「神に生かされているから」(2017年2月26日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

ルカ20:45-21:4

おはようございます。

目の前の事で精一杯の日常から、いったん離れて、この1時間、共に天を見上げられることに、感謝です。

朝から「お手洗い」の話で恐縮ですけれども、わたしは、教会の「お手洗い」を使う度に、小さな愛を感じていて、

別に、特別なことではないのですけれども、いつも当たり前のように、「きれい」なのは、教会の愛の現れだよなぁと、おもうのです。

清掃業者などに頼まず、見えないところで教会の誰かが、毎週掃除をしているし、使う一人一人も、次の人のために、きれいにしておられるでしょう。

みんな、間接的に、お尻を合わせる、お知り合い同士ですからね。

でも、これは当たり前ですか。公共の場所のお手洗い。公園とか公民館とか、駅のお手洗いは、汚れてしまっていることが多いでしょう。

普段見えないところ、隠されているところにこそ、むしろ、人の愛はよく見えてくるものではないでしょうか。

人は、だれにも見られていないところでこそ、その人の本当の心が、よくあらわれるもの。

さて、今日、朗読されたみ言葉は、貧しいやもめが、生活費のすべてを神殿に捧げいれたというお話でした。

このとき、周りの誰も、彼女が賽銭箱に投げ入れた2枚の小銭が、彼女の生活費の全部だとは、知るよしもなかった。

当時の神殿の賽銭箱は、金属で、ラッパのような形をしていて、投げ入れたお金が「ジャラジャラ」と音をして、箱に入るようになっていたそうなのです。そんな賽銭箱がいくつも置いてあった。

金持ちたちが、勢いよく「ジャラジャラ」と大きな音をたてて、金を投げ入れているその脇で、

夫に先立たれた貧しい女性が、当時のもっとも小さな貨幣。レプトン硬貨。今なら、1円とか10円程度でしょうか。それを2まい。投げ入れた。それが、その人の生活費の全部だった。その日の生活費なのか、全財産だったのかは、わかりません。

ただ、言えることは、彼女の手には、何も残さず、すべてを賽銭箱に投げ入れた、ということです。

それほどの、思いのこもった捧げものなのに、一瞬「チャリン」と音がしたか、しないか。

そんな余りに小さな捧げ物に込められた、彼女の思いに、周りのだれも気づくことはできなかった。

ただお一人、主イエスだけが、主イエスの眼差しだけが、彼女が今、まさに、彼女自身の「命」を、注ぎだしたことを、見ていてくださったのです。

「生活費」と訳されている言葉は、実は、「いのち」とも訳すことができるギリシャ語なのだそうです。

彼女が神様に捧げたものは、「生活費」のすべてであるとともに、実は、彼女の「いのち」そのものとさえ言えた。

それを周りのだれも気づかない。ただ、主イエスだけが、それを見ていてくださいました。

しかも、主イエスが、こうして語ってくださり、ルカが福音書に書き記さなければ、わたしたちは、彼女の存在を永遠に知ることはなかったでしょう。

しかし、主イエスは、彼女がここで、その心のすべてを、神様に注いだ、この出来事を、その感動を、それから約2000年後に生きる、このわたしたちにまで語り伝えられる、記念となさったのです。

この出来事で思い起こすのは、十字架へと歩む主イエスが、ベタニアという村で、食事の席についていた時、一人の女性が、非常に高価なナルドの香油が入った、石膏の壺を持ってきて、それを壊して、香油を主イエスの頭に注いだという出来事です。ルカ以外の3つの福音書に、書いてあります。

それは、おそらくその女性の全財産だったでしょう。それほどの高価な香油を、すべて主イエスの頭に注いでしまった。

 周りの弟子たちはそれをみて「なんて無駄なことをするのだ、その香油をお金に換えて、貧しい人たちに施すことができたのに」と言いました。

 主イエスの頭に高価な香油をみんな注いでしまうなんて、それはお金の使い方として間違っていると、弟子たちはいったわけです。わたしたちもそう思うでしょうか。

 その弟子達に、主イエスはいいました。「いや、彼女はわたしに良いことをしてくれたのだ。彼女はわたしの葬りの準備をしてくれたのだ」と。

神の子が、十字架に、そのいのちを捧げることで、人を救う。

この神の愛が実現する、準備をしたのだと。

そして最後にイエス様はいいました。

「はっきり言っておく、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」と


この全財産であった高価な香油を捧げた女性のしたことも、そして今日の、この2レプトンを、神殿に捧げた女性のしたことも、周りの人々には、まったくその意味はわからないこと。

しかし、主イエスだけは、その意味を、その価値を、見抜かれて、彼女の「心」を、神への「愛」を、約2000年経った今日も、わたしたちへと語り継いでくださっています。

その人の、本当の心の中の神への愛、献身は、

人の目に目立ったり、理解される形を超えて、主イエスだけがちゃんと見ていてくださるところにこそ、あらわれる。

それを、主イエスは別の言い方で、「見てもらおうとして、人の前で前項をしないように注意しなさい。さもないと、あなた方の天の父のもとで報いをいただけないことになる」と、山上の説教のなかで語られました。

また、「富は、地上にではなく、天に積みなさい」
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」からと言われました。

この、2レプトンを捧げた彼女の、その「心」は、

周りの誰にも知られず、理解されない、その「心」は

ただただ、神に向けられている。「天」に向けられている。

そういうことではないでしょうか

人が見て、人が評価して、人が褒めてくれることを求める心ではなく、

大きいこと、目に見える豊かさが、神の祝福なのだと、

この地上のことだけに、こころが縛られていた、律法学者の人々、ユダヤの指導者たち。

彼らは、いかに、人に見てもらうかと期待して、長い衣をまとっては歩き回り、自分から挨拶しないで、自分が挨拶されたくて、広場をうろつき、

会堂に入れば、上席、宴会では上座に座る。

そして、律法では、やもめを守らなければならないと書いてあるのに、

やもめの相談を受けては、法外な謝礼を要求し、「やもめの家を食いもの」にしていた。

そんな地上の事ばかり考えている自分たちを、カモフラージュするために、見せかけの長い祈りをしていた彼ら。

そんな、善人を装う、悪徳律法学者たちの内面を、主イエスはすべて見抜いて言われるのです。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」のだと。

でも、これは人ごとですか。牧師は、悪徳牧師にならないでしょうか。クリスチャンは、いわゆる「偽善」「人の目を偽って」、良い人を演じてはいないでしょうか。

神の眼差しより、いつも、人の目を気にして、恐れてはいないでしょうか。

いや、わたしたちは、人の目など気にしない。神のまえに、自分の心をすべて捧げた、この貧しい女性なのだと、言えるでしょうか。


水曜日の夜のお祈り会のときにも、この箇所を読んだ時ある方が、「時々イエスさまは、人にはできないことを言うんだよな」と言われました。このやもめのように、すべてを捧げることなど、自分にはできないと、正直に言われました。

 わたしは、「比べなくてもいいのではないですか」と言いつつも、その気持ちはよく分かるわけです。主イエスの言葉。主イエスがわたしたちに求められる言葉に、わたしたちはいつも、そうはいっても、イエス様!それは厳しすぎると、葛藤を感じるのです。


神を信じ、主イエスを愛しているからこそ、今、私たちはここに集っている。でも一方で、人の目を気にして、人によく見られることに、こころ奪われてしまう、律法学者のような「偽善者」を演じてしまうこともある。

それでもなお、すべてを知っておられる神の前に、ただ、神様の恵みにすがる幼子のように、心から祈り、捧げることもある。

この律法学者と、貧しいやもめという、右と左の間で、わたしたちは、いつも揺れ動いている。

今日は10パーセント律法学者で、90パーセント、貧しいやもめという日もあれば、90パーセントが律法学者の、人の目ばかりを気にして、偽善に生きてしまった日もあった。

そんな私たちではないですか。しかしなお、そうでありながらも、こころの底では、この貧しいやもめのようでありたい。彼女のように、人の目を気にせず、しがらみから解放されて、神様だけを見上げて、天だけを見上げて生きてきたい。

そんな自分自身のなかで、葛藤を経験している、戦いを経験している。それが、この地上で、神を信じていきる、わたしたちの姿ではないですか。

 牧師を目指して、4月から西南神学部に入学することになった、T君。ごめんね、すこしあなたの話をさせてね。

 4月から入学するから、3月までは仕事を続けられると、当初考えていたのですよね。ところが、3ヶ月も早く、仕事をやめなければならなくなって、貯金もあまりないし、生活の心配、お金の心配で、心がいっぱいになってしまった時期があったんですよね。夜のお祈り会にやってきて、暗い顔でお祈りしてくださいと、いっておられたころを思い出します。周りの大人達は、「大丈夫だよ」と無責任なことをいいましたけれど、まあ結局、様々な助けやアルバイトが見つかり、「今大丈夫になっているわけです」

でも、それこそ、すべてをすてて、神様のために生きようと、捧げた人でさえ、

いや、むしろ、そういう人だからこそ、この地上の現実のなかで、葛藤や恐れを感じるのです。

神の言葉を、主イエスの言葉を聞き流せない、まっすぐに向き合い、神の言葉に従って、一歩踏み出したからこそ、葛藤や恐れがやってくるのではないですか。

この地上の、富も力ももっていた、「律法学者」

そして、なにも持たずに、神だけに頼った「貧しいやもめ」の、

その右と左の狭間で、

わたしたちは、このやもめの姿に励まされつつ、同時に、葛藤を感じつつ、しかしなお、このやもめが、天だけを見上げて生きた、その彼女の姿にあこがれつつ、

一歩一歩、神のものは神にお返しして生きていく。それが、わたしたちの地上の人生ではないでしょうか。


 あのエジプトから脱出したイスラエルの民が、途中で神の言葉をいただきながら、約束の地、カナンの地に向かう旅の途中で、様々な葛藤を経験したあの旅路とにている。。

私たちも、主イエスによって、神ではないものから解放され、自由になり、聖霊に導かれて、神の国に向かって歩む旅人。神の民。様々な葛藤を経験するでしょう。

イスラエルの民は、その旅路の中で、「マナ」というふしぎな食べ物を与えられて、命を養なわれたのに、

やがて、やっぱり、エジプトの奴隷の時の方がよかった。もう「マナ」は食べ飽きた、エジプトにいた時の、おいしい肉鍋を食べたいと、不平を言った。

そんなイスラエルの民を、天の父は忍耐し導いて、カナンの地へと導いた。

わたしたちの花小金井教会という神の民の中にも、先に旅を終えて、天に帰って行った信仰の先輩方の姿を、わたしたちは知っています。


この地上という、天に向かう荒れ野で、主イエスの言葉にチャレンジを受けながら、葛藤を感じながら、それでも、主イエスの後に、ときには、足を引きずるようにして、ついて行って、カナンの地に入っていった、お一人お一人を、わたしたちは知っているでしょう。

でも、最後の最後は、みんなこの2レプトンを捧げたのです。このやもめのように、すべてを捧げ、いのちをささげ、天に帰って行かれたのです。

神のものは神にお返しする。このやもめの女性がしたように、わたしたちもやがて、すべてを神様にお返しする。

その私たちの心を、主イエスはちゃんと見ていてくださる。だれよりもそばにいて、寄り添っていてくださる。

なぜなら、主イエスこそが、わたしたちのために、その命を十字架の上に、すべて捧げられ、わたしたちと共にいてくださる、救い主、キリストとなられたのだから。

熊沢義宣(くまざわよしのぶ)という、かつて東京神学大学の学長や、聖学院大学大学院の教授を務められ、2002年に天に召された著名な神学者がいました。

熊沢さんは、晩年は心筋梗塞による心臓発作を繰り返され、入退院を余儀なくされ、特に最後の2年間は、ベットで寝たきりの生活を強いられたのですが、そのような「患者」としての体験を、

「病床からのメッセージ」と題して、公表なさっています。

その「病床からのメッセージ」のなかで、ご自分が、何もできない状態になった時、この無力な自分にとって、イエスキリストの十字架は、いったいどこにあるのか、それがはっきり見えてきたと、熊沢さんは語られます。

熊沢さんの言葉です。

「この十字架というものは、実はわたしが横たわっているこのベッドの中にあるんだ。つまり、わたしは何もできない、そういう、いってみれば無力の極みと申しましょうか、あるいはどん底と申しましょうか、そこに身を横たえなければならない姿になった時に、実は私をそのどん底の一番下の所で受け止めてくれるものがある、このわたしを受け止めているものが、実はイエス・キリストのあの十字架なんだ」

「しかし、全く無力な姿でベットの上に横たわっているそのどん底に落ち込んだ私をゆるして、血を流してまでもわたしの一番下のところで、ベットの下でしっかりと受け止めようとされている神の愛が、その十字架の中には含まれているんだ、そこに神の愛が示されているんだということに気がつきました時に、わたしは十字架というものは、わたしにとってこんなにも身近なものであったか、しかも、神から最も遠いはずのわたしの一番身近なところにこの十字架が私を受け止めているんだ、ということに気づかされたわけです」

そう熊沢さんは死に向かう病の床で、告げるのです。

最後の最後に、なにもできない無力な姿になって、改めて、その無力な自分が神にゆるされ、生かされていることの価値。すでに、十字架によって示されていた、神の愛に、あらためて、深く深く気づかされていかれた。

熊沢さんは、日本の一流の神学者です。すでに、十字架の意味、教理、神学について、知り尽くしておられる方が、

しかし、人生の最後の最後、なにもできない、無力にされたなかで、改めて、十字架がこんなにも身近なものであったかと、しかも、神からもっとも遠いはずのわたしの、いちばん身近なところに十字架があると、悟られる。


主イエスの時代。神の律法を学び、だれよりも神を知っていたと思われていた、律法学者たち、

聖書の知識はだれよりも、十分に心得ていた彼らも、しかし、主イエスにあらわされた、神の御心、神の愛を知るには、彼らは、まだ強すぎたのかもしれません。

むしろ、頼みの綱の愛する夫を失い、どうしようもないほど、無力にさせられてしまった、貧しいやもめのなかに、

人ではなく、神が救ってくださることを、切に求める心を。

この無力な自分を、神は見捨てず愛していてくださる、「神の愛」にすがる心が、

自分のもてるすべてを、最後の2レプトンを、捧げさせたのではないでしょうか。

 弱く無力にさせられれば、させられるほど、神にすがるしかない自分を見出し、すでに神に愛され、生かされてきた、神の愛と恵みに、目が開かれていく。

今までも、天から下る「マナ」に生かされてきたことに、今も、これからも、永遠に神の命に生かされていく、恵みに、目が開かれていく。


「神の愛」とは、力や豊かさの中にではなく、弱さ、無力さ極みである、主イエスの十字架。その無力な死において、示されたから。

神の愛は、弱さと、無力さの中にこそ、鮮やかにあらわされる。

天の神の愛の眼差しは、人には見捨てられる、弱さや無力さを抱えた人々の中に、豊かに注がれている。

今はどうであれ、やがて弱さと無力さを知り、死にゆくわたしたちはすべて、

天の神の愛のまなざしに見つめられている、一人一人。

だから、わたしたちは勇気を出して、ここから、歩みだしていきます。

誰が見ていても見ていなくても、自分に与えられた一度きりの命を、自分の小さな2レプトンという、愛の賜物を、

他者のためにささげつくして、やがて天に帰っていく地上の旅を、

今週もまた、あらたに、歩み出していくのです。