「眠れぬヨセフと主の使い」(2016年12月11日花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

マタイによる福音書1章18節〜21節


 先週、わたしは映画を観に行きました。「この世界の片隅に」という映画です。アニメ映画ですけれども、今、ちょっとした話題になっている映画なのです。

第二次世界大戦の時代の、広島と呉を舞台に、一人の少女の日常が淡々と物語られていく映画です。

 主人公はスズといって、すこしボーっとしている女の子。広島から、やがて呉にお嫁にいった彼女の普通の日常が戦争の深まりのなかで、食べ物が少なくなっていったり、憲兵に見張られたり、だんだん非日常状態になっていく。そして空襲、原爆、終戦をへて、日常へと戻っていく。

 まだ、上映中ですから、「ネタばれ」してはいけませんので、あとは、ぜひ映画館でご覧いただけたらと思います。

ただ、あらためて思ったのは、戦争の時代の生活を、一人の少女の日常を中心に、淡々と描くことで、むしろ戦争の時代を、わたしはリアルに感じた気がしたのでした。

戦争の怖ろしさ、空襲や原爆の悲惨な映像を直接見せられる以上に、一人の人の日常生活として、その時代をたんたんと、見せられることのほうが、むしろリアルに、その時代を感じさせられたのでした。


人は、毎日毎日、自分の日常を生きています。

戦争中であろうと、玉音放送が流れた次の日であろうと、人々の日常はなにも途絶えることなく、ずっと今に至るまで続いてきたわけです。

当たり前といえばあたり前なことに、あらためて気づきました。

つまり、ある日をさかいに、時代というものは、変わったりしない。

戦前と戦後が、ある日を境に、ブチっと途切れて、入れ変わるわけじゃない。

毎日毎日の日常はずっと、つながっているのです。

人は勝手に、それを時代で区切りますが、生きている人は、そんな事を考える間もなく、今日という日常を生きているだけ。

時代、時代に、区切るのは、そういうつながりを感じられない、ずっと後に生まれた人々が、そういうことをするのでしょう。

 わたしが生まれたのは、高度経済成長時代でしたから、もう、戦争の時代と、自分の日常は、まったくつながっているようには感じられなかったわけです。

 わたしが小さい頃、「戦争を知らない子どもたち」という歌を、よく友達と歌った思い出があります。あの曲は、まさに、わたしたちのことを歌っていたわけですね。

 あとから生まれたものにとっては、あの戦争の時代は、自分の日常とはつながっていない。切れてしまっているように感じる。

でも、本当は、あの戦争の時代から、毎日毎日の日常は、今にいたるまで続いているのです。

ある日を境に、日常がブチっと切れることはありえない。毎日毎日、ずっと今日に至るまで、日常は続いている。

つまり、ずっとつながっている。歴史はつながっている。時代はつながっている。

ただ、わたしたちは、そのことを、忘れてしまいやすいのです。



さて、同じようなことは、イエスさまについても言えるのです。

 この地上を確かに生きて、歩まれた、主イエス。その主イエスと直接出会った人々、弟子たちが、やがて、十字架につけられた主イエスは、復活したのだと、主イエスを信じる共同体、教会をつくったのでした。


最初はユダヤに生まれた教会も、やがて世界に広がっていきました。

そして、10年、20年経つうちに、やがて「戦争を知らないこどもたち」ではないけれども、

「主イエスを、直接知らない、クリスチャンたち」が、だんだん教会に増えていくようになるわけです。


 知らないといっても、もちろん、それは、直接、地上を歩んだ主イエスには、あったことがない人々ということです。

 それはあの、パウロという有名な伝道者も、この地上を生きたイエスさまに、直接出会った人ではなかったわけです。

 むしろパウロは、死んだはずのイエスが、復活したなどといっていた、クリスチャンたちを、迫害さえしていたのですから。

そのパウロも、ある時、復活の主イエスに出会う、不思議な体験をいただいて、

「イエスこそキリスト」とわかって、

この「イエス」を信じ、罪から救われるようにと、伝道するようになりました。

そして、教会に沢山の手紙を書いては、「イエス」を信じる信仰こそが、わたしたちを、罪から救うのだと、教え続けました。

その最初の頃は、まだ、イエスさまの地上の生涯を記した、4つの福音書は、書かれていなかったのです。


 そうして、時がが過ぎゆく中で、最初の教会も、次第に、この地上を生きたはずのイエスさまと、自分たちの日常が、つながっていることが、忘れられていく。

 そういう危機意識も、福音書が書かれた背景には、あったのでしょう。

 やがて、ただ信じれば救ってくださる、いわば、大乗仏教でいうところの、「阿弥陀様」と同じような、神話的な存在と思われてしまう。

阿弥陀様。阿弥陀仏を信じて、その名を唱えれば、どんな悪人でも阿弥陀様の力で、極楽浄土に往生できる。

浄土真宗親鸞が教えたことは、ですから、パウロが教えたことと、とても似ていると言われるわけです。

親鸞は、「南無阿弥陀仏」と唱えるものは救われるというわけです。

南無とは「帰依します」、「すがります」ということですから、

つまり、阿弥陀仏にすがります。信じます。そう告白することが、救われることだと親鸞は言った。

それは、パウロが、主イエスを信じる信仰によって、義とされる。救われるということと、一見、とても似ている。

しかし、本質的に、決定的に、阿弥陀仏と主イエスは違うのです。

それこそが、わたしたちが生きている歴史、日常とのつながり。

阿弥陀仏は、架空の存在だけれども、

主イエスは、わたしたちの歴史に、日常のなかに、

聖霊によって、神の霊によって生まれることで、

決定的に飛び込んでこられた、実在のお方だから。

先ほど読んだ、マタイの福音書の出来事は、その決定的な出来事を伝えているのです。

主イエスは、架空の存在でも、神話のような救いぬしでもない。

あのアブラハム、そしてダビデからずっとつながっている神の民の歴史に、日常にずっとつながりつづけた、その先に

大工のヨセフの子として、そして同時に、聖霊によって生まれる、救い主として、

この方は確かに、わたしたちの歴史のなかに、今日の日に至る、日常のつながりのなかに、確かに生まれた。

頭の中で考えた、理想的な、架空の救い主、キリストではないのだ。

そうではなく、わたしたちの淡々とした歴史の中に、罪と暴力と悲しみ多い、この歴史の中に、

神は確かに介入し、聖霊によって、主イエスを生まれさせた。

だからこそ、21節で天使が宣言している

「この子は自分の民を罪から救う」ことができる。実現するのだ。

だから、阿弥陀仏ではなく、この主イエスこそ、

この世界の歴史に、確かに神が聖霊によって、生まれさせたお方だからこそ、

わたしたちを罪から確かに救いだすことができる、神の子であると、

そう、わたしたちは信じて、主イエスを仰ぎます。



さて、今日、読まれたみ言葉。最初18節は、こう始まります。

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」

イエス・キリストの誕生の次第。その物語。

今週の土曜日、わたしたちの教会の子どもたちは、こどもクリスマス会のなかで、イエスさまの誕生物語の劇をします。

クリスチャンの方は、よく知っている物語。

ある日突然、マリアに天使が現れて、男の子を産むとお告げあるところから始まって、マリアと夫ヨセフが、人口調査の勅令で、ベツレヘムの町まで旅をして、旅先で主イエスが生まれる。でも、宿屋には泊まる場所がなかったので、家畜小屋でお生まれになって、飼い葉桶に寝かされたという物語。

これはほとんど、ルカの福音書の内容です。ルカは、マリアを中心に降誕の出来事を書いているわけですね。

一方、マタイの福音書は、マリアではなく、むしろ、夫のヨセフの心の動き、葛藤が、大きくクローズアップされるのです。


主イエスが、この地上に生まれるという、神の救いの出来事は、

実は、愛し合っていたマリアとヨセフの関係に、重大な危機をもたらす出来事としてやってきたのだと、マタイは告げているのです。


婚約していたマリアとヨセフ。

結婚までの一年間、愛と信頼の関係をはぐくんでいた、二人。

小さくても、幸せな家庭を夢見ていたであろう二人。

その二人の愛の関係を、決定的に傷つけ、破壊してしまうほど、

あってはならない出来事が、妻となるマリアのおなかのなかに起こってしまった。

「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」のだと、

マタイの福音書は、いとも簡単に、一言で、この重大な出来事を告げてしまいます。

聖霊によって、マリアは子を身ごもった。

いわゆる、処女懐胎です。マリアは男性を知らないまま、聖霊によって子を宿すことになった。

こんなことがあるのかと、疑う人もいるでしょうし、神にはできるはずだと、信じる人もいるでしょう。

しかし実は、マタイにとって大切なことは、マリアが処女であったか、そうでなかったかということよりも、

夫ヨセフが、身に覚えのない子を宿したマリアに対して、どう振舞ったか、ということこそが、イエスさまが生まれるに際して、決定的に重要な意味を持っていたのだと、書いていることなのです。

もし、処女マリアから生まれること、大切なポイントなら、ヨセフは必要ないのだから。ヨセフと出会う前に、婚約する前に、聖霊によって身ごもっても、いいわけじゃないですか。

でも、そうではなく、ヨセフが愛し、一生を共に生きるパートナーとして信じていたマリアに、この二人の愛と信頼の関係の中に、この二人の信じあう関係を、決定的に傷つけ、破壊してしまって当然の出来事が、

聖霊によって、神によって、引き起こされたということこそが、重要な意味を持っているのです。

ヨセフにとって、確実にわかっていることは、ただひとつです。

マリアのおなかの子は、自分の子ではないということです。これだけは確実にわかっていた。

ある人は言うのです。当時、ローマに支配されていたユダヤにおいては、ローマ兵による女性へのレイプもよく起こっただろうと。

いったいヨセフは、おなかの子について、どう思っていたのかは、わかりません。しかし、繰り返しますが、ヨセフにわかっていたのは、マリアのおなかの子は、自分の子ではないということなのです。

聖霊によって主イエスを身ごもるということ。

神の救いが、この世にやってくるということ。

それは、まず、愛し、信頼しあっていた二人の間を、引き裂いてしまうような出来事として、起こったのです。


19節には、こうあります。

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と。


ヨセフは、マリアのことを守ろうとした。だから、表ざたにしないで、ひそかに縁を切ろうと決心した。そのヨセフの愛情を指して、ヨセフは正しい人であったと言っている。わたしはそのように、ここを読みます。

本当の正しさとは、人を切って裁くような正しさではなく、人を愛することこそが、本当の正しさであるのだから。

律法の本質、正しさの本質は、神を愛し、人を愛することに他ならないのだから。

人間的な感情を超えて、愛情を超えて、ヨセフはなお、マリアを愛し、守ろうと決断した。それがひそかに離縁するという決断。

わたしは、そのように読みとります。


 マリアとヨセフの、愛と信頼の関係が、神によって大きな試練、ゆさぶりを受けた。

神に揺さぶられ、人間同士の愛情では、乗り越えられない限界、人間同士の信頼関係の、もろさが、浮き彫りになった、その夜、

ヨセフは夢のなかで、神の言葉を、天使をとおして聴くのです。

おそれずマリアを妻として迎えていいのだと。

マリアのおなかの子は、聖霊によって宿ったのであり、

この子は、民を罪から救うのであると。

ヨセフは、そう神の言葉を聞きました。

ただ、神の言葉によって、ヨセフは、マリアを妻に迎える決断をしたのです。

ヨセフとマリアを、つないだのは、ヨセフの愛情ではないのです。

そうではなく、神の言葉によって、ヨセフはマリアとおなかの子を、そのまま受け入れ、つながったのです。

人の愛情、人の信頼関係の限界、もろさを超えて、

神の言葉の約束と、信頼が、ヨセフとマリアを神の家族としてつないだのです。

その二人の間に、主イエスはお生まれになるのです。

人の思いを超えて、神がつないでくださった二人の間に。


最後に、ナチスに抵抗した牧師、ボンフェッファーが書いた、「共に生きる生活」という本の一節を紹介して、メッセージを終わりといたします。

「ひとりのキリスト者は、ただイエス・キリストを通してのみ ほかのキリスト者に近付く。

人間の間には争いがある。・・・・キリストなしには、神と人間との間、人間と人間との間に不和がある。

・・・他者への道は、罪によって妨げられている。

キリストは、神に至る道と、他者に至る道とを開いてくださった。

今やキリスト者は、互いに平和のうちに生き、互いに愛し合い、仕えあい、一つになることができる。

ただ、キリスト者は、イエス・キリストを通してのみ、そうし続けることができるのである。

ただイエス・キリストにあってのみ、われわれは一つであり、

ただ彼を通してのみ、われわれは互いに結び付けられているのである」



わたしたちは知っています。この世界の歴史の中に、本当に神が人となられて突入してこられたことを。

人の世の、罪をすべて背負い、十字架につくために、本当に、この世に聖霊によって生まれた方がおられることを。


天使はヨセフに言いました。


「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救う」のだと