「何があなたを生かすのか」(2016年6月5日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書12章13節〜21節
雨上がりのさわやかな朝となりました。この場所に集うことができた感謝とともに、今日、ここには集えなかった、愛するお一人お一人を覚えて、主の平安を祈ります。

わたしたちの教会は、どなたでもウエルカム、歓迎していますけれども、実は、教会のなかのグループには、特別な、VIPな集まりがあるんですよ。

なんていうと、驚かれるかもしれませんけれども、わたしさえも、まだ、入れてはもらえない集まりなんです。

ある程度長い人生を生きてきた人限定。まだ、わたしのような、若輩もの、鼻たれ小僧は、入れてもらえない、あこがれの集まり。

その名を、「シメオン会」といいます。

この前の金曜日にその、シメオン会の素敵な会合がありました。テーマは、「天国への備え」。素敵ですよねぇ。「天国」。それこそ、わたしたちの究極的な「あこがれ」ですよね。

教会の中で、まっすぐに「天国」の話ができる。そういう意味でいえば、「神の国」に一番近い集まりじゃないですか。

わたしのような、聖書から神の国の希望を語りながら、でも、まだこの世に未練一杯の、世俗的な牧師には、ある意味、やはりあこがれます。

生きていくのに精いっぱいな、いきづらい世界のなかで、一瞬でもいい。天の国、神の国の希望を、未来のことではなくて、

今すでに始まっている喜びなんだと、励まし合いたい。そんな交わりに、憧れます。

 まあ、ここにおられるみなさんも、やがて、あちら側にいきますから。100パーセント確実に、いつかは天にまいります。

なのに、そんなことありえないかのように、いつも、目の前のことで一喜一憂してしまう。

まるで、この地上の命が、すべてであるかのように、錯覚しては、落ち込んだり、いらいらしたり、うしなう恐れや不安に、とらわれてしまうものです。

 先ほど朗読された主イエスの言葉の中にも、こうありますね。

15節
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」

「人の命は財産によってどうすることもできない」

短い言葉ですけれども、それゆえに、人生を重ねれば重ねるほど、本当にそうだ、と実感させられる真理です。

「人の命は財産によってどうすることもできない」

でも、そのどうすることのできないものを、どうにかしようとしたい。いや、どうにかできるんじゃないかと、思う。

物や金で、どうにかできるんじゃないか、どうにかしたいと願う。

そういう心の態度を、主イエスは「貪欲」と表現しているのではないでしょうか。

「命」をどうにかしよう、できるのだと思う、そんな「貪欲」に注意しなさい、ということでしょう。

さて、話の発端は、主イエスの周りで話を聞いていた人の中から、ある人が突然
「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と叫んだことが発端でした。

聖書の流れ、文脈から言いますと、この言葉は、まったく唐突に、飛び出してきたような言葉なのです。

それまで、イエス様の周りで弟子たちや群衆たちが、イエス様の話を聞いていたわけです。

そこでイエス様が、なんどもなんども教えておられた、福音の言葉。たとえば、「恐れなるな」とか、「神はあなたの髪の毛の数さえ一本残らず数えて知っている」とか、「権力者のところにつれて行かれたときは、なにをどう言い訳しようか、なにを言おうかなどと心配しなくてもいい」「言うべきことは、聖霊がおしえてくれる」

つまり、神がちゃんとあなたを覚えているし、守っているし、働いてくださっているから、「大丈夫だ」「信頼しなさい」と、イエス様は、ずっと人々に福音を語っていたのです。

それなのに、突然この人は、唐突に主イエスに訴えた。

「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」

おわかりになりますか。この不自然さを。

つまり、この人はイエス様がずっと話しておられた話を、聞いていないのです。そうではなく、むしろ彼の心の中は、この遺産相続の話、財産争いの、自分の話でいっぱいだった。

おそらく、この人のお兄さんが親の遺産をみんなもらって、弟たちに渡さなかったという話なのでしょう。当時のイスラエルは長男に大きな権限があったと言われますから、長男が弟たちの分まで、遺産を独り占めにしてしまったと言うことなのでしょう。

遺産相続の醜い争いは、昔も今も世界中で変わらない話でしょう。財産がある方は、残された家族がもめないように、ちゃんと遺言状を書いておきましょうね。

それにしても、「貪欲に注意しなさい」と主イエスがいわれたときに、それを、いわなければならないのは、遺産を独り占めにした長男じゃないか。わたしじゃないと、この人は思ったんじゃないか。

わたしはなにももらえなかったのだから。それなのに、「貪欲」とはどういうことか、そう思ったんじゃないですか。

「貪欲」とはどういうことなのだろう。この人のなにが「貪欲」といわれたのだろう。「貪欲」なのは、独り占めにした長男じゃないか。

この「貪欲」と翻訳された言葉の意味を、もう少し掘り下げてみると、それは「もっとほしいと思う心」なのだそうです。

自分が持っていなくて、必要なものをほしがるということではなくて、すでに持っているのに、必要は満たされているのに、少しでも、もっとほしいと思う。有り余るものをもっていながら、なおほしがる。これを「貪欲」と言っている。

そう考えれば、遺産もまたそうでしょう。今、生活に困っているわけじゃない。必要は満たされている。いや、実はかなり持っている。でも、なお頂けるものは、いただいておきたい。それを長男にみんなもっていかれてしまった。

ずるい、私にもよこせ。わたしだって、もっとほしいのだ。

そういう思い、妬み、そねみの思いで、心がいっぱいであったなら、

主イエスがいくら福音をかたっても、耳に入らない。

「あなたは雀よりも価値があるのだから」「あなたの、髪の毛の数さえ数えている神様がいる」「その神が働いている。聖霊が働いている」から「恐れるな」と、主イエスが福音をかたっておられても、

なんだかそんなこと、絵空事のように聞こえて、ちっとも耳に入ってこない。

今、目の前の問題。財産問題で頭がいっぱい。

話終わった主イエスにいきなり、

「先生、うちの兄貴に、遺産を分けるようにいってくれないか」と叫んだのではないですか。

神が今も働いておられる。聖霊が働いておられる。神はあなたをちゃんと見守っている。その神は、髪の毛の数さえしっておられる・・・。

そんなよき知らせが、福音が聞こえてこない。響いてこないほど、心がこの世のなにかでいっぱいになっている。

今、神はちゃんと働いている。恐れなくていい。聖霊に信頼すればいいといっているのに、それでは心が満たされない。手に入れても手に入れても、まだ安心できない。平安がない。遺産がなければ、金がもっとなければ、不安なのだという、人間の内面の話。

なにがあなたの心に、平安をあたえ、喜びを与えるのですか。金ですか、神ですかという話。

旧約聖書にコヘレトの言葉というものがあります。

コヘレトは言う。なんという空しさ 何という空しさ、すべては空しい

そんな言葉で始まるコヘレトの言葉。

彼は、すべての豊かさを手に入れたとき、その自分の手の業、労苦のけっかのひとつひとつを。

見よ、どれも空しく 風を追うようなことであった、と告白します。

むなしさから逃れようと、あらゆる物を、地位を、快楽を手に入れたすえに、心が満たされることはなかったと、コヘレトはいう。

主イエスは言われます。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と

なぜなっら「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われます。

有り余る物を持っていようと、それでは、どうにもならないものがある。

命。生き生きとした命。命の輝き。いきる喜び。生かされている平安。

これは物でもお金でも、どうすることもできないことじゃないか。


そのことをさらに、主イエスは、たとえ話で語られます。

金持ちの畑が豊作だったとき、彼は、小さな倉しかなかったので、どうしようと不安になって、その小さな倉を壊して、大きな倉を建てて、そこに穀物や財産をみんなしまうことにした。

そして彼は、自分に向かって言うのです。

「さあ、これから何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と

しかし神は、そんな彼のことを「愚か者よ」と言うのです。

そして言われます。「今夜、おまえの命は取り上げられる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」

いったい、彼のどこが「愚か者」なのでしょう。彼のなにをさして、神様は「愚か者」と言われるのでしょう。

彼が小さな倉を壊して、大きな倉に穀物と財産をしまい込んだからでしょうか?

そんなことをしても、神はあなたの命を取り上げるのだから、無駄だ、愚か者という話でしょうか。

旧約聖書の創世記に、ヨセフの物語があるでしょう。エジプトに売らてしまったヨセフだけれど、やがて不思議な導きでエジプトの王の下で働くことになり、彼の知恵のおかげで、豊作の7年の間十分倉に蓄えたので、その後の飢饉(ききん)の7年を乗り越えたという話があるわけです。

毎年豊作とは限らないのだから、来年は飢饉になるかもしれないのだから、豊作の時にできるだけ倉に蓄えるのは、まさに「知恵ある者」のする事でしょう。それをしないほうが、「愚か者」ではないですか。

なのに、なぜこの金持ちが「愚か者」といわれなければならないのか。

わたしたちも、いざというときのために、お金を貯金しておくでしょう。蓄えておくでしょう。そんなことをしても、結局、神様が命を取られるのだから、意味がない。その日暮らしこそが、賢い生き方、という話でしょうか。

確かに、わたしたちは、いつ死を迎えるのかわかりません。いつかはわからなくても、確かに100パーセント、地上を離れるときはきます。地上の人生ははかないのは、確かなのです。そのはかなさだけは、ちゃんとわきまえておきたい。

でも、だからなにも持たない方がいいのか。その日暮らしや、出家生活こそ、はかない人生をいきる、賢い生き方なのだろうか。

この豊作を喜んで、大きな倉に蓄えた人の、なにが愚かだったのか。

彼は19節で、自分に向かって、こんなメッセージを語ったのです。

「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」

彼は自分に向かって、楽しめ。喜べと、メッセージを語っているのです。その根拠は、蓄えができたから。

さあ、安心していい。大丈夫だ。一休みしていい。楽しめ。喜べ。

その理由は、その根拠は、蓄えができたからだ。

そういった。そう自分に向かってメッセージしているのです。

わたしも、いつも礼拝のなかで、「大丈夫ですよ」「安心してください」「恐れなくていいんですよ」そういう宣言をします。いや、むしろそればっかり言っています。

そういえる根拠はなんなのか。そう宣言できる理由は何でしょうか。

この金持ちは、それは「蓄えができたからだ」といった。

「蓄えがあるから、大丈夫だ。喜べ、楽しめ」といった。

しかし、わたしはここで、そんなことを根拠にして、「大丈夫」「恐れなくていいんです」「喜びましょう」と言っているのではないのです。

蓄えなどなくても、いや、明日死にゆく命だとしても、「大丈夫だ」「恐れなくていい」といいきれるのは、ただ一つ。

神は愛だから。神はその独り子、イエスキリストをお与えになったほどに、世を愛されたから。

この絶対的な、変わることのない、変わることのできない、わたしたちを愛して、愛して、愛している、神の愛が、わたしの「大丈夫」「恐れなくていい」と宣言できる、根拠なんです。

このあと、わたしたちは、主イエスが、私たちの罪のために、血を流してくださった、これ以上ない、神の恵みと愛を、思い起こす、主の晩餐式を行うでしょう。

今、たとえ財産があろうとなかろうと、目の前の現実が思い通りになろうと、ならないとしても、自分自身の罪の大きさに、何度失望しようとも、

それでも、「大丈夫」「恐れることはない」「喜びましょう」「感謝しましょう」そうメッセージできる根拠は、ただ一つ。

神は愛だから。神はあなた、わたしを愛しているから。

この神の愛こそが、わたしたちを、今、このままで、ありのままで、生き生きと生かす命の源だから。

わたしたちは、この神の愛が信じられないとき、自分で自分を守ろうと、自分のために富を積み、自分のために、よい行いを積み、自分のために、自分のためにと、愛を求めて、生きてしまうでしょう。

21節で、主イエスは言われます。

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」

神の前に豊かになる。それはどういうことでしょう。

クリスチャンの大先輩、使徒パウロは、自分自身の体験として、神の前の豊かさを、こう証しました。

フィリピの手紙3章5節〜

「わたしは生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員。熱心さの点では教会の迫害者。律法の義については非の打ち所のない者でした」

つまり、自分はエリート中のエリートだったパウロは言います。自分が求めるものは、自分の力で手に入れてきたのだと。

さらに、彼はこう証するのです。

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今ではほかの一切を損失と見ています。

キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくた と見なしています。

キリストを得、キリストの内にいるものと認められるためです」


神の前に豊かになる。それは自分がなにを持っているか、自分が神のためになにをしてきたか、自分が神のために、なにを捧げてきたか、自分が、自分がということではなく、

むしろ、そんな自分の一切が、塵あくたに感じられるほどの、イエスキリストの愛のすばらしさ。キリストの愛を、キリストの恵みが、どれほど豊かであるのかを、

その神の愛の豊かさを、喜び、味わい、楽しみいきる。

それが神の前に豊かであるということ。

私たちの命は、自分の蓄えた「もの」でも、「経歴」でも、「よい行い」によって生かされるのではなく、

キリストの命によって。

キリストの愛によって、わたしたちの命は

今までも、今も、そしてこれから永遠に、

いかされていくのです。