「恵みは満ち溢れる」(花小金井キリスト教会夕礼拝 5月7日)

ローマ5章12節〜21節

 教会学校で学ぶ聖書のカリキュラムに従って、夕礼拝でもローマの信徒への手紙を読み進めています。
 先週は3章を読みました。

 律法を守ることで神に認めていただく。そういう発想で「神の義」を理解してしまうと、むしろ、人間は、神さまとの正しい関係、つまり、天の父である神に愛されている子どもという、愛の関係から、離れていってしまう。なぜなら、神は天の父ではなく、自分の行いによって、いい点数をくれたり、くれなかったりする採点者にしてしまうわけだから。

 そして、自分はいい点数がほしいから、100点がほしいから、いい行いをする。神や人を愛します。なぜなら、自分が救われたいから。愛されたいからと、ますます自分中心になってしまうという、話をいたしました。

 律法を守ることで、神に認めていただくという考え方の中心にあるのは、結局は「自分」。「自分」が神に認められたいという、その思いが、その人を宗教ねっしんにさせているだけ。

パウロもかつては、そう考えて、頑張って律法を守れば守るほど、自分は頑張っているのだと、自意識が大きくなり、律法を守れない人を見下していたし、クリスチャンを迫害さえしていたわけです。

しかし、あるときパウロは、復活のキリストに出会う。ここで彼の考えたは180度変わってしまう。

つまり、「自分」ではなく、「キリスト」が、救いの中心、土台に据えられるのです。イエス・キリストが、十字架の上で流された血によってこそ、罪から救い出されるのだ。自分ではなく、キリストが、救うのだ。

そういうパウロの熱いメッセージを、先週私たちはここで聞きました。


 先ほどは3章から飛んで5章を読みましたけれども、パウロがここで語っていることも、前回の3章と基本的には同じだと思う。

つまり、基本的にはここでも「自分」ではなく、「キリスト」を見よとパウロはいいたいのだと思っています。

ただ、そうはいっても、すこし丁寧に今日のところを読んでいきたいのですけれども、

その前に、飛ばしてしまった4章以下の部分を、要約してお伝えしないといけません。4章でパウロは、自分が必死に伝えてきた、その福音の根拠はなんなのか。それは旧約聖書の出来事なのだと、引用していきます。

4章では、旧約聖書の重要人物、信仰の父アブラハムが登場します。ユダヤ人ならアブラハムを知らない人はいない。

創世記の15章でこのアブラハムは、神さまから、あなたの子孫をそらの星の数ほど増やし祝福すると、約束していただく。

そしてその神様の約束を、「アブラハムは信じた。それが、彼の義と認められた」と旧約聖書の創世記には書いてあるのです。

神の愛の語りかけと、約束を信じる。それが神さまから義と認められることなのだと、旧約聖書の物語を引用しつつ、だから、わたしたちも、イエスを死者の中から復活させた方を信じるなら、神様から義と認めていただける。自分ではなく、キリストを復活させた神が救うのだ。義とするのだ。


「義」という言葉が、わかりにくいのですが、正しいとか正しくないというよりも、神さまとの愛の関係に入れられることを、「義」とイメージしたい、ということを、先週もお話ししました。

あれかこれかではなく、神の愛のなかに、すっぽりと包み込まれてしまうイメージ。それが「義とされる」というイメージ。

正しいとか正しくないとか、あれかこれかではない、もっと深い言葉。でも、なかなかほかの言葉で説明しきれない、言葉。「義」


同じように、ほかの言葉に置き換えにくい言葉が「罪」という言葉じゃないでしょうか。


「罪」英語ではsin 元のギリシャ語では、ハマルティア。よく、「的外れ」と説明される言葉ですね。

 今日のパウロの手紙では、この「罪」がいったいどこからやってきたのか、ということが前半のテーマなのです。

「このようなわけで」とパウロの手紙は始まりますけれども、その前のところでは、キリストにおいて、神の怒りから救われる話をしていたパウロは、いきなり、「このようなわけで」と話し始めます。

その内容は、一人の人によって罪と死が、この世にはいったということです。

ちょっと、唐突な気がします。なぜ、いきなり「罪」がこの世に入り込んだ話になるのか、よくわかりません。


おそらく15節からの、神の恵み、救いをこそ、強調したいので、そのためにまず「罪」のことをパウロは語り始めたのではないか。


4章では、アブラハムの話でしたが、ここではもっとさかのぼって、天地創造の始めに、神が最初に造られた人間、アダムの物語のなかに、「罪」の始まりをみています。

創世記の中に記されている、エデンの園に置かれたアダムが、妻のエバとともに、神が取ってはならないと言われた、知恵の木の実をとって食べてしまった。あそこで、この世界に「罪」と「死」が入りこんだ。

いわゆる、「原罪」ですね。オリジナルシン。パウロがいいたいのは、人間は、律法を守らないから、罪人なんじゃなくて、もともと罪人だから、律法をまもれないんだ。律法が与えられたのは、人がみな「罪人」だということが分かるためだったのだ、ということを言っているわけです。

さて、ちょっと戻りますけれども、そもそもこの「罪」とか、「罪人」という言葉が、なんど聞いても、分かったようでわかりにくい。

パウロがここで言っている「罪」とは、もちろん「犯罪」のことではないわけです。

では、罪を犯すことと、犯罪を犯すことは、なにが違うのでしょう。

わかったようで、わかりにくい。

「犯罪」が法律を犯す行為で、「律法」を犯すことが「罪」ということでしょうか。

しかしパウロは、13節で「りぽぷが与えられる前にも罪は世にあった」というでしょう。

律法を守るとか守らないとか、そういう話ではなく、もっと根源的な話。そもそもの根っこの話をパウロはしているのです。

罪とは、あの天地創造の最初の出来事。最初の人アダムのストーリにおいて語られた、神の愛から離れていく、人のあり方そのものとして、パウロは語っている。


つまり、罪とは、あんなことをやった、こんなことをやったと、数えられるものではなくて、あのアダムとエバが、神が食べてはならないと言われた木の実を食べてしまうという、ストーリー全体が示している、

神のみ心から、隠れてしまう、存在そのもの、その根っこにある、的外れの問題。

建物に譬えるなら、そもそも土台が歪んでいたり、傾いていたら、その上に高い建物を建てれば立てるほど、傾いてやがて倒れてしまうわけです。罪はやがて死に至るということです。

そのように、パウロがいう「罪」とは、一つ二つと、数えられる犯罪のことではなく、そもそもの人間存在の土台が、神様に対して歪んでいる、傾いている、

的を外していて、その上に建物を建てると、いつか倒れて死に至ると、そういうことをパウロはいっている。

人間性の本質に、この「ゆがみ」が、「傾き」が、「的外れ」がインプットされてしまった。あえてわかりやすく言えば、DNAに書き込まれしまった。なので、世代を超えて世界中に、この神に対して歪んだ、DNAが、「罪」が、どんどん受け継がれて、すべての人のなかに、罪と死が入り込んでいるという。

それが14節でパウロがいう「アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」という言葉の意味するところでしょう。

でも、それが現実だとしても、パウロはその罪の現実を嘆くために、ここでそういうことを言っているのではないのです。そうではなく、むしろこのあと、15節以下で語り始める、神の恵みの賜物、プレゼントについて語りたいからこそ、


この神の恵みの賜物は、そんな罪などとは、比較にもならないことを言いたいがために、彼は、アダムの罪のことを語っている。

15節でパウロは言います。
「恵みの賜物は、罪とは比較になりません」と

アダムによって入り込んだ罪、そして死は、神の恵みによって、つまり、イエス・キリストによって、義とされる。救われる。命を得ることになるのだと、このことをパウロは言いたい。


パウロはここにおいて、裁判のイメージを使って語っていくので、有罪とか無罪という、固い言い方になってしまうのですけれども、最終的には21節で言われるように、
「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、私たちの主イエスキリストを通して、永遠の命に導くのです」というゴールに向かって語っている。

つまり、永遠の命。神の命に導いていく、神の驚くばかりの恵み、プレゼントが、キリストなのだ。そのキリストによる喜びに比べたら、アダムによってこの世界に入ってしまった、人間の土台の「歪み」、「傾き」、「的外れ」という「罪」の悲しみは、比較にもならない。

この喜びと確信あふれるメッセージを、パウロはここで語りたいからこそ、罪の話をしているのです。

この、神が既に与えて下さった恵み、比べ物にならないプレゼントの希望を、しっかりと今日は心に受け止めて、ここから家路に帰りたい。

だから、大丈夫だと、新しい勇気をいただいて、ここから歩み出していきましょう。



 よく、キリスト教は、人間を「罪人」だと決めつけて、悔い改めよと、脅すから嫌いだ、ということを聞くのです。

 実際、教会においても、人の罪を責め、この世界の罪を責め、悔い改めを迫るようなメッセージが語られることも、残念ながらあります。

それは特に、旧約聖書からのメッセージをするときに、旧約聖書預言者たちが、イスラエルの民が、神の心から離れていく、その「罪」を糾弾して、悔い改めよと語るところから、教会も、この世に対して、お互いに対して、預言者的に、悔い改めのメッセージを語るべきだと、そういう理解もなされるわけです。

それはそれで、大切なことでしょう。悔い改めは、自分のこだわりから自由になること、神に立ち返ることは、本当の自由と喜びであるわけだから。


でも、今日のパウロの語り方から言えることは、人の罪を指摘するときは、そのすぐ後に、それとは比べものにならない、比較にならないほどの、神の恵みの賜物が、与えられたのだという、このキリストの十字架の赦し、そして永遠の命の賜物を、ちゃんとセットで語らないといけない。

アダムだけを語るなら片手落ちなんです。そもそもアダムを語るのは、キリストがどれほど神の恵みなのかを語る為だったのだから。

つい、人間の罪、この世界の罪だけにフォーカスしてしまって、失望してしまったり、イライラしてしまったり、あいつが悪い、こいつが悪いと、裁いてしまったり、そういうことになりやすいのですが、

パウロが罪について語るのは、この世界は罪に汚れているのだと、上から見下して、責めるためではなくて、むしろ、こんなに汚れてしまった世界であるにもかかわらず、あのヨハネ福音書にあるように、

神は、キリストをお与えになるほどに、この汚れてしまった世界を、わたしたちを愛されたのだ。キリストが十字架について血をながすほどに、愛されたのだ。キリストを信じる者が、一人も滅びることなく、永遠の命を得るために。

パウロはだから20節でこう言います。

「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」

律法によって、罪がよく見えるようになった。罪が増し加わるとは、そういうことでしょう。
わたしたちは聖書の言葉を知ることによって、罪がよく見えるようになったでしょう。自分の中の罪が、人の中の罪が、この社会の中の罪が、よく見えるようになったでしょう。

しかし、そのよく見えるようになった目で、自分の罪を責め、人の罪を責め、社会の罪を責めるのではなく、わたしたちもこのパウロのように、むしろその罪が増し加わったような、現実の只中に、なおいっそう満ちあふれる神の恵みを、見つけたいのです。

この社会は、こんなに罪深い。この政治家はこんなに罪深い。あの人は、この人は、あの国は、この国はと、罪がよく見えるようになったなら、そこに働いている神の恵みは、その100倍も満ちあふれていることに、心の目が開かれたいのです。

エスさまが生き、パウロが生きた、約2000年前の時代。民主主義も、基本的人権もなく、今からは想像もできないほどの、権力者の横暴、搾取、奴隷も当たり前にいた時代。今のわたしたちからすれば、遙かに罪深かった時代のなかで、パウロはいうのです。

罪が増すところには、恵みはなおいっそう満ちあふれるのだと。

今、この世界はどうなってしまうのかと、不安を感じる人々の多い時代。なにかこの世界がどんどん悪い方向にいってしまうんじゃないかと、失望したり、もっと身近な人間関係においても、また、自分自身のなかにおいても、どうにも「的外れ」な「罪」がはびこっているように失望させられるとするなら、むしろ、そこにこそ、神の恵みはなおいっそう満ちあふれていくのだと、パウロの確信を、信仰を、わたしたちもいただきたい。

この世の罪を、ただ見つめるなら、失望にいたる。しかし、そうではなく、むしろ、神の恵みが満ちあふれていくプロセスに、今、私たちはいかされちるのだと、今を耐え、忍び、勇気を失わずに、喜びつつ、生きていきたいのです。いや、福音はそのように私たちをいかす、神の力であるのです。