2022年5月1日主日礼拝メッセージ

ガラテヤ1章1節~10節
「ほかの福音などありません」


●序

5月になりました。教会の庭の「アヤメ(かきつばた?)」でしょうか?

5月の花が美しい紫の花を咲かせています。

悲しいニュース。不安な知らせに心痛めることの多い心を、美しい花々は、ただそこに咲いているだけで、慰めてくれます。

なにもしなくても、ただ、そこに存在しているだけで、命には価値がある。

その、当たり前でありながら、わたしたちが忘れがちなことを、神さまは、時々に美しい花を咲かせることで、気づかせてくださいます。

 

さて4月まで、わたしたちは共に、マルコの福音書を読み続けてきました。

「神の子イエス・キリストの福音の初め」と始まるマルコの福音書

わたしたちの罪のために、十字架の上で死に、復活させられたイエスこそ、「神の子」であり「福音」であると宣言するマルコの福音書


2月の後半から今も続いている、かの地の戦争の知らせに、全世界が心痛め、不安と恐れを感じる日々を過ごす中で、

何の罪のないイエスさまを、十字架へ追い込んでいった、人の罪の姿、救いようのなさを重ねつつ、絶望的な思いで迎えた、イースターの朝。


人の理解をはるかに超えた、復活のイエスさまとの出会いによって、

絶望は希望へと変えられていく。


「主イエスは、今、生きておられる」

罪と死に打ち勝ち、主は復活なさった。


だから大丈夫。「明日も生きよう、主がおられる」と、先週のメッセージでは、最後に共に、信仰を告白し、賛美の歌を、歌いました。


主の復活こそ、実に驚くべき、神の出来事であり、絶望を希望にかえる、逆転の希望です。

そして、その復活の希望は、人間の理解でも行いでもなく、ただ「信じ、委ねる」「信仰」のまなざしを通して、気づき、見えてくる希望でありましょう。


 先週の水曜日の昼のお祈り会のなかで、ある方が、「最近起こったつらいこと、いやなことばかりを考えて落ち込んでいたのに、あるとき、その状況の中にある良いこと、感謝なことに、心が向き始める、不思議な変化を体験しています」と、皆さんに「証」してくださいました。


 また夜のお祈り会においても、ある方が、身体の痛みに悩み、最近、大きな治療を決断し、結果的に、急速な回復を経験していかれるなかで、

今までは、ただ自分の決断が良かったとしか考えなかったのに、なぜか今回は、神様に導かれているのではないか、思わせられているのですと、「証」をしてくださいました。


人間の力の尽きたその先に、神は「復活」の希望を備えてくださっていた。

そして、わたしたちは、信仰によって、その神の愛の業。救いの業に気づいていく。


「福音」との出会い。復活のイエスとの出会いに必要なのは、わたしたちの知恵や力ではなく「信仰」であるのです。

 

●復活の主と出会った「パウロ

 さて、先週読まれた、復活のイエスさまとの出会いの後、ペトロを始めとした最初の弟子たちは、「弟子」ではなく、福音を伝える使命を託された、「使徒」と呼ばれるようになります。

 やがて復活のイエスさまは、天に昇られ、目には見えなくなるのですが、ペンテコステの祭りの日、約束された「神の霊」「聖霊」が、彼らのうえに降り、使徒たちは、大胆に、新しい言葉。復活したイエスは、罪から救う「メシア」であると、語り始めていきます。


そうして最初の教会がエルサレムに誕生し、次第にこの「福音」が告げ広められていくと同時に、ユダヤ人からの迫害も激しくなっていきます。


その迫害者の一人だったのが、熱心なユダヤ教徒の「サウロ」後の「パウロ」でした。


十字架につけられて死んだ、神に呪われた男が、メシアであるなどと告げるクリスチャンたちをゆるすわけにはいかないと、暴力的な迫害を行っていた彼。

ところが、その迫害のために、ダマスコという村に向かった途中で、その「復活のイエス」と、彼は出会ってしまう。

この復活のイエスさまとの出会いという決定的な経験を経て、彼は、自分が迫害していた教えを、むしろだれよりも深く理解し、だれよりも熱心に伝えていく「使徒」となっていくのです。


 そのパウロの伝道の様子が記されている「使徒言行録」は、教会学校と夕礼拝のほうで読んでいきます。


 主日礼拝では、その復活のイエスと出会い、深く深く、「福音」を理解させられた「パウロ」が記した手紙のなかから、特に「福音」の真理を明らかにしている、ガラテヤの信徒への手紙を、共に読んでいきたいと願っています。


●怒るパウロ
 先ほどは、ガラテヤの信徒への手紙の冒頭、1章1節~10節までが朗読されました。

他の教会に宛ててパウロが書いた手紙は、冒頭で感謝の言葉が出てくるのですが、この手紙の雰囲気は、冒頭からとても論争的かつ感情的です。

要するにパウロは、ガラテヤの教会に対して、怒っているのです。

そのパウロの怒りの理由は、6節に記されています。

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」

これがパウロが怒っている理由です。


今日のメッセージタイトルは「ほかの福音などありません」としましたが、それはこのパウロの言葉を元にしたものです。

「福音」「良い知らせ」「グッドニュース」

それをパウロは、復活のイエスと出会い、人からではなく、神からの啓示として受け取った。

パウロはその「福音」を、4節で短い言葉で告げています。


「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」


わたしたちが、イエス・キリストの十字架の歩みを見つめ続けてきた、受難節のあゆみを通して、いやというほど示されてきた、この「悪の世」の現実。そして、その悪は、他人ごとではなく、わたしたち自身のなかに、自分ではどうにもできない「罪」としてあることを示され、その、わたしたちにはどうにもできない「罪」によって、イエス・キリストは十字架に死なれ、そして、わたしたちにはどうにもできない「罪」から、救ってくださるために、神はキリストを復活させられたという「福音」。「良い知らせ」


この「福音」「良い知らせ」は、徹頭徹尾、神がなさった恵みの業であり、この神の救いの業のなかには、一ミリも、人間の行いは入る余地がない。

100%。神による救い。神が遣わされたキリストによる救いの恵み。

人間はただ、この神の恵みを、自分を救う恵みとして、信じて受け取るだけ。


これが、復活のイエスと出会ったパウロが受け取った「福音」の本質であります。


この、人間の行い、努力、信心などの一切によらず、ただわたしたちの罪のために、キリストが死に、そのキリストを復活させられた、神の業のゆえに、

キリストを信じる者は、その信仰において、救われるのである。

これが唯一絶対の、パウロが受け取り、延べ伝えてきた「福音」なのであり、断じて「ほかの福音」とか「もう一つ別の福音」はないのだ。


むしろ、パウロがのべ伝えてきた「福音」に反する「ほかのなにか」を、これこそが「福音」であると告げ知らせるものがいるならば、それがパウロ自身であれ、使徒と呼ばれる仲間であれ、天使であるとしても、「呪われる」、つまり、神に裁かれるであろうとさえ、パウロは語るのです。

 

パウロのこの言葉の強さから、この「ほかの福音」という問題が、教会にとって非常に深刻で、本質的な問題であることが伝わってきます。


 その「ほかの福音」とは、キリストを信じるだけではいけない。まず「律法」を行うことが、救いには必要であるという教えです。

ユダヤ教からクリスチャンになった人々の中には、「これが福音である」と、異邦人の教会を訪ねては、パウロの教えを覆していた人々がいたのです。


●「ほかの福音」とは?

 彼らの言い分はこうです。「律法」は、神との契約なのだから、異邦人はまず律法を守り、割礼を受ける必要があるのだ。その上で、キリストをメシアとして信じなさいと。

この主張が、いわゆる「ほかの福音」として、パウロが開拓した、ガラテヤの教会の中に持ち込まれると、ガラテヤの教会は、むしろこの教えのほうに、なびいてしまっていたのでした。


このいわゆる「ほかの福音」の教えによって、何が引き起こされるのかといえば、

ただ、神の恵みによって、わたしたちは、そのままの姿で、罪赦され、救われるという、福音本来「喜び」が見失われていくのです。

そして、「律法」を行うという、自分の力に頼り始め、自分や他者を、「もっと頑張って善い行いをしなければだめではないか」と、裁き始めていくのです。

そういういわゆる「律法主義」によって、人がそのままで神に愛され、受け入れられるという、「福音」の喜びが見失われていくことになるのでした。

そして、実にこの問題は、、教会の長い歴史の中で、なんども繰り返されてきた、根の深い問題でもあるのです。


中世のカトリック教会が、キリストを信じるだけではなく、免罪符(贖宥状)をはじめとする、人間の良い行いも必要であると、「ほかの福音」を説いて、その結果として、教会が民衆を支配し、搾取するという、あってはならない姿へと堕落していく中で、


修道士だったマルティンルターが、このガラテヤ書やローマの手紙に、パウロが記した、キリストの信仰によってのみ、神の前に義とされる。救われるという、「福音」の神髄へと、立ち帰る運動を展開していったのでした。


これがプロテスタント教会が生まれたきっかけであり、わたしたちのバプテスト教会も、この「信仰義認」に立つ、プロテスタント教会に連なっています。

 

 約2000年前に、ガラテヤの教会で起こった、「福音」からの逸脱。

それは、決して、ガラテヤの教会だけに起こった問題ではなく、教会の歴史の中で、なんども繰り返されてきた問題です。

 

そして、この問題が根深いのは、いつのまにか、気が付かない間に、「福音」から離れていくという点にあります。


「キリストの復活」を信じることが、難しいことであるように、

人間の力、知恵、努力ではなく、「ただ十字架と復活のキリスト」を信じ、委ねることで救われるという、この「福音」にとどまることが、実は難しいことを、教会の歴史が、証してきたともいえるのです。


 キリストを信じるだけでは、なにか足りないのではないか?

もっと、わたしたちが、なにかをしなければならないのではないか。律法を行うこと、善い行いを行うこと、愛することをしなければ、神に愛されないのではないか。


このような誘惑による、不安から逃れ、安心するために、あるいは、周りの目を気にして、善いことを行おうとしてしまう。


言い換えるなら、喜びや平安からではなく、不安や恐れを動機にして、教会の奉仕であれ、献金であれ、何であれ、してしまうということは、他人ごとではない、わたしたち自身にも、どこか心当たりがある、問われることではないでしょうか。

 

●教会の課題として

 いわゆる、「カルト的な宗教」が、信者を熱心に働かせるための常套手段はなにかと言いますと、「働かないものは救われない」と教えることなのです。

あなたこのまま、いい加減な信仰生活を送っていたら「滅びるよ」と脅すことです。

そうやって恐れさせて、頑張って、自分で自分を救おうとさせることです。

パウロもかつて、熱心なユダヤ教徒、サウロだった頃。誰よりも熱心に律法を行っていた人でした。

その熱心さは、律法を守らないクリスチャンを、迫害するほどでした。

カルト的な信仰が恐ろしいのは、自分が救われるためなら、人を傷つけ、時に暴力をふるうことさえ、正義になってしまうことです。


 ある宗教は、二人組で家々を訪問して伝道しています。人を救うために、伝道していると信じて、熱心にしておられますが、訪問伝道にはノルマがあり、報告義務があり、そういう意味で、結局はそれをしなければ、裁かれるのではないかという、不安から救われるために、伝道をさせられているというのが、実体であると聞きました。


それらはすべて「ほかの福音」「もうひとつの福音」なのであり、結局は、自分の努力によって、行いによって、自分を救おうとする、律法主義であるのです。


●「福音」に混ざりものを入れない

わたしたちの力ではなく、ただ、キリストの恵みが、わたしたちを救う。

 この「キリスト」以外に、「人の行い」が必要であるとか、「ユダヤ人」でなければならないという、条件を加える教えは、決して「福音」ではありません。


そして、そのような、ほかの条件は、必ずしも「行い」とは限らず、「民族」とか「国」という条件を、「福音」に加えることも、あるのです。

 

第二次世界大戦のドイツにおいて、ドイツ的キリスト者と呼ばれる、国粋的なキリスト者現れました。


キリストを信じると言いながら、同時にドイツ人がもっとも優秀であるという、民族の誇りを強調するキリスト者たちは、ユダヤ人差別と、ナチスへと協力を行いました。

このような「福音」からの逸脱が起こった時、しかし、神は、あのルターを、改革者として立てたように、福音に立つのだと、ドイツ的キリスト者を批判する、勇気ある人々を立てました。


彼らは、バルメン宣言という、信仰宣言を公にしています。

その最初は、こういう宣言で始まります。

「聖書において証されているイエス・キリストは、われわれが聴くべき、また生と死において信頼すべき、服従すべて神の唯一のみ言葉である」と。

そして、この神のみ言葉の他に、またそれと並んで他の出来事や、力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないという誤った教えを、我々は退ける」と。


教会の中で、キリストの言葉を信じるだけではなく、ほかの何かが必要とされることを、断じて退けると言い切った彼ら。


今、キリスト教の一つ、ロシア正教が、ロシア民族の祝福のためにと、国の戦争に加担していることに、心を痛めつつ、

今また、このバルメン宣言の言葉に、立ち帰らなければならないと、痛烈に思わせられているのです。


キリスト以外に、なにか必要であるかのような、そういう誤った教えを、我々は退けるのだと。

それは約500年前に、マルティンルターが、当時のカトリック教会に告げたことばであり、約2000年前にパウロが、ガラテヤの教会に告げた言葉でもある。

「もう一つ、別の福音がある」わけがないのだ。

私たちの望みは、今も生きておられる、復活の主。イエス・キリストの恵みだけなのだ。

自分の力、頑張り、民族、国の誇り、プライド、そんなものが我々を救うのではなく、

ただ、わたしたちの罪のために、神の御子がその命を捧げてくださり、罪から救い出してくださった、


この神の愛と恵みの救いだけが、わたしたちの希望であり、喜びであり、のべ伝えるべき「福音」なのであると。


今日の最後のところ、10節で、パウロはこう語ります。


「 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」

 

 パウロは、キリストの十字架と復活の「福音」を宣べつたえる旅の中で、この人に取り入ろうとする誘惑と、きっと何度も戦ったのではないかと思います。


当時の知的な人々が集まるアテネにおいては、彼らに受け入れられるようにと、知識人が喜びそうな内容で伝道しました。しかし、最後に、キリストの復活を語るところにいたり、アテネの人々は去って行ったのです。

また、ユダヤ人の会堂で、イエスこそメシアであると告げると、口汚くののしられ、馬鹿にされました。


キリストの十字架も復活も語らずに、ただアテネの人々が、また、ユダヤ人たちが、喜びそうなことを、語ってさえいれば、あるいは、迫害されることもなく、穏やかな日々を生きられたのかもしれません。

 

しかし、復活のイエス様に出会い、律法を行う自分の努力に縛られ苦しむ、律法の奴隷から解き放たれ、

この罪あるままのわたしを、赦し、受け入れてくださる、キリストの恵みの「福音」を伝えたいと、苦難をさえ喜ぶ、キリストの僕として、彼は生きている。

 

わたしたちもまた、罪あるこのままの姿で、赦し受け入れてくださる、キリストの恵みの「福音」から、離れずにいたい。

 

「もっと愛さなければ」「もっと捧げなければ」、わたしは、あなたは、神に裁かれ、見捨てられるという、恐れをもたらす「ほかの福音」に誘う、あらゆる誘惑から離れ、

 

ただ、神に生かされているいのちを生き、美しく咲く花のように、

ただこのままのわたしたちを赦し受け入れてくださる、キリストの恵みの「福音」を、まっすぐに信じて、

神に愛されているわたしたちとして、新しい一週間を歩みだしていきましょう。