ルカによる福音書2章1節〜20節
クリスマス おめでとうございます。
今年はなぜか、「ハロウィン」が異常に盛り上がり、あのお祭り騒ぎに比べると、今年の「クリスマス」は、とても落ち着いた雰囲気に感じているのは、私だけでしょうか。
そもそも、最初のクリスマスは、きらびやかな電飾で飾るような、お祭りではなく、
人目に付かない家畜小屋の片隅で、貧しく若いマリアとヨセフに、神様は、その独り子主イエスを生まれさせ、託されるという、
実にひっそりと、見えないところに隠された、神の奇跡でありましたから、クリスマスのお祝いに、お祭り騒ぎは似合いません。
ですから、このクリスマス礼拝も、特別なことはいたしません。特別な讃美とか、劇などはないのです。
それはむしろ、午後から行われる、クリスマスの祝会のなかに、隠されているのです。あの、飼い葉おけに寝かされた幼子のように。
やがて午後になると、その隠されていた、「何かが」飛び出すのです。それは、今はわからなくていいのです。わたしたちは、午後まで待ち望みます(笑)
約2000年前の、最初のクリスマス。それは、人間が作り出す栄光に隠された、小さなともしびのように、ひっそりと輝いたことを、先ほど朗読された御言葉は告げています。
目に見える繁栄、権力、栄光の象徴。ローマ皇帝アウグストス。
その皇帝の栄光のために、「税」と「兵力」を提供するようにと、住民登録をさせられていく、属国の人々。ユダヤもその一つ。
権力をもつ者が、力あるものが、その思い通りに、この世界を動かしているように、見えるとき、
しかし、ルカの福音書は、この、皇帝アウグストスが住民登録を命じたおかげで、ヨセフは生まれ故郷のダビデの町、ベツレヘムへと、
マリアと共に、登録のために行くことになり、そこで月が満ちて、神の定めていた通り、ベツレヘムで主イエスを産むことになる、と告げるのです。
預言者 ミカが、その昔、ベツレヘムで救い主が生まれると告げていた通りに、
ちゃんと神のご計画は、皇帝アウグストスをさえ用いて、実現したのだと、ルカの福音書は告げています。
歴史の主は、神であり、人ではありません。帝国バビロンも、アッシリアも、ローマも、やがてほろびゆく、ひと時の幻でした。
皇帝アウグストスも、そしてあのヒトラーも、やがて消えていく、ひと時の幻でした。
人間の放つ光が、いかに今、光を放っているようにみえようとも、
本当の光、決して消えることのない神の光は、ひとしれずひっそりと、約2000年前の家畜小屋に灯ったのです。乳飲み子主イエスのなかに
そして、その生涯の最後には、無力に十字架へとつけられ、死んでいき、そして復活した主イエスこそ、消えることのない、まことの光であり、
この光をこの世界に宿らせた神は、この世を「滅びることのない愛の国」へと、今も、導いておられることを、
わたしたちは、信じてクリスマスを祝うのです。
シカゴ大学の図書館に、「ナポレオン一世」の遺書が保存されていると聞いたことがあります。
かつて、ヨーロッパの大半を支配したあのナポレオンは、やがで没落し、最後の時を、セントヘレナ島で迎えました。
その彼の遺書には、こんな言葉がありました。
「私は大胆に、キリストを信じます、と大声で告白できなかった。そうだ。私はクリスチャンである、と告白すべきだった。今、セント・ヘレナにあって、もはや遠慮する必要はない。私の心のそこに信じていた事実を告白する。
私は永遠の神が存在していることを信じる。私の天才的なすべての能力をもってしても、このお方と比較するとき、私は無である。完全に無の存在である。
私は永遠の神、キリストを認める。私はキリストを必要とする。私はキリストを信じる。
私は、今、セント・ヘレナの島につながれている。いったい、誰が、今日、私のために戦ってくれるだろうか。だれが私を思ってくれるだろう。私のため、力を尽くしてく
れるものがあるだろうか。
昨日の我が友は、いずこへ。ローマ皇帝カイザルも、アレキサンダー大王も忘れられてしまった。
私とて同様である。
これが、大ナポレオンと崇められた私の最期である。
主イエスキリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれた私との間には、あまりにも大きく深い隔たりがある。
キリストは愛され、礼拝され、キリストへの信仰と献身は、全世界をつつんでいる。
これを「死んでしまったキリスト」と呼ぶことが出来ようか。
イエス・キリストは、永遠の、いける神であることの証明である。
私は力の上に帝国を築こうとして失敗した。
キリストは、愛の上に王国を打ちたてた。」
人間の力の支配、その闇のなかに、主イエスは愛の国を、神のみ国を来たらせる「王」として、
最初のクリスマスの夜、力とは無縁の家畜小屋に、ひっそりと、生まれ
今に至るまで、この闇の夜を照らしつづけ、愛の国を来たらせるために、今日も、働いておられる。
イエスを信じる人々の中に、今日も新たに生まれることで、また新たに、この世界を照らし、愛のみ国へと導いておられる。
そう信じて、わたしたちはこの2015年のクリスマスも、ここに集い、主イエスの誕生を祝います。
この世界を救うお方。わたしを、わたしたちを救うお方。
主イエスと出会うために、今日も、ここに集ってきました。
しかし、主イエスと出会うというとき、ひとつ、忘れはならないことが、8節から記されています。
8節から、羊飼いたちに、天の使いが現れ、救い主の誕生のメッセージを聞くことになります。
それは、喜びの知らせです。この世界の真実なる光、メシア。キリストの誕生。
この喜びのメッセージを聞くことになる直前、羊飼いたちは、「非常な恐れ」を覚えのだ、ということです。
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
これは、羊飼いたちが、不思議な光景を見たので、それが怖かった、ということではないでしょう。
むしろ、ここで告げられていることは、私たち人間が、神の出来事と遭遇することの、恐ろしさです。
聖なる神と人とが出会うということ。それは、喜びや平安という以前に、恐れである。それも「非常な恐れ」をもたらす出来事であると、ルカは告げるのです。
神と出会う。神の前に立つ恐れ。日常の中に、突然飛び込んでくる、神の出来事と遭遇する恐れ。
この恐れに比べれば、私たちが普段かかえている、さまざまな不安や恐れは、小さなものです。
むしろ、神を忘れるとき、人間は、神ではないものを、あたかも、神のように、恐れ始めるものです。
人を恐れ、仕事やお金や健康をうしなうことを、恐れ、心が押しつぶされそうになるものです。
それは、本当に恐れるべきことを、恐れるべきお方を、
命を与え、歴史を導いておられる神を、忘れてしまったゆえの、目の前の小さな恐れ、ではないですか。
その恐れによって、互いに愛しあうことができなくなり、自分の身を守ろうとして、攻撃しあう。
今、アメリカの大統領になろうとしている人が、テロの恐れに乗じて、イスラム教徒への、野蛮な発言を重ねるようなことをするのも、
いのちを与え、歴史を支配している、本当に恐れるべきお方を、忘れてしまっているからではないですか。
愛の国を打ち立てるために、今日も、働いておられるお方の、その御心を知らないからではないですか。
羊飼いたちは、主の栄光の光に照らされた時、非常に恐れたのでした。
庭におかれた、大きな石を、ひっくり返したとき、石の下にうごめいていた、虫が、突然の光に驚き、恐れにげまどうように、
主の栄光の光に照らされる、とは、すべてを見通す、神の光に、神のまなざしにさらされるという危機。
自分の中の闇が、あらわになる。隠していた闇があらわになる恐れ。
しかし、この神による、本当の恐れを知る人は、実に幸いなのです。
この、本当に、恐れるべきお方の光、主の栄光の光に照らされ、自分の闇を知ったものの上にこそ、このみ言葉が響くからです。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」
この、決して人間からは発することのできない言葉を、天使を通して上から響く、神の宣言を、羊飼いは聞きました。
わたしたちも、今、神の霊、聖霊によって、この言葉を、私たちへの神の言として、受け止めます。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びと告げる」のだ
恐れと不安に取り囲まれ、自分自身の心の闇に、罪に、縛られ、恐れおののくものよ。
「恐れるな」
「昨日ではなく、今日、
他の誰でもない、あなたがたのために、そして<あなたのために>、救い主が生まれた」
「恐れるな」「恐れなくていい」
これは「喜びの知らせなのだ」滅びではなく、救いの知らせなのだ。
大丈夫だ。恐れるな。
この神の救いの証。しるし。それは、布にくるまって飼い葉おけに寝かされている、乳飲み子。
あなた方は、その乳飲み子を見つけるだろう。
そう天使は告げ、天使の大群による、賛美が響く。
天と地が響きあう瞬間。この罪と暴力と悲しみにまみれた、地に、平和あれと、
天が口づけした瞬間。
このけがれ多い「地」に、聖なる天が宿る。神の子が宿るという、驚き。
「神はその独り子を、お与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ことが、実現した決定的な瞬間。
神の子が宿られた、この世は、どれほど闇が深かろうと、主イエスを与えられるほどに神は愛している。
神の子が宿られた、人間という存在は、どれほど闇が深かろうと、罪にまみれていようと、
神は、主イエスを、人として生まれさせたゆえに、人は神に深く深く愛され、いつくしみを受けています。
わたしたちは、神に、愛されている。
羊飼いたちは、その神の愛の「しるし」を探しに、出かけていくのです。
12節
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と、出かけていくのです。
「恐れるな」「あなた方のために、救い主が生まれた」という、喜びの知らせを
今日、またあらたに聞いた、わたしたちも、その神の愛の「しるし」を探しに、ここから出かけていきます。
この世界の中に、神が隠しておられる、神の救いのしるしを。
今も働かれている、神の救いの業を、心の目を開いて、わたしたちも探しに出かけます。
最後にひとつお話させてください。
先週わたしは、映画を見ました。
今、杉原 千畝(すぎはら ちうね)という映画です。
第二次世界大戦中、リトアニアの領事として日本から派遣された、杉原ちうねの物語です。
時代はナチス・ドイツが、この世の栄華を極めているかに見えた時代。
次々に国を侵略し、ユダヤ人を迫害していた時代。
欧州各地から逃れてきた人々。ソ連経由でして逃げ道を失い、隣のリトアニアに押し寄せ、ビザを求めて日本領事館にやってきたたくさんの難民の人々
大量のユダヤ人を受け入れることは、当時の情勢からして難しい。外務省のその訓令に反し、
ただ、目の前の人を救いたいと、大量のビザを発給して、数千人の避難民を救った杉原ちうねの物語でした。
しかし、そのことで、彼は外務省をやめさせられ、長い間、彼のしたこと、彼が外務省に存在したことさえ、隠されていました。
やっと近年、これらのことがあらわとなり、名誉が回復し、映画にまでなったのです。
杉原は、ギリシャ正教の洗礼を受けた、クリスチャンでした。彼の中にも、主イエスは宿っていました。
ここには、神の愛の「しるし」が。幼子主イエスが隠されていました。
映画の最後のほうで、今や、救われた人々の子孫は、何万人にもなっているというクレジットを見たとき、
わたしはあらためて「ああ、そうなのだ」と悟りました。
歴史のなかの、小さく、隠されているような出来事。
主イエスが、宿った人。こころに生まれた人の、生き方。その愛と犠牲。
それは、小さく、隠されているようでも、いつか必ずあらわにされ、
それは、その時代をこえ、やがて大きな変化となって、愛の国を確立していく、神の歴史であることを、思いめぐらしたいのです。
19節に、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた。」と記されているように、
今、人の罪の闇が大きくみえようと、目の前の現実は厳しくても、
今、人の目には隠され、無力にみえ、忘れさられるような、小さな愛の犠牲のなかに、
主イエスは、今日も新たに、生まれます。
それこそ、わたしたちのクリスマス
喜びの知らせなのです。