「天からの風」(花小金井キリスト教会6月4日ペンテコステ主日礼拝)

使徒言行録2章1節〜13節

今日も、はじめて来られた方、久しぶりの方、心と体の調子が守られて、ここに来ることができた方。

そんな、お一人おひとりが、みんな目には見えない神の霊の息吹に吹かれるようにして、ここに集うことができました。

今日の礼拝は、ペンテコステの礼拝です。ペンテコステってなんですか、という方もおられると思いますけれども、詳しいことは、週報の巻頭言に記しましたので、あとでゆっくり読んでみてください。

わたしたちにとって、ペンテコステとは、十字架に死に、復活し、天に昇られたイエス様が、弟子たちに約束しておられた神の霊。「聖霊」が弟子たちの上に降って、「教会が誕生した」という、大切な出来事。その原点が、先ほど読まれた使徒言行録2章にあった、ペンテコステの日の物語。


生みの苦しみという言葉がありますけれども、教会が生まれるためには、主イエスの十字架の苦しみがありました。

「教会」とは、わたしたちの罪のために十字架についてくださったイエスこそ、キリストです。救い主ですと、証言する人々の集まりです。

あのかつては、イエス様を見捨てて逃げた弟子たちの上に、聖霊が降った、このペンテコステ以降、彼らは馬鹿にされようと、迫害されようと、投獄されようと、

「主イエスは今も生きておられます。復活なさったのです。この方こそ、世界を救うキリストです」と、証言することを止めませんでした。

この証言が、次から次へと語り継がれ、イエスはキリストであると、信じる人々の群れが、時代も文化も越えて、今日、ここにも届いています。


先ほどは、Tさんの口を通して、一人の人を、教会へと招いて下さる「聖霊」の導きが、語られて、わたしたちは、それを聞いたのでした。


この「使徒言行録」を書いたルカという人は、当時の様々な証言や資料を集めてこれを書いたのですけれども、同時に彼を導いている「聖霊」の働きがあって、彼はこの使徒言行録を書いている。

このペンテコステの日。五旬節の日に起こった、不思議な出来事も、ルカは、彼が表現できる言葉で、精一杯この出来事を書いている。

でも、言葉には限界がありますから、ルカがここで言葉で伝えようとした出来事のすべてを、わたしたちは捕えられないでしょう。

でもそれでも、聖書を読む、わたしたちひとりひとりの中にも、実は、同じ聖霊が働き、導き、聖書の言葉がわかるように、腑に落ちるように、働いて下さっている。

だから、ルカという人が精一杯書いた、彼の言葉の限界をさえ超えて、聖霊が、わたしたちの心に、わたしたちの現実の生活にとどく、主なる神さまからの、メッセージとして、わたしたちの心に届くはず。

そう信じることができるのも、その根底に、「聖霊」の働き、聖霊の導きを信じているからです。

いま私が語っているメッセージも、藤井という人間の限界の中で、精一杯聖書の言葉を語ろうとしていますけれども、人間の言葉には限界も、間違いもあるでしょう。


実は、先週の礼拝のメッセージのなかで、わたしは、原稿を読み間違えたんです。後から妻が教えてくれたのですけれども、「赤裸々」と書いてあるのを、「あかはだか」と読んだ。

後から妻がいうのです。「あかはだか、なんていうから、そこで思考がとまっちゃったわよ」って。

人間の語る言葉は、間違えもあれば、限界もあります。でも、それでもなお、礼拝におけるメッセージが神の言葉と言われるのは、その人間の限界ある言葉を使って、「聖霊」が働いて、神様の御心と、私たちの心を繋いでくださると、信じているからです。


ペンテコステの日に、集まっていた弟子たちの上に、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえてきた。

そう、ルカは言葉にします。

聖霊が降るという、神の出来事を、ルカはそう言葉にするしか出来なかった。そして炎のような「舌」が、ひとりひとりの上にとどまったという、言葉で表現し、物語るしかできなかった。


ルカは、精一杯、聖霊が降るという、神の出来事を、彼の言葉によって表現しようと、苦悩している。

でも、そもそもルカは、言葉にできないこと、ことばにならないことを言葉にしているのです。

譬えるなら、美しい音楽を、言葉で表現できますか。そんなことができるなら、バッハもモーツアルトもいらないでしょう。

言葉で何でも説明できるなら、言葉ですべて心を伝えることができるなら、音楽も絵画も美術も必要ないのです。


聖霊が降るとか、聖霊に満たされるとか、聖霊を受けるという、聖書が語っている出来事、体験もそうなのです。

言葉で「こういう出来事です」「こういう体験です」と、表現できない。

ルカはその言葉にできない出来事を、なんとかこう、物語ろうとしている。伝えようとしている。「天からの風が吹いたのだ」「炎のような舌が、ひとりひとりの上にとどまったのだ」と、精一杯言葉にしているのです。


「風」と翻訳された元のギリシャ語は、「プネウマ」といって、「息」とか「霊」とも訳される言葉です。


昔からイスラエルの人々は、目に見えない神の霊を、「息」や「風」とイメージしてきたのです。

旧約聖書の冒頭で、神が、人を造られたと語られる箇所で、


「主なる神は、土の塵で人を形つくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった」と書かれています。

また、旧約聖書イザヤ書のなかで、預言者イザヤは、

「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ」という言い方をします。

目に見えない神の霊の働きを、「風」が吹き付けたと、表現しているのです。


ルカが聖霊が降ったという、神の出来事を、「激しい風の音がした」という言葉で表現したことも、まさに、弟子たちの上に、神の霊の働きがあったのだ。神の霊が、弟子たちの上に降ったことを、激しい風に譬えて語っているのであり、

また、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」という言い方で、このあと弟子たちがまさに、「炎のようなもえる舌」つまり、迫害にも、死にも屈しない「燃える言葉」を受けて、

「イエスは、復活したのです」「この方こそ、キリストです」と、語らせる、神の霊の力を、受けたのだと、ルカは精一杯語ろうとしている。


ですからルカは、ここで不思議な超常現象が起こったのだと、そういうことを言おうとしているのではなく、あの弱かった弟子たちが、福音を力強く語りはじめたのは、「天からの風」や「炎の舌」としか表現できない神の出来事、「聖霊が降る」ということが起こったからだ。

聖霊が、弟子たちを福音を語る人々へと、変えたのだ。

それこそが大切なこと。

風の強い日に、外の木の葉が、音を立てていたら、

「葉っぱがしゃべっている。超常現象だ」とは思わないでしょう。

「ああ風が吹いているのか」と思うでしょう。

あの弱かった弟子たちの口から、今や、神の偉大な業について、大胆に語る言葉を聞くとき、

わたしたちは、「ああ、弟子たちのなかで、聖霊が働いている。天から、聖霊の風が、彼らの中で吹いている」とわかるのです。


聖霊が降る。それはオカルト現象でも、特別に選ばれた人々だけの、神秘体験ではなく、

むしろ、普通の人々の口を通して、神の素晴らしさを、神の業を、主イエスのことを、語らせる力。

それは、やがて言語(げんご)の違いさえ超え、どんどん世界へと広がっていく力。その最初のビックバンがペンテコステなのです。



さて聖霊が降った出来事の直後、5節からこう書かれています。

「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まってきた。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」

福音が広がっている第一歩は、まず、エルサレムに住んでいた、外国生まれのユダヤ人からだったことが、わかります。

日本人のわたしたちに、わかりやすくたとえるとすれば、

外国生活から帰ってきた帰国子女に似ているかもしれません。

ユダヤ人だけれども、外国で生まれたり、生活していた人たちですね。

つづく7節にはこうあります。

「人々は驚き怪しんでいった。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』

そして9節以下で、沢山の地名が記されていくわけです。

そういうわけで、まったく言葉が通じない外国人、異邦人であったのではなく、外国で生活していても、ユダヤ人であることを大切にしていた信心深いユダヤの人たち。


ですから、イエス様の弟子たちは、ガリラヤの田舎出身だけれども、それでも、ユダヤ人同士なのだから、ヘブライ語とかアラム語というユダヤの言葉とか、ギリシャ語という共通語でも通じたはずなのです。

にもかかわらず、なお彼ら一人一人の、その生まれ故郷の言葉で、弟子たちが語りかける、ということが起こったというのです。


ということは、大切なことは、聖霊が降ると、外国語が話せるようになるとか、翻訳ができるようになるという、超常現象にあるのではなくて、

むしろ、一人一人の「生まれ故郷の言葉」つまり、その人にとって、本当に心に響く言葉、大切にしている言葉で、「神のメッセージ」が語られたというところにあるのではないか。


共通語でも意味は分かる。でも、言葉にはどうしても、限界があるのです。そういう言葉の限界を超えて、ひとりひとりの生まれ故郷の言葉。


ほかでもない、今、このわたしに語りかける言葉。

自分という存在の根底に、まさに、わたしたちをこの世に生んでくださった、天の親という、生まれ故郷の言葉で、聖霊は、人間の言葉の限界を越えて、一人一人の心の中に語りかけてくださる。


天からの風が吹き、炎のような「舌」が、ひとりひとりのなかで、働く現場。教会とは、そういう現場です。

限界ある人間が、限界ある言葉で語る、説教の言葉を通して、


また、限界ある人間、間違いのある人間の、その一人一人の言葉を使って、聖霊がわたしたちの心を、繋いでくださる現場。


私たちは、お互いに言葉の限界を抱えていても、聖霊が、心のふるさとの言葉で、魂の言葉で、わたしたちを、神とつなげ、互いにつなげてくださっている。

何気ない人の言葉を使って、愛の神は、今日も語りかけてくださっている。

今日も「神の偉大な業」は、わたしたちの口を通して、証されている。


あらゆる困難から救いだし、平安を与え、助けてくださる神を、

神の偉大な技を証するものへと、聖霊は、今日もわたしたちを、導いておられます。

わたしたちは、その神の偉大な業を、聖霊に導かれて、心の奥底で、今日も聞くのです。


そういう、言葉の限界、壁を越え、心と心が繋がり、喜び合う姿は、

周りの人々からみたら

「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざけりたくなるような光景かもしれません。


「イエスさまは、生きているんです」「本当なんです。自分はイエスに救われたのです」「わたしはその証人なんです。信じてください」

「十字架の苦しみは、復活の喜びに至るのです」

そう語り合って、「神の偉大な業」を、喜び合わないではいられない集まり。

それが教会。


天からの風が吹き、炎のような舌が、ひとりひとりの上にとどまる時、

つまり聖霊が降るとき、

人は、絶望から立ち上がらせ、復活へと至らせる、

神の偉大な業を語る証人になります。

どんなに言葉はつたなくとも、不完全で限界があっても、

聖霊の風に運ばれるなら、その証は、ひとりひとりの心のふるさとへと運ばれ、

人を救う、命の言葉となって、

「あれは、新しい酒に酔っている」と、あざけられるほど、

共に神に感謝と賛美を捧げる、仲間にしてくれる。


天からの風は、わたしたちをそういう仲間、教会として誕生させたのです。