マタイによる福音書2章1節〜12節
わたしたちは、今日、この時間、それぞれに、ほかの場所ではなく、この場所に来ることを選んで集まってきました。
今日初めて、教会の礼拝に来られた方もおられるでしょうか。久しぶりの方もおられるでしょうか。
なぜ、クリスマスに、わたしたちは教会に集まるのですか。
それは、約2000年前、この世を救うメシア、キリストが、お生まれになったからです。
ですから、今日ここに集うわたしたちも、ある意味、それぞれにとっての星に導かれて、幼子イエスを拝むために、この場所までやってきたと言えるのです。
「クリスマス」それは、「キリストミサ」。「キリスト礼拝」ということです。
礼拝とは、平たくいえば、「拝む」ことです。
今、朗読された聖書の物語にあったように、ユダヤの地に、遠く、東の国の学者たちがやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言ったように。
わたしたちも、自分の身を低くして、拝みたいと願うほどの、価値あるお方、わたしの人生の王との出会いを経験するために、ここに導かれてきたのです
クリスマス。それは、12月25日が過ぎれば、毎年忘れられてしまう、ただの「お祝い」ではありません。
そうではなく、わたしの生き方、生活、望み、人生を、大きく変えるお方と、心を開いて、出会う時。それがキリスト礼拝です。
東の国の学者たちは、おそらく身分の高い人々だったでしょう。なのにわざわざ、遠い国から危険を冒し、ユダヤの地までやってきたのです。
それは、この場所で、ビジネスを始めるためでも、国と国の外交の話をするためでもありませんでした。
そうではなく、神によって生まれた子に会い、その方のまえにひれ伏し、拝み、自分たちが持っている、最上のものを捧げたい一心で、やってきたのです。
わたしたちが、今、ここに集い礼拝をささげているように。ただそのことをするために、東の国の学者たちは危険を顧みずやってきて、そして、礼拝だけをして、彼らは帰って行ったのです。
この学者たちについては、この後聖書のどこにも出てこないのです。ですから、彼らはただ「キリストを礼拝」するためだけに、ここに登場したといえます。
さて、わたしたちは、なんのために、与えられた人生を生きて行くのでしょうか。
なんのために、学び、なんのために、仕事をし、なんのために、家庭をつくるのでしょう。
わたしたちは、本当は、なにを手に入れたいと願っているのでしょう。いつも、なにかが足りないような、空虚感を感じてイライラしてしまうのは、なぜなのでしょう。
それは、わたしたちが、本当に大切なこと、必要なことに、気付いていないからではないでしょうか。
聖書の中の物語に、マルタとマリアという、姉妹の話が出てきます。
イエス様が、家を訪ねてくださったとき、お姉さんのマルタは、イエス様をもてなさなければと、さまざまなことに、心を遣い、だんだんイライラしてきます。
一方、妹のマリアは、イエス様の前に座り込んで、イエス様の語る神の言葉を聞いているのです。
その妹をみて、姉のマルタは、「あのなにもしないで、すわりこんでいる妹に、手伝うようにいってください」と、イライラをぶつけます。
その姉のマルタに、イエス様は言うのです。
「マルタよマルタ。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」と、
もし、わたしたちの生活が、様々な問題で混乱し、思い悩み、心を乱すような状態であるのなら、
「必要なことはただ一つだけである」と言われた主イエスの言葉を、自分のこととして受け止めたいのです。
そして、そうであるからこそ神は、このクリスマスの日に、ほかの場所ではなく、この礼拝という場にわたしたちを導いてくださいました。
主イエスの前に頭をたれ、礼拝するようにと、わたしたちは、導かれてきたのです。
先ほど朗読されたクリスマスの物語でいえば、「ひれ伏して幼子を拝む」ようにと、わたしたちは集められたのです。
もし、わたしたちの日常が、社会が、家庭が、人間関係が、混乱し、イライラで、心乱されているなら、
わたしたちに命を与えた神に立ち返るという原点に
「ひれ伏して幼子を拝む」という、この原点に立ち戻りたい。
東の国の学者たちが、ただこのためだけに、遠くやってきて、自分の宝を捧げ、ただこのためだけに、帰って行った、礼拝ということを
わたしたちが、まず、人生の中心に据えるとき、
私たちの生活も、人間関係も、良い方向へと変化していくでしょう。
なぜなら、この、クリスマスの夜にお生まれになったお方は、この世を救うために、あなたを救うために、神が与えてくださった、メシアなのですから。
さて、わたしたちが礼拝すべきお方。幼子イエスとは、どのようなお方なのでしょう。
それは、東からきた学者たちの捧げた、宝物によって表現されています。贈り物は、それを受ける人に、ふさわしいものが贈られるからです。
その宝とは、黄金・乳香・没薬です。
黄金。それは、力ある「王」を現わす贈り物。
この方を礼拝する。主イエスを拝む。
それは、主イエスが、わたしの王になる、ということです。
だれもが、自分が王さまのようになり、他者を支配して生きようとすれば、傷つけ合い、やがて滅びていくしかないこの世が救われるとすれば、
それは、本当の王を王とすることによってのみです。神を神とすること。神の御子イエスを、自分の王として、受け入れ礼拝することです。
主イエスをとおして語られる、神の言葉に、聞き従うことです。
それが黄金の捧げものが示していること。
そして、二つ目の贈り物は「乳香」です。
乳香は、祭司が礼拝の中で使うもの。
祭司とは、人と神とつなぐ存在。神への道を開くもの。
「乳香」の贈り物には、そういう信仰が現わされています。
主イエスは、神への道を開くお方なのです。
主イエスは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である」と。
主イエスにおいて、神への道、神の命とつながる道が、開かれました。
この自分が、今という時代に、この場所に、なぜ命を与えられたのか。そして、どこに向かって生きていけばいいのか。
だれもが抱えている問題。
言い換えれば、いったい自分の人生に意味があるのか、という苦悩は、
目的をもって、命を与えてくださっている、神を見失ったゆえの苦悩でもあるのです。
主イエスにおいて、神とつながるとき、わたしたちは、神に愛され、神が計り知れない目的をもって、与えてくださった命であることに気づくでしょう。
しかし、そこで大切になるのが、三つ目の贈り物なのです。
その贈り物は「没薬」です。
没薬。それは、当時、死体の処理に使われました。主イエスがやがて十字架につけられ死んだとき、ニコデモは死体の処理のために、没薬を持ってきたと書いてあります。
クリスマスの贈り物の中に、すでに十字架を思わせる「没薬」があったのです。
幼子主イエスの誕生のなかに、すでに死の準備があったのです。
それは、生まれたものは、だれでもやがて死ぬものだ、という一般的な話ではないのです。
そうではなく、人は、その罪のゆえに、聖なる神とつながるためには、どうしても避けて通れない、神に対する罪が、贖なわれる必要があることが示されているのです。
その贖いへの信仰が、この「没薬」という捧げものに、現わされています。
神は、大切なみ子主イエスの命を、わたしたちのために犠牲になさることで、わたしたちの、神への罪をゆるしてくださいました。
そして、この神の犠牲の愛を心に宿した人々によって、この世界はエゴイズムによる滅びから、救われはじめるのです。
もし、この世界が、だれも、自分から、損をすることも望まず、人の負い目も、自分の負い目も、許し合うことができないなら。
やられたら、やり返すしか、出来ない世界なら、やがてこの世界は、憎しみの連鎖で、滅びるしかありません。
しかし、人の罪のために、十字架に命を捧げてくださる、主イエスが、クリスマスに生まれてくださったゆえに、この世界は滅びから救われたのです。
それは、たとえば、あの第二次世界大戦の時、アウシュビッツの収容所で、コルベ神父が、処刑されるはず人の、身代わりに、自分の命を差し出したときにも、
十字架の主イエスは、そこにおられたように。
そのような大きな出来事でなくても、身近なところで、小さな犠牲の愛が、今日も、人と人とを、和解させ、結びつけているはずなのです。
あの、賢者の贈り物の物語のように、自分の小さな犠牲の宝物を、捧げる物語が、今日もどこかで起こっている。
夫のために、自分の大事な髪を売る妻や、妻のために、自分の大事な時計を売う夫の物語が、今日もどこかで起こっている。
そこに主イエスはおられ、今も働いておられる。
わたしたちの教会では、クリスマスイブの日に、東北の教会のために、献金をしています。
あの東日本大震災から5年以上経ちましたが、今もほそぼそとではあっても、支援活動を続けておられるからです。
ある教会は、車で2時間3時間の距離を、仮設住宅まで通い、励ましています。ほかのボランティア団体はほとんど撤退していても、一人との出会いを大切に関わりを続けています。
高齢化し、人数も少ない東北の教会には、荷が重い。
自分たちの教会のことでも大変でしょう。
それでも、支援を続けている。これはもう、理屈ではありません。そうせずにはいられない。そういう思いに動かされているのでしょう。
この世界には、そのような、「そうせずにはいられない」という思いによって、
誰かのために、あえて自分が痛みを負っても、損をしても
自分の持っているよきものを、捧げさせていくという、
実に不思議な、神の愛としか言えない、力が働いているのです。
この、不思議な、神の愛という奇跡によって、
この世界は、自己中心というエゴの罪から救われ、
すべての人が、神にあって共に生きる、神の国へと導かれていくのです。
その愛の奇跡のはじめとして
神ご自身が、大切な御子を、この世におあたえになりました。
人を罪から救う、犠牲の小羊として、大切な御子を、この世におあたえになりました。
それがクリスマス。神の愛の奇跡。
その奇跡とは、神が主イエスをこの世に与えたこと、
そして、今、わたしたち一人一人の心のうちに、主イエスが生まれてくださったことです。
わたしたちのなかに、主イエスがいてくださる。これに勝る奇跡はありません。
実は、このメッセージは代読していただいています。わたしはインフルエンザに罹患してしまって、皆さんの前に出ることができないからです。
高熱と頭痛に悩まされ、横になっていると、つくづく人間の限界、弱さを思わされます。また、自分に託されている勤めを全うできないことも、心の痛みです。
しかし一方で、妻がとても優しくしてくれることが、心を慰めてくれます。
弱っていて、なにもできない時に、その弱いままを、なにもできないそのままを、受け入れ、支えてくれる存在のありがたさというものを、
誰もが体験するものではないでしょうか。
自分に役に立つ人を愛する、エゴイズムの愛ではなく、
あなたがあなただから愛する愛。
それは、主イエスを心に宿した人の中からあふれてくる愛です。
なぜなら、主イエスこそ、病の人、虐げられた人を訪ね、その友となられた、お方だからです。
クリスマスとは、その主イエスが、わたしたち一人一人の中に生まれてくださる奇跡そのものです。
このあとわたしたちは、礼拝を終えて、ここからまた自分の生活の場へと帰っていきます。
そこにはたくさんの問題があり、責任があり、課題があるでしょう。
トラブルがあり、愛し合えない、ストレスもあることでしょう。
そんな現場に、幼子主イエスを礼拝したわたしたちは、帰っていきます。
東の国からきた学者たちも、自分の故郷に帰って行ったように。
しかしそれは、何も変わらない日常へと、元のもくあみへと、帰っていくのではありません。
やがて十字架につき、復活する主イエスは、
「わたしは世の終わりまで、あなた方と共にいる」と言われたからです。
ここで礼拝した私たちは、主が共におられる人として、
主イエスが宿った人として、主イエスが生まれた、新しい人として、
ここから帰って行くのです。
今日は、主イエスの誕生日とともに、
新しい、わたしたちの誕生の日なのです。