだねるのだと、使徒パウロはいいました。
実は、「信仰のないわたしをあわれんでください」という叫びこそ、わたしたちの、信仰なのです。
「信じます。信仰のないわたしをあわれんでください」と主イエスに叫び、
ただただ、主イエスの信実にすがる。それがわたしたちの信仰であり、
「祈り」なのです。
そして、そのわたしたちの心からの「祈り」、「叫び」を
主イエスはちゃんと聞いてくださり、わたしたちの心を失望や恐れの暗闇に縛り付ける、
「汚れた霊」から解放し、本当の自分へと解放してくださる。
閉ざされていた口を開き、神への希望を、証を、賛美があふれるように、してくださる。
祈ることができること。祈りを聞いて下さる、主イエスの信実に、
すべて委ねて祈ることが出来ることこそ、
わたしたちのかけがえのない希望であり、そして喜びであるのです。