「主の言葉は実現する」(2015年12月13日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書1章26節〜45節


主を待ち望む、アドベントの三つ目のろうそくに火が灯りました。いよいよクリスマスがやってきます。

救い主を待つ。それは、今を生きる私たちにとっては、恐れと暴力と罪にまみれた世界が、完全に救われる。

救いの完成を待ちのぞむ、ということです。

わたしたちは、その日を待ち望んでいるので、毎週の礼拝を、ささげることをやめません。

地上の礼拝が終わるとき、わたしたちは、天にいるということですから。


金曜日のよる、Kさんが、地上の礼拝を終えて、天に召されました。

障害を身に負って、施設に入っておられたKさんが、そこで行われていた「ホサナ会」という集会で、イエス様に出会ってバプテスマを受けられたのが、25年前。そして、施設から車の送迎で、毎週、礼拝に出しておられたのですね。

わたしが、4月に花小金井教会に来てからは、一度だけ教会でお会いできたと思います。
その後、外出するのが難しい状態になられたので、私と、教会の牧会委員の方々と、なんどか療護園を訪問していましたけれども、

つい、10日ほど前の、水曜日にも、牧会委員の方々と訪問したばかりでした。
目を閉じてお休みになっておられたベットの脇で、
詩篇23編を読んで祈りました。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない・・・・たとえ死の陰の谷をゆく時も、わたしは災いを恐れない。あなたが共にいてくださる」

そう告げる詩篇の言葉を、ゆっくりと、きっと聞こえておられると信じて、主が共におられますと、祈ってきたのでした。

今思えば、あれが最後の時でしたから、共に御言葉を分かち合い、祈る時が与えられて、本当によかったと、主に感謝しています。

そういう意味で、わたしたちも、もしかしたら今日の礼拝が最後かもしれないという、そういう思いで、御言葉を受け止めたいと思います。

主イエスは言われます。

「わたしは復活であり命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない」

平穏な日々にあっては、このような御言葉は、なかなか実感を持って、心に響かないかもしれません。

でも、やがて地上の命の限界と向き合うとき、

人の理解を超えている神の言葉こそ、まさに、神の救いの言葉なのだと、気付けたなら、幸いです。


今日の御言葉は、マリアへの受胎告知の出来事でした。

37節で、天使ガブリエルはいいます。

37節
「神に出来ないことは何一つない」と。このシンプルな、しかしこれ以上ない力強い宣言は、

マリアも、そして、わたしたちにも、語られている宣言。

そして、わたしたちも、マリアと同じように、「お言葉通り、この身になりますように」と言えるなら、それは実に幸いです。

その人も、マリアと同じように、天使から「あめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」と、言っていただける恵みを、

いただいているということだから。


ある人は、マリアという人を、わたしたちとは違う人。特別な女性。

主イエスの母となるように特別に選ばれた、聖女。すべての人の母と、そう理解し、信じる方も、おられます。

そういうマリアへの思い、イメージ、信仰を、否定する必要はないのですけれども、

ただ、もうすこし聖書自身が、マリアについて語っている言葉に、聞いてみたいのです。

天使ガブリエルがマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」

そう言われた時、マリアはすぐに「お言葉通り、この身になりますように」とは言えなかったことを。

マリアは、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」といったのです。

マリアにも、葛藤があったことを、心に留めたいのです。


マリアは、おそらくこの時、10代の中頃だろうと言われるのですね。

ヨセフのいいなずけで、おとめだったと、書いていますから、当時のユダヤの慣習からして、10代中ごろだろうといわれる。

今なら、中学生とか、高校生くらいですね。

もし、マリアが今の時代に生きていたら、ガブリエルになんと言っただろう。

「えー意味わかんない、ありえない」って感じでしょうか。

こんな冗談は、ブラック過ぎますか。カトリックの方には、怒られてしまうかもしれませんね。

言いたいことは、マリアは当時の、ナザレの田舎の、普通の、若い女性。まだ少女だったということです。

ナザレは本当になんにもない田舎だったようです。当時も「ナザレからなにかよいものが出るものか」ということが言われていたような、忘れられている場所の、忘れられている人々の小さな一人の少女に、

なぜ、神は、世界を決定的に変える神の子を、宿らせることになさったのか。神の選びの理由は、わたしたちにはわかりません。

決して、マリアは、特別信仰深かったから、主イエスを宿すようにと、選ばれたのではないのです。

そういう、人間の側の条件で選ぶのが、神の選びなどではないからです。神の選びは、人間にはわからない。

しかも、マリアは、ヨセフとの結婚を控えていたのです。小さな幸せを、ヨセフと形造る、ささやかな家庭を思い描いていたはずなのです。

「なぜ自分が、神の子を宿すのか」「なぜ、結婚を目前にした、わたしが、子を宿さなければならないのか」

その思いが、とっさにマリアの口から「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言わせたのではないですか。

これは、そんなこと、あり得ないという、一般論ではなくて、よりによって、なぜ、わたしなんですか。「なぜ、わたしが、子を産むのですか。ヨセフと結婚前のわたしが・・・」ということではないですか。

そんなことになれば、思い描いていたささやかな夢が、すべて壊れてしまう

そんなとっさな、そして必死な思いが、マリアに、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言わせたのではないですか。

「どうして、わたしに、そんなことがありえましょうか」

「どうして、わたしに」「どうしてわたしが」

それはわたしたちも、そのように言いたくなる出来事が、起こるのではないですか。


金曜日に天に召されたKさんが、なぜ施設に入っておられたのか、わたしは昨日まで知りませんでした。

もちろん、個人的な情報ですから、聞くこともしなかったのですけれども、今回改めて、kさんがバプテスマを受けた時、

皆さんの前で読んだ、公の信仰告白に、このように書いてあったのを知ったのです。

○○会館で、結婚式を挙げました。32歳の時でした。男の子と女の子が与えられました。
昭和48年、私は、風邪をひいて、頭が痛くなり、病気になってしまいました。・・・・○○病院に入院しました。退院して、○○病院に入り、それから、ここにに入って、10年くらいになります。

そう書いてありました。32歳で結婚なさり、45歳のとき、まだこどもさんが小さかったであろうときに、病を得られたのだと。

それを知った時、思ったのです。もしかしたらkさんもまた「どうして、わたしが」と思われたであろうと。

まだこどもたちの世話をしなければならない、この時期に、「どうして、わたしが」とおもわれたであろうと。

ひるがえって、
ヨセフを愛し、ヨセフに愛されていたマリアが、その愛を裏切るかのような、そう思われても仕方がない出来事を、

「どうして、わたしが」

「どうして、そんなことがありえましょうか。」と言わずにはおれなかった、小さなマリアの心の叫びを、読み取るのです。

そのマリアの「どうして」という問いかけに、天使ガブリエルは、二つのことを言いました。


一つはこういう言葉でした。

1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

つまり、これは、ヨセフを裏切る話ではない。聖霊による出来事。徹頭徹尾、神の業だということ。


そして、もうひとつ、天使が語ったことはこうでした。

36節

「あなたの親類エリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6カ月になっている」

つまり、今、この神の業を、神の働きを体験しているのは、あなただけではない、ということでした。


あなたの親戚の、あの年老いていたエリザベトも、半年前、赤ちゃんを宿したことを、あなたも知っているはずだ。

あなただけじゃないんだよ。エリザベトも共に、神の業を受け入れて、生きている。天使は、そう語った。


そう、マリアは、「どうしてわたしが」「そんなことがおこりえるでしょうか」と、たった一人で、孤独に、この神の出来事を、受け入れるのではないのです。

自分だけが頑張り、信じなければならないという話ではないのです。


マリアの、「お言葉通り、この身になりますように」と、すべてを受け入れていく、そのほんの短い間の葛藤の時、

天使ガブリエルは、マリアに二つのことを

つまり、「これは神が責任をもってなさる、神の業だから大丈夫だ」ということ、そして、あなたは1人じゃないんだ。エリザベトも、神の業を受けいれ、生きている。

「だから大丈夫だ」

そして、最後の決めのあの言葉

 37節
「神に出来ないことはなにもない」

言い換えれば、すべての責任は神がとってくださる。神の救いの業の責任を、神がとれないわけがない。神に出来ないことはなにもない。

そう天使は言っているのではないですか。

マリアは、その天使の言葉を聞いたからこそ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、

自分の思い願っていたことを捨てて、この神の救いの業へと、自分自身の人生を、お言葉通り、この身になりますようにと、明け渡していったのでした。


「どうしてわたしが」「どうしてわたしたちが」

自分の思い通りにならない出来事、思い通りにならなかった日々に、明確な答えなど、ありません。人にはわかりません。

ただひとつ言えることは、イエス様を宿すことになったマリアにとって、その自分の思い通りにならなくなった、出来事も人生も、

それは、天使ガブリエルが28節で、マリアに宣言した

「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」出来事であり、人生なのだということなのです。

それは、同じように、今、聖霊によってイエスを宿している、私たち一人ひとりにとっても、

その自分の思いとは違う出来事、人生は、

主イエスが私たちの中に宿っておられるがゆえに、「恵まれた方、主があなたと共におられる」出来事であり、人生


そのことを、マリアは確かめたくて、急いでエリザベトのところに行ったのです。

マリアにとって、エリザベトがいてくれたことが、どれほど支えになったことでしょう。

自分の身に起こった出来事、体験していることは、本当に神の業なのか。神の働きなのか。そのことを確かめたくて、エリザベトのところに走ったマリア。


わたしたちも、毎週こうして教会に集まるのは、お互いの言葉、証しを、必要としているからでしょう。

わたしは一人ではないのだ。神の導きを受けている仲間がいるのだと、お互いの証を必要としているからでしょう。


エリザベトのところに、マリアがたどりついて、挨拶したとき、エリザベトのおなかの赤ちゃんが踊ったと書いてあります。

神の働きを宿してたお互いが、反応しあう、響き合う瞬間。

エリザベトは聖霊、神の満たされ、神の言葉を、マリアに語ります。

42節

「あなたは女の中で祝福された方です。体内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」

エリザベツは、このときおそらく老人です。そしてマリアは10代の少女。

年が離れた二人。しかし、人生の長さも経験も歴史も超えて、神の時と神の出来事を、分かち合う二人。

エリザベトが語っているのは、彼女の人生経験ではありません。そうではなく、聖霊によって、神の言葉を語り、

マリアは、エリザベトの口から語られた、神の言葉によって、

この自分に起こった、「どうしてわたしが」と言いたくなるような、出来事が、人生が

実に実に、神に選ばれ、神に祝福された人生であることを、聞くのです。

この言葉にマリアはどれだけ励まされ、安心したことでしょう。やがて、マリアの口からも、賛美の歌、マリアの賛歌があふれ出ていくのです。

この時代、結婚するまえに、子を宿すということが、どれほど厳しい人生となってしまうのか。

その覚悟を、マリアは、たった自分一人で、受けとめたのではないのです。

神さまは、エリザベトを、備え、エリザベトを通して、神の言葉を語りかけ、支えてくださった。

わたしたちも同様です。わたしたちも自分一人で、イエスさまを信じて、生きていくのではないのです。

ちゃんとお互いが出会えるようにと、主は、教会を与えてくださったのです。

エスを信じるわたしたちの中にも、イエスは宿っているのです。

使徒パウロは、それをこう言いました。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」と

今、主イエスは、わたしたちの内に生まれています。住んでいます。

そういう意味で、わたしたちもマリアです。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと主におられます」

とは、マリアのことでもあり、パウロのことでもあり、そして、わたしたちのことです。

それは、自分の思い通りになるようにと、主が共にいて支えてくださるのではなく、

神の思い通りになるようにと、お言葉とおり、この身になりますようにと、主は共にいてくださるのです。

時に、この状況の中で、主は共におられるのだろうか。わたしは祝福されているのだろうか?

そのことが信じられなくなり、不安と恐れでいっぱいになったなら、

わたしたちも、「エリザベト」のところに、急いでいきましょう。わたしたちにとってのエリザベトのところへ、

エスさまを宿している友のところへ、教会の仲間のところに行きましょう。

礼拝のなかで、互いに、あいさつを交わすとき、わたしたちの中におられるお方が、よろこび踊るでしょう。

共に礼拝を捧げるとき、私たちの心の奥底で、深い喜び、心躍る経験を、味わうでしょう。

それこそが、共に集って礼拝を捧げる喜び。

エリザベトとマリアが出会った時の、霊の響きあいを、今、わたしたちも、ここで体験するのです。

自分の思いや願いが実現することではなく、

肉体の死をさえ超え、kさんが、今すでに天におられるように、

罪の滅びから解放され、永遠の命へと至る救いへ

わたしたちは、主がおっしゃったことは、必ず実現すると信じてあつまる、仲間。

「主の言葉は必ず実現する」と信じてつどい、励ましつづける仲間。


なんと幸いな仲間でしょうか。


お祈りいたしましょう