「こう考えなさい」(花小金井キリスト教会5月14日夕礼拝メッセージ)

ローマの信徒への手紙6章1節〜14節

 このパウロが語っている、バプテスマによって、キリストと共に葬られ、罪に対して死に、新しい命に生きるという言葉を読むと、わたしは去年の夏に、母の住む佐渡島に帰省した時に、知り合いのお寺を訪問して、そこのユニークな住職さんが観光客相手にやっていた、「暗闇体験」というものを、思い出してしまうのです。

写 経コーナーとか、瞑想コーナーとか、いろいろあって、そのひとつに、「暗闇体験」というのがあったわけですけれども、これが一番人気だというわけです。最初は小学生の息子が興味を持ったのですけれども、いざ、その暗闇体験の場所にいってみたら、実は、暗闇とは「棺桶」のことだった。


そりゃ、暗闇体験には違いないけど、ちょっとブラックジョークだなぁと思いましたね。さすがにご遠慮したい。

でも、住職さんが言った言葉が忘れられない。

人間、なかなか変わろうとおもっても変われない。
ダイエットでも、なんでも、まあ今日はいいや、明日からやろうと、なかなか変わろうとしないでしょう、という。

でも、もう明日はないのだ。明日は死ぬと思ったら、明日に先延ばしなどしないでしょう。今、精いっぱいできることをするんじゃないですか、と。

だから、一度この棺桶に入って、死んでもらうんです。死んだ気になってもらう。
そして、棺桶からでて、新しい気持ちになってもらうんですよ、とそういうことをいった。

だから、今は、いいです、とか、またこんど来た時でいいんですというのは、だめなんだよ。今、はいらなっきゃ、って真顔で迫ってくる。

夫婦で入りたい人もいるから、二人用も作ってあるって、別室にある二人用の棺桶まで見せてくれながら、

なんだか、そこまで言われて、意気地がない男だと言われているようで、くやしくなって、ぼそっと「はいってみようかなぁ」とつぶやいたのだけれど、そばにいた息子が、やだ怖いといってくれたので、こどもの手前、やめておきます、ということで、残念ながらというべきか、ありがたくもというべきか、分かりませんけれども、入らないですんだ。

なので、わたしは今日もちっとも、変わらないままなのです。

しかし、この一度死んだ気になって、新しい自分になる、という考え方は、キリスト教バプテスマ式とも、似ているわけですね。

バプテスマをする人に、いつも説明するのは、一度水に沈むのは、古い自分に死ぬということなんですよ。そして、そこから起き上がることは、新しい自分として、復活することを象徴しているのですよ、と説明するからです。

もちろん、バプテスマという儀式をすることで、そういう神秘な力が自動的に働くと、わたしたちは考えているわけではなくて、主イエスへの信仰を告白して、そういう神の出来事のなかに、すでに入れられている人、すなわち、救われている人に、その証として、象徴としてバプテスマ式を行うというのが、わたしたちの理解ですから、バプテスマ式さえすれば、新しい自分になれるという、そういう話ではない。

すでに、新しい自分に目覚めている人に、その証として、バプテスマ式を行うというのが、私の理解しているところです。

もし、「棺桶」に入ることで、死んだ気になれて、そこから、本当に、新しい自分というものになっていけるのなら、そういうことが本当に起こるのなら、それは実に素晴らしいことであって、新しい宗教をさえ始めることが出来るでしょう。

でも実際は、人間はいつか死ぬんだな。自分も死ぬんだよな。時間を無駄にしていてはいけないな、という気づきを与えるくらいで、それを新しい自分になった、というのは、ちょっと言い過ぎだと思う。

そして、やっぱり決定的に大切なのは、パウロがここで語っているバプテスマとは、自分一人で死んで、新しい自分によみがえるという話ではなくて、4節にあるように、キリストと共に葬られ、その死にあずかることであるし、キリストがそこから神の栄光によって復活させられたように、わたしたちも新しい命に生き返って生きるためなのだ。

キリストと共に死に、キリストと共に生きるのだという、ここが決定的に重要であるわけです。

古い自分。それは罪に縛られ、支配されている自分。それは先週の夕礼拝で、人間の最初の人、アダムから罪がはいったのだと、パウロが語っているところの、すべての人間に入り込んでしまった根源的な罪のもんだい。

この罪は、一つ二つと数えられない、本質的な罪。神に対して、生きかたが曲がってしまっている。向かうべき方向が、的を外してしまって、神にではなく、自分に向かって突き進んでしまっている。

神中心ではなく、自分中心。エゴイズムということです。

この神ではなく、自分を中心に、自分の栄光の為に生きてしまうという、罪の問題は、ただの理屈ではなくて、本当に、自分の生き方を縛っているし、不自由にしていることに気が付かされ、向き合わされという経験があるでしょうか。本当に、この罪から、解放されるには、死ぬしかないんじゃないかと、死んでやっと、解放されるんじゃないかと、それほど自分を縛り付けている問題であることに、気づかされたことがあるでしょうか。

わたしの両親は、わたしが二十歳の時に別れてしまって、それはそれは修羅場だったのだけれども、その経験を経て、人はなぜ愛し合えないのか、こういう悲しい終わり方をするのかと、生きていてもむなしくなった日々の中、ある日、本屋で手に取ったクリスチャン作家の三浦綾子さんの本を読んで、そこに病床でありながら愛し合い寄り添いあっている夫婦の日々の他愛ない姿が記されていて、乾いていた心に水がしたたり落ちるように、三浦さんの本が心にしみて、心に火がともったようになって、それから、三浦さんの本を読み漁るようになったのが、20代の前半でした。

三浦綾子さんは、クリスチャンでしたから、聖書の言葉が端々に出てくる。人間の罪の話も、その罪が、キリストの十字架によって、許されることも、ときどき書いておられたと思います。

ただ、そのころのわたしには、そういう話はぴんと来なかった。人間は罪びとと言われても、実感がなかったし、キリストの十字架も、自分には関係のない、絵空事のように読み流していたと思います。

それよりも、三浦さん夫婦夫婦のように、愛を実践して生きていきたい。三浦さんの小説に出てくるような、愛に生きる人々のように、自分も生きれば幸せになれるじゃないかと、そう思って読んでいたと思う。

そのころは、罪の自覚というものが、全くなかったとは言わないけれど、あまりなかったと思います。自分も人にやさしくしたり、愛を表して生きればいいのだ。そうすれば、両親のようにはならないと、そう思っていた。

そのころ、わたしは自衛隊の音楽隊でトロンボーンを吹いていたのですが、実はある人がとても生意気で気に入らなかったのです。へたくそなのに、自分がわかっていないで、天狗になっているなと、その人がいやでしょうがなかった。

わたしはそのころ、誰よりも一番早く練習場にいって、練習をはじめて、だれよりも一番最後に練習場を出て、カギをしめるやくだった。
でもその人は、ろくすっぽ練習もしないで、要領だけよいように、見えたわけです。今思えば、わたしの偏見だったと思いますが。

でも、三浦綾子さんの本を読むようになって、自分はこれじゃいけない。愛をしめさなければと、おもうわけです。

それで、がんばって次の朝、自分からその人に挨拶をするぞ、と決意して、練習場に行く。でも、その人をみたとき、自分から目さえ合わせられない、そういう自分がいることにあらためて気付いたのです。体がいうことを聞かない。頭ではしなければならないことが分かっているのに、できない。どうしてもできない。

こういう経験を繰り返す中で、ああ、これが自分のなかにある、罪というものなのかということを、いやというほど実感させられていって、そして初めて、キリストの十字架を信じることで、この罪が赦され、罪から解放されるなら、信じたいと思うようになって、やがて教会にいって、バプテスマを受けることになるわけです。

本当に、自分の罪の問題は、自分ではどうにもならない。自分の中にあるエゴ。自我を、自分ではどうにもできない。

この実感と、自分への失望、絶望の先に、キリストの救いが見えてくる。

自分への失望、絶望。それはある意味、自分に死ぬということでしょう。

肉体的に死ぬのではなく、自分のエゴ、自我に死ななければ、解放されないまま、ずっと自分のエゴに、自我に縛られ続けて一生が終わってしまう。

しかし、キリストが、この私の、そして私たちの、罪に対して、ただ一度決定的に死ぬことで、わたしを、わたしたちを、罪の束縛から、支配から解放したのだ。

わたしたちは、キリストにおいて、罪に対して、死んだ。

そして11節でパウロはいいます。

「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対していきているのだと考えなさい」と。


かつてパウロも、自分は律法を守りぬくのだと、頑張に抜いた生き方の中で、結局、律法を守る、自分のプライドにますます縛られ、がんじがらめになっていき、その結果が、律法を守らない、クリスチャンたちへの怒りと迫害となったわけでした。


その彼に、復活の主イエスが出会ってくださった。そこで初めてパウロは、自分が、今までいかに自分のエゴに囚われ、律法を行ってきたのが、その罪が見え始めたに違いない。

それまで、ちっとも見えていなかった、自分の罪が、目から鱗が落ちるようにして、見えるようになって、気づかされたパウロ

使徒言行録によると、復活のイエス様に出会って、パウロ目から鱗が落ちた直後に、彼は、バプテスマを受けているのです。

彼は言うのです。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と。

自分の力で頑張って死ぬのではないのです。そして、自分で頑張って生き返るのでもない。そんなことができるわけがないのです。

人間は、ちょっと棺桶に入ったくらいで、死んだ気になったり、ましてや、根源的な罪の束縛から、解放されたりなどは、絶対にない。罪はそんな甘っちょろい者じゃないのです。

しかし、ただ一度、その根源的な罪に対して、キリストが死ぬという、ありえない神の恵みによって、この罪の束縛、縄目が打ち砕かれた。

そのキリストの死と、その死からの復活に、わたしたちがあやかることでのみ、わたしたちは、自分の罪から解放され、神に対して、神に向かって生きていく、本当の人間として生き始めることができる。

パウロは、「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と言います。

考えなさいとパウロは言うのです。

神がなさった、この出来事を、自分自身のこととしてとらえ、考え方として、頭の中に収めておくということは大切です。


なぜなら、わたしたちは、つい、目に見える現状から、判断してしまうからです。聖書の約束からではなく、キリストの死と復活の出来事の意味からではなく、

目の前の現状、変わらないように見える、自分自身の現実を見つめてしまうからです。

自分はもう、バプテスマを受けてからしばらくたつのに、なにも変わっていないなぁとか、相変わらず、罪深いなぁ、エゴに縛られているならと、現状から考えてしまって、これでも本当に救われているのだろうかと、そういう考えにとらわれてしまいやすいでしょう。

そして、他人に対しても、あの人はバプテスマを受けたのに、ちっとも変わっていないなぁとか、本当に救われているのかなと、そういう考えにとらわれてしまうでしょう。

だから、まず「考え方」つまり、パウロが「そう考えなさい」といったこと、「教え」や「教理」を頭に入れておくことは、やはり大切です。

目に見える状況から考え、判断するのではなく、むしろまだ、目に見えていない現実を、真理を、わたしたちは、聖書から聞き取りながら、その聖書の言葉から考え、聖書の言葉に立って、行動し、現実や状況を変えていく。それがわたしたちの信仰であるからです。

だから、目に見える状況がどうであれ、なにも変わっていないように見えても、むしろ悪くなっているんじゃないかとさえ、見えたとしてもかまわないのです。

神がすでになさっている救いの事実は、変えようがないのだから。

わたしたちは、キリストの死と復活のゆえに、罪に対してすでに死んでいるのです。そして同時に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対していきています。

現実がそのように見えなくても構わないのです。そう考えて行動していくところに、聖霊の助けがあり、やがて目に見えるように、現実が実っていくのですから。ことが大切なのです。


そういうあり方が、続く12節以下で語られることでしょう。

すでに、罪に対して死んでいるのだから、もう罪に自分の体を支配させ、自分中心の欲望に従わせなくてもいい。

わたしは、罪に対して死んでいるのだ。解放されている。新しい命に復活している。

そのことを、ちゃんと自分自身のこととして、受け入れて、そのように考えて、聖霊の助けを祈りつつ、そのように生きてみる。チャレンジしてみる。

与えられた命を、時間を、神に向かってささげてみる。

わたしたちは、律法の下ではなく、恵みの下にいるのだから。

エゴに死に、神のいのちという、新しい方向性と力をいただいて、今、いきているのだから。

そのことを、ちゃんと自分のこととして受け止め、考え、生きてみるなら、現実がちゃんとそのように実っていく。


コロサイ人への手紙のなかで、パウロはこういうことを言っています。、
「あなた方にまで伝えられたこの福音は、世界中至る所でそうであるように、あなた方のところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」といっています。

 神の言葉を聞いて、真に悟る。心に、魂に、すとんと落ちる。腑に落ちる。それが自分の考えの土台となり、その人の生き方となっていくとき、目に見える現実が、やがて後から、豊かに実を結んでいくのです。

神は、もうすでに、キリストの死と復活という恵みを、福音を表してくださっていますから、後は、その福音が、すとんと心に落ち、腑に落ち、自分の考えの土台となり、生き方になっていくなら、


土に蒔かれた種は、なにもしなくても自然に豊かに実をならせるのです。

最後に、もう一度パウロの言葉を聞いて、終わります。
11節

「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対していきているのだと考えなさい」