「小さな群よ、恐れるな」(2016年6月12日花小金井キリスト教会礼拝メッセージ)

サムエル記上17章
ルカ12:22ー34

 先ほど、子どもたちのために、みんなで心を合わせて、祝福を祈りました。
一応、小学生までの子を、覚えて祈りましたけれども、「私だって子どもだ。ずるい、わたしのために、祝福を祈ってほしい」という方もおられるかもしれませんね。
今、何歳であっても、わたしたちは、誰かの子どもとしてうまれたわけですし、
永遠に、天の親の子であることは、変わらないわけですから。
そういう意味でいえば、実は毎週の礼拝は「神の子ども祝福式」をやっているわけです。
どうか、天のお父さま。私たち神の子どもが、天に行く日まで、迷子にならないように、御言葉をあたえて、導いてください。
そして、礼拝の最後で、「さあ祝福するから、いってらっしゃい」と、「派遣と祝福の言葉」、天の親の言葉として、聞いて、ここからまた出かけていくわけです。
そういう意味で、毎週、「神の子どもの祝福」と派遣式を、実は行っているわけです。今日は、それを目に見える形で、やってみた、ということはないですか。
神の祝福とみ言葉を必要としているのは、年の若いこどもたちだけじゃない。私たち全員が必要としているのですから。

さて、今日与えられた御言葉は、まさに「こども祝福式」の日のために与えられたような、主イエスの励ましの言葉でした。

「思い悩むな」。「小さな群よ、恐れるな。」。
「あなた方の父は喜んで神の国をくださる」のだから。

この福音のメッセージ。それももちろん、神に向かって、天の父よと呼ぶことができるすべての人に関わりあること。

まだ、神様と、そんな信頼関係にない。天の親とは思えない状態、人々のことを、主イエスは、「世の異邦人」「異邦人」という言い方をしていますね。

30節で「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ」とイエス様は言われるでしょう。

神様を、天の親だと思えない、信頼できないから、人々は「なにを飲もうか」「なにを食べようか」と自分の命を自分で守らないとと、思い悩む。

それが異邦人だとすれば、あなたたちは天の親を信頼している、神の子なのだし、

その「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じ」なのだから。

恐れないで、思い悩まないで、一番大切なことを、神の国を、神の愛のお働きが、ご支配が、この世に満ちることを、求めなさい。

わたしたちの身の回り、家族、教会、日本、世界に、神の国がきますようにと、まず求めなさい。それを一番に求めるのが、

天の親の愛を信頼している、神の子としての、ふるまいでしょう。天の父、天の親は、みんなあなたの必要を知っていてくださるのだから。

これが、今日の主イエスのみ言葉の、エッセンスでしょう。

つまり、この「思い悩むな」「恐れるな」といわれる主イエスの言葉は、一般論じゃないんです。

主イエスは、ここでカウンセリングをしておられるわけではないのですから。

そうではなくて、22節の冒頭にありますように、この一連の言葉は、主イエスの弟子たちに向けて語られているわけですから。


そういう意味では、今、主イエスの御言葉を求めて集まってきた、神の子であるわたしたちに対して、語られているわけですから。

「小さな群れよ、恐れるな」と主イエスが励ましているのは、ほかでもない、「神様はあなたの天の親のだ」と主イエスに教えられているのに、

またすぐに、恐れてしまう弟子たち、そしてわたしたちのこと。

ですから、なんどでも、恐れるたびに、わたしたちは、この主イエスの言葉を聴き続けなければならないのです。

「小さな群よ、恐れるな」


「小さな群」とはなんでしょう。

「小ささな群れ」とは、人数の話でしょうか。初代教会の小ささということでしょうか。

小さくて、少ない。それは弱いことだ。だから、恐れてしまうので、恐れるな、という話でしょうか。


なぜ、こんなことを言うのかというと、先ほど、わたしたちは、少年ダビデが、小さいダビデのほうが、ゴリアテを恐れなかったという、話を聞いたばかりだからです。

あの物語では、むしろ「小さい」から「恐れる」とは限らないのだ、という話だったからです。

わたしたちも、自分の振り返ってみたら、小さな子ども時代の方が、大人になった今よりも、恐れを知らなかったんじゃないですか。

大胆であったことがあったでしょう。

むしろ、年を重ね、年齢を重ね、たくさんのものを手に入れ、蓄え始め、自分の倉にしまい込んでいけばいくほど、

むしろ、それを失う恐れが、大きくなっていくことを、知っているではないですか。

「命」よりも「食べ物」のことで、「体」よりも「衣服」のことで、思い悩むようになることを、知っているではないですか。

人が恐れるのは、今、持っていないからではなくて、むしろもってしまっているので、それを失うことを恐れるのだから。

少年ダビデが強かったのは、持っているからではなく、持っていなかったから。「剣」も「鎧」ももたなかった。

自分は、自分。「石投げひも」と「石」で戦うのが自分らしさ。そういう自分を生きるのが神の御心であると、巨大なこの世の力へと、彼は立ち向かっていったわけだから。

この神に生かされ、神に造られたままの自分でいることの、「平安」にまさる力はないでしょう。

ダビデは、自分自身のことを、小さいなどと、おもわなかったでしょう。

あいつは小さいのに、大男のゴリアテに勝てるわけがないと、恐れてしまっていたのは、

小さなダビデではなく、むしろ、周りの人々であったわけです。

相手と同じ土俵に乗って、大きい小さいと比べなくていい。

このありのままの自分を、神が愛しているし、守ってくださる。

この天の親の愛が信じられないで、恐れてしまっている、肝っ玉の小ささなものよ。恐れるな。

それが、主イエスの言われた、「小さな群よ、恐れるな」ということだとすれば、まさに、私たちへ言葉になる。

わたしたちもいつも、この世のことで頭がいっぱいになっては、「自分は小さい」「弱い」と恐れてしまうものだから。

そんな弟子たちに、わたしたちに、主イエスは言われます。

鳥をみなさい、野の花をみなさいと。

彼らは、自分は小さく弱い、だめなんだと、生きていないだろう。

鳥(カラス)は人間のように、種を蒔いたり、刈り入れたりしない。鳥は鳥として、鳥らしく、生きているし、生かされている。

野の花だって、誰が見ていようと、見ていなくても、自分が今おかれた所で、咲いている。

あの栄華を極めたソロモンの神殿よりも美しく。

今日も、教会の駐車場の花、美しいかったでしょう。礼拝に捧げられている花も美しいでしょう。心慰められるでしょう。

でも、誰も見ていない教会の裏に、ひっそり咲いている野の花も、誇らしげにさいているでしょう。自分は誰も見てくれないと、いじけてなどいないでしょう。

人間は勝手に、人に見える花の方が価値があるとか、見えなければ価値がないとか、思っているけれども、神の目には、なんの代わりもない作品なのだから。

空を飛ぶ鳥が、ほかの鳥と比べて落ち込むわけがない。主イエスはだからこそ、ここであえて、「烏(からす)を見なさい」と言われたのかもしれません。

烏(カラス)は人間の目には美しい鳥には見えないし、どちらかと言えば、不吉な鳥と思われてきたでしょう。

そういうカラスのことをこそ、よく考えてみなさいと、主イエスは言われます。

人間の目に、もっと美しい鳥はいくらでもいる。でも、カラスでなければならないのだ。

わたしたちの日常のすぐそばに、そしてむしろ、うつくいい場所ではなく、ゴミがあるところ、汚れたところにこそ集まってくる、カラスのことを、よく考えてみなさいという。



実は、わたしは、2年半前、まだ山形の酒田の伝道所の牧師をしていた時、花小金井教会に招かれて、一度ここでお話ししたことがあります。

ちょうどその時、お話した聖書の個所が、この箇所からでした。

そのときは、こんなこと言いました。酒田には、冬に白鳥が飛来するんですよ。最上川という川に、沢山の白鳥がやってくるのを、地元の人は立派なカメラを持って、待ちかまえているんです。そして白鳥なら、だれもがじっと、何時間でも眺めるんです。写真をとって、大きく引き延ばして、自分の家に飾ったりもするんです。

でも、カラスをじっと何時間も眺めて、写真まで撮って、引き延ばしたり、飾ったりしないでしょう。

冬にしかやってこない、珍しくも美しい白鳥だから、よく眺めたいとおもうけれども、

いつでもそのあたりを飛んでいて、むしろ美しいところではなく、人の汚したところにあつまるカラスなど、できれば考えたくもないでしょう。

でも、主イエスは、白鳥ではなく、そんなカラスのことを、よく考えなさいと、いわれたじゃないですか、と、そんなお話をしました。

実は、カラスが飛んでいる場所のような、あまりにも見慣れてしまった日常のなかに、汚れてしまった日常の中に、

できることなら、見たくも、考えたくもない、その現場にこそ、

実は、神が命を支え、恵みと祝福を、「すでに」注いでいおられる、現場があじゃないかという、福音のメッセージが、ここにあるではないですか。

うまくいかない仕事、勉強、人間関係。夫婦喧嘩や親子喧嘩。人には隠しておきたい、自分の弱さ、罪、だらしなさ、汚れ。

そんな平凡な日常のなかに、捨ててしまいたい、失敗や、罪や、汚れの、ただなかに、

わたしたちを、赦しつづけ、命をまもりつづけ、導き続けている天の親の愛が、わからないか。

だから、思い悩まなくていい、大丈夫なのだという、メッセージを

「烏(カラス)のことをよく考えて」思い起こしなさい。

わたしはそのように、ここを読み、信じる牧師です。


「小さな群よ、恐れるな」

「恐れるな」と訳されたギリシャ語は、「逃げるな」とも訳すことができる言葉。

逃げなくていい。恐れなくていい。その現場から。

天の父は「神の国」を、遠くのどこかではなくて、

今、あなたが生き、苦闘している、その現場にこそ、与えてくださる。

 なんだかんだきれいごとをいってみても、結局は金がなければ、食べ物が、持ち物が、命を生かしているんじゃないかと、

人との関係で裏切られ、傷つけられ、すっかり恐れにとらわれてしまう、その現場に。

だから、目の前のものを握りしめ、物にすがり、金にすがりたくなるその現場で。

そのカラスが飛び交うその罪に汚れた、傷ついた現場に、

命を養う神の愛は、すでに注がれている。

だから、恐れるな。思い悩みに、縛られるなと、

わたしたちの心を、自由にしてくださろうと、言葉をかけてくださっている。

「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と極端に聞こえる主イエスの言葉もそうです。

この言葉を聞いたとき、わたしたちは気づくでしょう。自分の中に、やはり物や金を失うことを、恐れているし、心縛られていることに、気づくでしょう。

そんなことをしたら、生きていけないと、実は、失う恐れに縛られていた、自分自身の心の底の不安、恐れに気づくでしょう。

でも、わたしは今回、気づいたのです。もし、自分がこの、施しを受ける側だとしたら、こんなにありがたいことはないじゃないかと。

わたしが酒田で家族だけで開拓伝道をしていた10年近く。もちろん、経済的に成り立つわけなどなかったのですけれども、わたしたち家族を支えようと、勝手にやりますからと、ある人が呼びかけて、数百人の人が少しずつ献金をし続けてわたしたちの生活を支えてくれたのです。だれが献金してくださったのか実は、わたしは1人も知らないのです。だから、一人一人に、お礼のしようもない。

いやむしろ、その思いを、愛を、精一杯、酒田の人たちに分かちあうのが、わたしたちの使命だと受け止めて、いただいた恵みを、分かちあってきたのでした。

ある人が、天国を、こう例えたのです。

天国は、沢山の人が食卓を囲んで、みんな長い箸をもって、食事をしているようなものだと。

箸が長いので、自分の箸では、自分の口に食べ物を運べないのです。自分が食べる。自分、自分、と生きている人は、何も食べられない。それはむしろ地獄の風景。

天国は、その長い箸で、遠くの誰かの口の中に、食べ物を入れてあげる人たちの集まり。

みんなが、誰かほかの人の口に、食べ物を入れてあげるので、みんなが食べることができる。一緒に、共に、いきることができる。

天の国。神の愛の国とは、そういうものではないですか。

主イエスは、「ただ、神の国を求めなさい」と言われます。

そして、「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる」

これが主イエスの約束です。

その神の国は、特別なところではなく、カラスが飛び交う日常の中に、

傷つけあい、恐れに縛られてしまう、わたしたちの日常にやってくる。

わたしたちが、恐れさえしなければ、こんな「小さな私ではだめだ」と恐れさえしなければ、

あの少年ダビデを用いて働かれた神様は、今、主イエスの霊、聖霊としてわたしたちを通して働いてくださるはず。


神と人。人と人とが信頼しあい、共にいきる神の国を、

わたしたち一人ひとりを通して、カラス飛び交う日常の中に、与えてくださるはず。

だから、主イエスは言われます。

「小さな群よ、恐れるな。あなた方の父は、喜んで神の国をくださる」のだと