「神の憐れみによって実るもの」(花小金井キリスト教会 2017年6月4日夕礼拝

メッセージ)
ローマ12:1-8

 今日もこの夜の1時間。ほかの場所ではなくて、この場所を選んで、わたしたちひとりひとり、体を運んで来ました。

よく考えてみれば、全く違う人生をいきている人々が、出会うということは不思議な出来事ですね。

出会うということは、ただ同じ時間に、同じ場所にいてもおこらない。満員電車のなかで、毎日同じ人がそばにいても、これっぽっちも出会ったことにはならないでしょう。

そういう意味で、出会いは不思議です。心と心が触れあうとか、通じるとか、わかり合えないはずの人間同士が、なにか同じ気持ちを分かち合うとか、共感するとか、喜び合うとか。

それはつまり、なにかわたしたちは、バラバラの人生を、それぞれに生きているようだけれども、実は「源」は同じという感覚。

生まれ故郷が同じ人に出会うと、もうそれだけで、心が通じ合うような気持ちになることがあるでしょう。出会いは、ただ、同じ場所にいてもおこらない。そうではなく、同じ源を分かち合い、喜び合うところに、本当の意味で出会いということが起こっている。

そのもっとも深い次元での出会いこそ、わたしたちの命の根源、この宇宙を、天と地を造られた、主なる神を、ともに喜び合うという、出会いではないでしょうか。


目に見える次元ではなく、目には見えない、深い次元で、霊とか魂とか、命としかいいえないところで起こる出会い。

神と人との出会いと、分かち合う。

 今日はペンテコステです。

十字架に死に、復活し、天に昇られたイエスさまは、今や目には見えない「霊」「聖霊」というあり方で、人間のなかに宿るという、根源的な出会いをしてくださった。

その復活のイエスとの、心繋がる出会い、霊的な出会いを経験した人々が、「イエスさまは、生きておられるのですと」福音を語り続け、その福音を聞いた人々のなかに、また「聖霊」が働き、宿り、導くことで、福音を伝える教会は、時をこえて、今に至るまで、迫害されても、むしろ増え広がり、今や世界中に教会は広がっているわけです。

教会に集うひとりひとりは弱く限界がありますのに、そんな弱いひとりひとりをつなげて、前進させていく原動力、力の源泉は、

お金でも、牧師のカリスマでも、哲学でも伝統でもなく、「聖霊」にあるのだ。

聖霊こそが、教会の原動力。その原点に、ペンテコステという「聖霊が降った」その物語を読む度に、私たちは立ち返ります。

教会がしていること。宣教も奉仕も、共に生きていく力も、その源は上から降ってきた力なのであって、

自分の力でも、努力のたまものでもないのだ。

聖霊によって与えられるギフト。神の恵み、神の憐れみによって、神さまからいただいた賜物。聖霊の賜物であることに立ち帰って、

自分を誇ったり、人と比べてみたりする愚かさから、解放されていくことも、ペンテコステの恵み。

いまは、パウロの手紙を読みましたけれども、パウロという人は、かつては神の恵みを、自分の努力で勝ち取ろうとしていた人だったわけですね。

神を愛し、隣人を愛する、律法の教える生き方を、実践することで救われる道を、自力で頑張れば頑張るほど、むしろ隣人を愛することから遠ざかり、クリスチャンを迫害さえしていた、かつてのパウロ

パウロは誰にも負けないほど、律法を行おうと努力した過去をとおして、つくづく、人間の努力ではだめなのだということ。

神の御心がどこにあるのかわからないまま、自分の思いで頑張れば頑張るほど、むしろ神の愛の心から離れ、高慢になり、隣人を裁き、残酷なことさえしてしまったという、自分自身の過去を踏まえて、今日の箇所で、パウロはこういうことを言っているんじゃないかと思うわけです。

1節から
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、なにが神の御心であるか、なにが良いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかわきまえるようになりなさい」

今日は12章から読みましたけれども、ここに至るまでパウロは繰り返して、人は罪に縛られていて、ただ神の恵み、神の憐れみによって、イエスキリストがわたしたちの罪を、十字架によって購ってくださって、罪から解放してくださった。ここに救いがあるのだ。自分の行いの力ではなく、神の恵み、神の憐れみによって、あなたがたも救われたのだと語ってきて、

だから、神の憐れみによって救われ、罪から解放されたのだから、その体をもって、神に喜ばれる生き方へと、自分を捧げよう。
それが、「聖なるいけにえとしてささげなさい」ということの意味だと思います。

「神に捧げる」という生き方。それは、一見良い行いを行う。律法を行うことと、外から見ていると同じように見えるかもしれません。

でも、心の中の動機は、180度違う。つまり、誰に喜ばれたくて、それをしているのかという、心の中の動機付けが違う。
自分を喜ばせるためなのか、神に喜ばれるためなのか。

自分で自分を喜ばせるために、良いことを行う。
自分には価値があるのだと、自分を満足させるために、人に対して良いことを行う。それは本当の意味で、その人のためにしている、良いことではなく、自分の満足のために、その人を利用して、良いことを行っているということでしょう。

パウロは、なにが善いことで、神に喜ばれ、また完全なことなのかわきまえるようになりなさいと言います。

自分がしていることの、その心の中の本当の動機。それは何のためにしているのですか。誰を喜ばせようとしていることですか。自分ですか、神ですか。

パウロが、「この世に倣ってはなりません」というのも、この世というものは、別に、神を喜ばせようとは思っていない。むしろ、神などいなくても、やっていけるのだと、自己実現を目指す生き方。そういうこの世に倣うのではなく、むしろ、この世にあらがっても、神に喜ばれる生き方を選ばせていく。

それが神の恵み、神の憐れみを体験した人、味わった人。聖霊が宿り、聖霊に導かれていく人の姿なのだ。

3節では、パウロは「自分を課題に評価してはなりません。むしろ神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」といいます。

自己評価の基準は、自分自身ではなくて、この自分を愛し、憐れみ、信仰さえも恵みとして与えてくださった、神の恵みこそが、自分を計る計りなのだから。

神の恵みというはかりで量ったならば、自分だけを過大に評価するなどということが出来るわけがないのです。

特に教会において、集められたひとりひとりに、神さまは恵みとして聖霊を与えてくださり、聖霊の賜物を、恵みとして与えておられるのだから。

一人として同じ賜物はない、同じ働きはできない、ユニークな宝を、賜物を、神さまは聖霊の賜物として、与えてくださっているのだから。

体の各部分が、それぞれに活き活きと働くことが、体全体の健康となるように、キリストに結ばれて一つの体を造っている、私たちひとりひとりは、みんな比べようのない、取り替え不可能な、その人に固有の賜物を、神さまは恵みとして与えてくださっている。

預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善など、具体的な賜物をパウロはあげていますけれども、もちろんこれは大枠であって、人の数だけ違った賜物がある。その一つだけが、自分を過大に評価して、他の人々を批判したり、潰してしまうようなことがあったならば、結局は体全体が病気になってしまう。

声の大きい人とおか、議論に強い人の意見がいつも通るとか、反対に、自分にはなにもいいものがない。あの人に比べて、自分はだめだとか、自己卑下するのも、自分のエゴであるわけです。

本当の謙遜とは、自分を見つめるのではなく、神の恵み、神の憐れみを見つめて、神に愛され生かされていることに、ただ感謝して、自分を神さまの働きのために、捧げていくことにあるのですから。

それは、むしろ自然体の自分を、ありのままの自分を生きること。

自分で頑張って、自分の価値を人に認めさせようと、不自然な生き方とは違って、自然で、楽で、それでいて、いや、そうであるからこそ、与えられている聖霊の賜物が、豊かに実っていく生き方。

パウロはこう言います。

心を新たにして自分を変えていただきなさいと。なにが神の御心なのか、善いことで、神に喜ばれ、完全なことなのか。

自分、自分と、自分を見つめ、自分にとらわれる生き方から、

神さまの憐れみによって、心新たに自分を変えていただきたい。

いや、すでに変えられ始めている。

聖霊が降ったわたしたちのなかで、聖霊は今日も新たに、私たちを主イエスに似るものへと、変えてくださっているに違いないのです。