「主にあって互いに語り祈り合おう」(花小金井キリスト教会 5月14日主日礼拝メッセージ)

フィリピの信徒への手紙4章2節−9節

今日も、すべての状況が守られて、ここに集うことが出来ました。感謝です。

 今日は母の日ですね。礼拝の後で、男性グループから恒例のプレゼントがあるようですから、女性のみなさま、楽しみにしてくださいね。

 自分が女性だと思う方はみなさんいいんでしょうかね。また、家で待っている、お母さんや奥さんに持って帰りますという男性は、どうなんでしょうねぇ。あまったらいいことにしますか。

今日、礼拝に来られた方はラッキーですね。

特に、最近は、新しく、教会のご近所から、礼拝にきてくださる方が増えていて、それがとても嬉しいなぁと、思っているところです。

平日、道を歩いていますと、そんな方々に、ばったりお会いしたりするんですよ。

先週も、なんにんか、私とばったりお会いした方が、ここにおられますね。手を上げましょう、とはいいませんけれども、今日もまた、ここでお会いできて、嬉しいです。

先週、一つ不思議なことがあったんですよ。ちょうど、そのあるご近所の方のポストに入れようと、「またどうぞ礼拝においでくださいね」と手紙を書いて、それを手に持ちながら、ちょっと買い物をすませようと、花小金井の駅に向かって歩いていたら、

ちょうとその方が、前から歩いてきたではないですか。

ばったり鉢合わせて、「いやー、偶然ですねぇ」なんていいながらも、その方はこうおっしゃるわけです。

「なにか、上で繋がっているみたいですね」って。わたしも、「そうですよ、繋がっているんですよ」と申し上げながら、手にしていた手紙を手渡したわけでした。

不思議な出来事って、意外と身近なところに転がっていますよね。ただ、心の目がかすんでいると、こんな小さな奇跡や出会いを与えてくださっている、主イエスのお働きが見えないまま、「偶然ですねー」で、終わってしまうわけですけれども、

神が造り導いておられる、この世界に、「偶然」などないでしょう。

主なる神が、目的をもって天と地をつくり、歴史を導き、今この時代に、私たちひとりひとりを、愛と目的をもって生かしてくださっている、

わたしたちは、その生きて、今も働かれる主なる神を、聖書を通して信じているのですから。
たとえ、今は意味がよく分からない出来事も、愛の神さまの、計り知れない御心の中にあるのだ。あの主イエスの十字架の苦しみも、復活へといたったように、
すべての出会いと出来事は、ちゃんと神の愛に包まれている。
だから大丈夫。

今、使徒パウロの手紙を読みましたけれども、フィリピの手紙は別名「喜びの手紙」と言われるくらい、「喜びなさい」とパウロはいうのです。それも「常に喜びなさい」とパウロはいうでしょう。常にということは、自分にとって喜べることも喜べないことも、みんなということでしょう。

そんなことがなぜ出来るのか。
その根拠をパウロは一言、こういうのです。
「主において」「主にあって」「常に喜ぶことができる」のだと。

主なる神が、この世界を愛し、わたしたちを愛し、ちゃんと守り、導いてくださっていることに信じることにおいて、

自分にとっていいとか、わるいではなく、主において、主にあって、喜ぶことが出来るようになる。

「主にあって」とは、英語では in the Lord で

in なので、主の中にあってという、包まれるニュアンスも感じますし、ほかの箇所では、「主に結ばれて」と表現されることもあるのですけれども、

要するに、主なる神様との関係のなかで、すべての出来事をとらえ、考え、理解し、向き合おう、ということです。

ですから、人間関係にしても、「主にあって」、「主において」というときには、互いに直接向き合うのではなくて、お互いの間に、主なる神がいてくださるという、関係において、いつもとらえていく。

そういう意味で言えば、わたしが先週、花小金井の駅前で体験した、不思議な鉢合わせも、「主において」とらえなければ、ただの偶然でも、「主において」「主にあって」とらえるなら、これは、生きて働かれる主が、主イエスが、与えてくださった恵みの出来事。喜びの出来事。ここになにか深い意味が、宝にあるにちがいないと、心の耳と目が開かれていくわけです。

「主にあって」「主において」生きる。主をいつも意識して生きる。これは、これは実に人生を豊かに、喜びに満ちたものにしてくれます。

人間だけが、この「主のおいて」「主にあって」生きることができる。主なる神との関係のなかで、考え、問いかけ、悩み、喜び、感謝することができる。

何気ないすべての出来事と出会いのなかに、神さまがくださった、二度とない宝を見いだすことが出来る。

昨日は、男性グループの4人が、青梅あけぼの教会まで出かけていって、あちらの壮年達と楽しい交わりを持って帰ってきたんですよ。
本当は、青梅の河原で、お弁当を広げる予定が、雨のために教会の一室で、一緒にお弁当を食べたのだけれど、あちらが8人ほどで、こちらが4人の初対面のおじさん達でしょう。普通考えたら、話が弾むわけがないじゃないですか。お弁当を食べ始めたけれども、しーんとしていたので、じゃあ、食べながら一人ずつ、自己紹介しましょうとなったわけです。
 ところがそれから実に約3時間にわたって、ひとりひとりがそれぞれの人生のなかで、主イエスと出会い、導かれてきた出来事を、その時にはつらかったことも悲しみも、喜びとなり、感謝となったそれぞれに人生を、心を開いて語り合う素晴らしい時間と、なってしまった。

本当に楽しかったんです。初対面のおじさん達が、お酒なんか飲まなくても、コンビニのお弁当だけで、本当に心から楽しく、心を開いて、一緒に時間を過ごせたのだから。

これは、もう一回やりましょうと言っても、決してできない。その時、その場に、主なる神が与えてくださった、二度とない出来事と、出会いですよ。

こういう、「主にあって」「主において」という、主との関係の中にいきるという、真の人間性、言い換えれば、創世記の最初で、人は神が息を吹き入れて、人間となったと記している、神の霊が吹き込まれた命。「霊的な存在」ですから。

神との関係、主イエスとの関係に生きる「霊性」「感性」を、磨いていきたい。


 今日の、メッセージの題は、「主にあって互いに語り祈り合おう」ですけれども、これは今年度の花小金井キリスト教会の主題テーマなのです。

 今日は午後に総会がありますけれども、このテーマと、そして聖書の箇所も、3月の総会で、みんなで決めたわけでした。

みんなで決めたけれども、それこそ「主にあって」、「主において」。主なる神との関係性の中で、決まるのです。人間の考えだけで決めているわけじゃない。

天からいただいたものを、みんなで「そうだね、アーメン」と確認する。それが「主にあって」決めるということです。

わたしたちはそのようにして、することなすこといつも、「主にあって」、「主において」受け止め、考え、行動するからこそ、「常に喜ぶ」ことができるのです。

でも、「主にあって」が、「自分にあって」「自分の思いにおいて」になってしまうなら、当然、「常に喜ぶ」ことはできませんし、人間関係も、いろいろ、ぎくしゃくするようになる。

先ほど読まれたフィリピの手紙の冒頭には、二人の女性の名前が出てきました。

4章2節からですね。

「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」

この後の箇所を読むと、この二人の女性はパウロとともに、かつては福音のために共に協力し合っていた女性たちなのです。でも、今は、なぜか仲たがいしてしまっていて、そのことが教会にとって大きな痛み、課題であったからこそ、パウロはここで具体的な名前をあげてまで、「主において同じ思いを抱きなさい」と言うのでしょう。

ここでも「主において」とパウロはいいます。逆を言えば、「主において」「主にあって」でなければ、わたしたちは、たがいに心を合わせることなど、できないのだということです。

キリストの12弟子は、元漁師もいれば、元徴税人というユダヤの裏切り者、また、元熱心党という、民ユダヤ民族主義者がいて、とてもとても一緒になどいられないひとびとだったにも関わらず、イエスさまが真ん中におられたからこそ、共に協力し合って伝道することはできたわけです。

そして今は、目に見えなくても、復活の主イエスが、共におられる。


「主において」「主にあって」こそ、弟子たちも、そして、この「エボディア」と「シンティケ」の2人の女性も、そして、今、ここに集う、わたしたち一人一人も、共に生き、共に協力し合うことができるし、

もしそうでないならば、ただの人間の寄り合いでしょう。

ただの人間の寄り合いは、いつも小競り合いがあり、派閥争いがあり、愚痴と陰口があるでしょう。

教会は、寄り合いではないのです。

「主において」「主にあって」互いに語り合い、祈り合う現場です。


ナチスに抵抗した牧師、ボンフェッファーは、こういうことを言いました。


「ひとりのキリスト者は、ただイエス・キリストを通してのみ ほかのキリスト者に近付く。
人間の間には争いがある。・・・・キリストなしには、神と人間との間、人間と人間との間に不和がある。

・・・他者への道は、罪によって妨げられている。

キリストは、神に至る道と、他者に至る道とを開いてくださった。

今やキリスト者は、互いに平和のうちに生き、互いに愛し合い、仕えあい、一つになることができる。

ただ、キリスト者は、イエス・キリストを通してのみ、そうし続けることができるのである。

ただイエス・キリストにあってのみ、われわれは一つであり、

ただ彼を通してのみ、われわれは互いに結び付けられているのである」


わたしのこの集まりを、争いと分派の、ただの人の「寄り合い」から救うのは、ただ一つ、

「主において、互いに同じ思いをいただいて生きる」こと

すでに、お互いを繋ごうと、近くにいてくださる、復活の主イエスに、心を開きたい。


あの、エマオの村に向かう二人の弟子が、復活の主イエスが近くをあるいているのに気付かずに、

自分の思い煩いで心いっぱいにしていたように、

仲たがいしていた「エボディア」と「シンティケ」の2人も、

お互いの間におられる、主イエスのことをすっかり忘れて、自分の思いでいっぱいになって、思い煩っていたのでしょう。


パウロはそんな二人に、そして人のことで、いつも思い煩う私たちに、

6節で、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と言うのです。


自分にはどうにもならないことを、どうにかしたいと思えば思うほど、人は思い煩うものだから。

あの人を、この人を、どうにかしたい。どうにかならないかと、思い煩うものでしょう。

人は神ではないのだから、お互いの弱さや限界を、受け入れなければ、一緒にいられないのだけれども、相手に理想や完全を求めて、いらいらしたり、思い煩ってしまうものでしょう。

そのように、人を見ては「思い煩う」そのその目を、人からはなして、上に向けましょう。主を見上げましょう。

パウロはつづけてこういいます。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と。

もし、こうなってほしいと、互いに求め、願っていることがあるのなら、
限界あるお互いに求めないで、目を天に向け、主にその求めているものを、打ち明けたらいい。

「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が」与えられ、
「あなた方の心と考えとを、キリストイエスによって守」ってくれると、パウロは約束するのです。

パウロは、そうすれば、願い事がかなうとはいっていません。

そういう後利益のレベルよりも、もっと大切なことを、主は充たしてくださる。

何にも代えがたい、神の平和、神による平安によって、心が守られると、パウロは約束します。

これは、彼自身が、体験したことに違いない。

パウロはこの手紙を書いたとき、福音のために、投獄されていたわけですから。


それに加え、そのパウロをさらに苦しめようという動機で、伝道しているパウロを嫌っているクリスチャンがいたことが、この手紙の最初を読むとわかります。

ところが、パウロはこういうのです。

たとえ、この自分を苦しめようとしていても、少なくとも、「キリスト」が宣べ伝えられているのだから、わたしは喜びますと。

なぜなら、わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことさえも利益なのだと、そこまでパウロは言っているのです。

パウロはもはや、自分の願いがかなってほしいとか、人々から敬われたいとか、そういうレベルを生きていない。

そんな自分のプライドに、死んでしまっている。ただ、自分を通して、キリストの名が広められることだけが願いだといっている。

このように語り、行動しているパウロの心の中には、紛れもなく、


この「あらゆる人知を超える神の平和」という体験が、「神の平安」という体験があったでしょう。

人がなにかを手に入れ、自分を大きく見せたいと願うのは、そうしないと、今の自分は「だめなのだと」、不安に縛られているからでしょう。

平安がないから、今の自分でいいと思えないから、人はご利益をもとめて、いくのでしょう。


わたしたちに本当に必要なのは、ご利益を超えたもの。

どのような状況の中でも、問題のなかでも、この自分を支え、生き抜く力を与えてくれる、

人知を超えた神の平和。神の平安。


「あなたは、わたしの愛する子」

「わたしは、誰がなんと言おうと、今どんな状況であろうと、

わたしの愛する子。神の子」

そのように、このわたしたちを、だれよりも愛しておられる、天の親との交わりの中でこそ知る、

人知を超えた、神の平和こそ、平安こそ、わたしたちが求めている宝。


そしてこの宝は、私たちのすぐそばにいつもある。

このことに、心の目が開かれたなら、もう、なにも思い煩うことはないではないですか。

自分は運が悪い、なんでわたしだけ、あの人はいいなとか、人をうらやまなくても、いいではないですか。

ご利益を求めなくてもいいではないですか。

今与えられているすべての出来事、出会いのなかに、素晴らしい宝があることに、心の目が開かれたら、

今、息が吸えるということ、ご飯が食べられ、味がわかり、話ができ、ここに集うことができたという、決して当たり前ではない、神様の恵みに、気づけたなら、


そして、なによりも、この自分のすべてを知り、決して見捨ず、愛しつづける主の愛を知ったなら、

この神の恵みを、互いに語り合い、祈り合わずにはいられないでしょう。


それが今年度の私たちのテーマです。


ここに来たならば、もう、自分の頭の中だけで、思い煩うことから、解放されて、

共に感謝を込め、祈りと願いを捧げて、求めているものを、主に打ち明ければいいのです。


主イエスは言われました。

「求めなさい、そうすれば与えられるであろう。探しなさい、そうすれば見いだすであろう。門を叩きなさい、そうすれば開けてもらえるであろう」と


人間同士を見つめあっていないで、目を上にあげて、求めなさい、打ち明けなさいと言ってくださるお方にこそ、心の思いをぶつけていきましょう。

そこに、理屈では説明できない平安が、

神の平和という宝が、

わたしたちを必ず、守ってくれるのです。