ルカによる福音書1章26節〜45節
主を待ち望む、アドベントの三つ目のろうそくに火が灯りました。いよいよクリスマスがやってきます。
救い主を待つ。それは、今を生きる私たちにとっては、恐れと暴力と罪にまみれた世界が、完全に救われる。
救いの完成を待ちのぞむ、ということです。
わたしたちは、その日を待ち望んでいるので、毎週の礼拝を、ささげることをやめません。
地上の礼拝が終わるとき、わたしたちは、天にいるということですから。
金曜日のよる、Kさんが、地上の礼拝を終えて、天に召されました。
障害を身に負って、施設に入っておられたKさんが、そこで行われていた「ホサナ会」という集会で、イエス様に出会ってバプテスマを受けられたのが、25年前。そして、施設から車の送迎で、毎週、礼拝に出しておられたのですね。
わたしが、4月に花小金井教会に来てからは、一度だけ教会でお会いできたと思います。
その後、外出するのが難しい状態になられたので、私と、教会の牧会委員の方々と、なんどか療護園を訪問していましたけれども、
つい、10日ほど前の、水曜日にも、牧会委員の方々と訪問したばかりでした。
目を閉じてお休みになっておられたベットの脇で、
詩篇23編を読んで祈りました。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない・・・・たとえ死の陰の谷をゆく時も、わたしは災いを恐れない。あなたが共にいてくださる」
そう告げる詩篇の言葉を、ゆっくりと、きっと聞こえておられると信じて、主が共におられますと、祈ってきたのでした。
今思えば、あれが最後の時でしたから、共に御言葉を分かち合い、祈る時が与えられて、本当によかったと、主に感謝しています。
そういう意味で、わたしたちも、もしかしたら今日の礼拝が最後かもしれないという、そういう思いで、御言葉を受け止めたいと思います。
主イエスは言われます。
「わたしは復活であり命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない」
平穏な日々にあっては、このような御言葉は、なかなか実感を持って、心に響かないかもしれません。
でも、やがて地上の命の限界と向き合うとき、
人の理解を超えている神の言葉こそ、まさに、神の救いの言葉なのだと、気付けたなら、幸いです。
今日の御言葉は、マリアへの受胎告知の出来事でした。
37節で、天使ガブリエルはいいます。
37節
「神に出来ないことは何一つない」と。このシンプルな、しかしこれ以上ない力強い宣言は、
マリアも、そして、わたしたちにも、語られている宣言。
そして、わたしたちも、マリアと同じように、「お言葉通り、この身になりますように」と言えるなら、それは実に幸いです。
その人も、マリアと同じように、天使から「あめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」と、言っていただける恵みを、
いただいているということだから。
ある人は、マリアという人を、わたしたちとは違う人。特別な女性。
主イエスの母となるように特別に選ばれた、聖女。すべての人の母と、そう理解し、信じる方も、おられます。
そういうマリアへの思い、イメージ、信仰を、否定する必要はないのですけれども、
ただ、もうすこし聖書自身が、マリアについて語っている言葉に、聞いてみたいのです。
天使ガブリエルがマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」
そう言われた時、マリアはすぐに「お言葉通り、この身になりますように」とは言えなかったことを。
マリアは、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」といったのです。
マリアにも、葛藤があったことを、心に留めたいのです。
マリアは、おそらくこの時、10代の中頃だろうと言われるのですね。
ヨセフのいいなずけで、おとめだったと、書いていますから、当時のユダヤの慣習からして、10代中ごろだろうといわれる。
今なら、中学生とか、高校生くらいですね。
もし、マリアが今の時代に生きていたら、ガブリエルになんと言っただろう。
「えー意味わかんない、ありえない」って感じでしょうか。
こんな冗談は、ブラック過ぎますか。カトリックの方には、怒られてしまうかもしれませんね。
言いたいことは、マリアは当時の、ナザレの田舎の、普通の、若い女性。まだ少女だったということです。
ナザレは本当になんにもない田舎だったようです。当時も「ナザレからなにかよいものが出るものか」ということが言われていたような、忘れられている場所の、忘れられている人々の小さな一人の少女に、
なぜ、神は、世界を決定的に変える神の子を、宿らせることになさったのか。神の選びの理由は、わたしたちにはわかりません。
決して、マリアは、特別信仰深かったから、主イエスを宿すようにと、選ばれたのではないのです。
そういう、人間の側の条件で選ぶのが、神の選びなどではないからです。神の選びは、人間にはわからない。
しかも、マリアは、ヨセフとの結婚を控えていたのです。小さな幸せを、ヨセフと形造る、ささやかな家庭を思い描いていたはずなのです。
「なぜ自分が、神の子を宿すのか」「なぜ、結婚を目前にした、わたしが、子を宿さなければならないのか」
その思いが、とっさにマリアの口から「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言わせたのではないですか。
これは、そんなこと、あり得ないという、一般論ではなくて、よりによって、なぜ、わたしなんですか。「なぜ、わたしが、子を産むのですか。ヨセフと結婚前のわたしが・・・」ということではないですか。
そんなことになれば、思い描いていたささやかな夢が、すべて壊れてしまう
そんなとっさな、そして必死な思いが、マリアに、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言わせたのではないですか。
「どうして、わたしに、そんなことがありえましょうか」
「どうして、わたしに」「どうしてわたしが」
それはわたしたちも、そのように言いたくなる出来事が、起こるのではないですか。
金曜日に天に召されたKさんが、なぜ施設に入っておられたのか、わたしは昨日まで知りませんでした。
もちろん、個人的な情報ですから、聞くこともしなかったのですけれども、今回改めて、kさんがバプテスマを受けた時、
皆さんの前で読んだ、公の信仰告白に、このように書いてあったのを知ったのです。
○○会館で、結婚式を挙げました。32歳の時でした。男の子と女の子が与えられました。
昭和48年、私は、風邪をひいて、頭が痛くなり、病気になってしまいました。・・・・○○病院に入院しました。退院して、○○病院に入り、それから、ここにに入って、10年くらいになります。
そう書いてありました。32歳で結婚なさり、45歳のとき、まだこどもさんが小さかったであろうときに、病を得られたのだと。
それを知った時、思ったのです。もしかしたらkさんもまた「どうして、わたしが」と思われたであろうと。
まだこどもたちの世話をしなければならない、この時期に、「どうして、わたしが」とおもわれたであろうと。
ひるがえって、
ヨセフを愛し、ヨセフに愛されていたマリアが、その愛を裏切るかのような、そう思われても仕方がない出来事を、
「どうして、わたしが」
「どうして、そんなことがありえましょうか。」と言わずにはおれなかった、小さなマリアの心の叫びを、読み取るのです。
そのマリアの「どうして」という問いかけに、天使ガブリエルは、二つのことを言いました。
一つはこういう言葉でした。
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
つまり、これは、ヨセフを裏切る話ではない。聖霊による出来事。徹頭徹尾、神の業だということ。
そして、もうひとつ、天使が語ったことはこうでした。
36節
「あなたの親類エリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6カ月になっている」
つまり、今、この神の業を、神の働きを体験しているのは、あなただけではない、ということでした。
あなたの親戚の、あの年老いていたエリザベトも、半年前、赤ちゃんを宿したことを、あなたも知っているはずだ。
あなただけじゃないんだよ。エリザベトも共に、神の業を受け入れて、生きている。天使は、そう語った。
そう、マリアは、「どうしてわたしが」「そんなことがおこりえるでしょうか」と、たった一人で、孤独に、この神の出来事を、受け入れるのではないのです。
自分だけが頑張り、信じなければならないという話ではないのです。
マリアの、「お言葉通り、この身になりますように」と、すべてを受け入れていく、そのほんの短い間の葛藤の時、
天使ガブリエルは、マリアに二つのことを
つまり、「これは神が責任をもってなさる、神の業だから大丈夫だ」ということ、そして、あなたは1人じゃないんだ。エリザベトも、神の業を受けいれ、生きている。
「だから大丈夫だ」
そして、最後の決めのあの言葉
37節
「神に出来ないことはなにもない」
言い換えれば、すべての責任は神がとってくださる。神の救いの業の責任を、神がとれないわけがない。神に出来ないことはなにもない。
そう天使は言っているのではないですか。
マリアは、その天使の言葉を聞いたからこそ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、
自分の思い願っていたことを捨てて、この神の救いの業へと、自分自身の人生を、お言葉通り、この身になりますようにと、明け渡していったのでした。
「どうしてわたしが」「どうしてわたしたちが」
自分の思い通りにならない出来事、思い通りにならなかった日々に、明確な答えなど、ありません。人にはわかりません。
ただひとつ言えることは、イエス様を宿すことになったマリアにとって、その自分の思い通りにならなくなった、出来事も人生も、
それは、天使ガブリエルが28節で、マリアに宣言した
「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」出来事であり、人生なのだということなのです。
それは、同じように、今、聖霊によってイエスを宿している、私たち一人ひとりにとっても、
その自分の思いとは違う出来事、人生は、
主イエスが私たちの中に宿っておられるがゆえに、「恵まれた方、主があなたと共におられる」出来事であり、人生
そのことを、マリアは確かめたくて、急いでエリザベトのところに行ったのです。
マリアにとって、エリザベトがいてくれたことが、どれほど支えになったことでしょう。
自分の身に起こった出来事、体験していることは、本当に神の業なのか。神の働きなのか。そのことを確かめたくて、エリザベトのところに走ったマリア。
わたしたちも、毎週こうして教会に集まるのは、お互いの言葉、証しを、必要としているからでしょう。
わたしは一人ではないのだ。神の導きを受けている仲間がいるのだと、お互いの証を必要としているからでしょう。
エリザベトのところに、マリアがたどりついて、挨拶したとき、エリザベトのおなかの赤ちゃんが踊ったと書いてあります。
神の働きを宿してたお互いが、反応しあう、響き合う瞬間。
エリザベトは聖霊、神の満たされ、神の言葉を、マリアに語ります。
42節
「あなたは女の中で祝福された方です。体内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」
エリザベツは、このときおそらく老人です。そしてマリアは10代の少女。
年が離れた二人。しかし、人生の長さも経験も歴史も超えて、神の時と神の出来事を、分かち合う二人。
エリザベトが語っているのは、彼女の人生経験ではありません。そうではなく、聖霊によって、神の言葉を語り、
マリアは、エリザベトの口から語られた、神の言葉によって、
この自分に起こった、「どうしてわたしが」と言いたくなるような、出来事が、人生が
実に実に、神に選ばれ、神に祝福された人生であることを、聞くのです。
この言葉にマリアはどれだけ励まされ、安心したことでしょう。やがて、マリアの口からも、賛美の歌、マリアの賛歌があふれ出ていくのです。
この時代、結婚するまえに、子を宿すということが、どれほど厳しい人生となってしまうのか。
その覚悟を、マリアは、たった自分一人で、受けとめたのではないのです。
神さまは、エリザベトを、備え、エリザベトを通して、神の言葉を語りかけ、支えてくださった。
わたしたちも同様です。わたしたちも自分一人で、イエスさまを信じて、生きていくのではないのです。
ちゃんとお互いが出会えるようにと、主は、教会を与えてくださったのです。
イエスを信じるわたしたちの中にも、イエスは宿っているのです。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」と
今、主イエスは、わたしたちの内に生まれています。住んでいます。
そういう意味で、わたしたちもマリアです。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと主におられます」
とは、マリアのことでもあり、パウロのことでもあり、そして、わたしたちのことです。
それは、自分の思い通りになるようにと、主が共にいて支えてくださるのではなく、
神の思い通りになるようにと、お言葉とおり、この身になりますようにと、主は共にいてくださるのです。
時に、この状況の中で、主は共におられるのだろうか。わたしは祝福されているのだろうか?
そのことが信じられなくなり、不安と恐れでいっぱいになったなら、
わたしたちも、「エリザベト」のところに、急いでいきましょう。わたしたちにとってのエリザベトのところへ、
イエスさまを宿している友のところへ、教会の仲間のところに行きましょう。
礼拝のなかで、互いに、あいさつを交わすとき、わたしたちの中におられるお方が、よろこび踊るでしょう。
共に礼拝を捧げるとき、私たちの心の奥底で、深い喜び、心躍る経験を、味わうでしょう。
それこそが、共に集って礼拝を捧げる喜び。
エリザベトとマリアが出会った時の、霊の響きあいを、今、わたしたちも、ここで体験するのです。
自分の思いや願いが実現することではなく、
肉体の死をさえ超え、kさんが、今すでに天におられるように、
罪の滅びから解放され、永遠の命へと至る救いへ
わたしたちは、主がおっしゃったことは、必ず実現すると信じてあつまる、仲間。
「主の言葉は必ず実現する」と信じてつどい、励ましつづける仲間。
なんと幸いな仲間でしょうか。
お祈りいたしましょう