旧約聖書 サムエル記上16章1節〜13節
この箇所は、イスラエルの2代目の王として、ダビデが選ばれるという出来事です。
神が最初アブラハムを選び、その子孫が祝福の内に数が増え、やがて12の部族に分かれながら、同じ神を信じる部族連合体を形成していきます。
わたしたちバプテスト教会も、地方ごとに連合体をつくっています。東京地方連合、神奈川地方連合、北関東地方連合。そうやって、地方ごとに教会の集まりがあって、ゆるい連合体を作っている。まあ、そういう意味では、イスラエルの部族連合体と似ています。
こういう緩やかな連合体で、お互いに、同じ神様に導かれて、協力しあって行きましょう、とやっているわけです。
連合体ですから、すべてを取り仕切るトップはいないのです。トップは神様だけでいいわけです。
イスラエルの12部族はそういう部族連合で今までやってきたのだけれど、だんだん周りの民族が力をつけてくるなかで、このまま12部族がバラバラでやっていたら、攻められて滅ぼされるんじゃないか。自分たちもほかの国のように、一つになって国となり、王をたてよう。
そういうイスラエルの民の、王さまを求める声が上がってきたわけです。
それまでも、王ではないけれども、リーダーは時々に立てられました。イスラエルに敵が攻めてきたときには、「士師」と呼ばれる、軍事的宗教的なカリスマリーダーが、神によって立てられ、民をリードする形で、救われてきた。
その最後のカリスマリーダーが、サムエルという人です。サムエルは宗教的なカリスマを得て、神と人をつなぐ祭司をしていた。
神はこの時、このサムエルを通して言葉を語り、イスラエルに働きかけていました。
当時は、ペリシテ人がイスラエルの領地をねらいおそってきていました。それでもなんとか、サムエルの祈り、リーダーシップで、イスラエルは守られてきたわけですが、やがてサムエルも年をとり、自分の代わりに息子たちを、跡継ぎにしようとしたのです。
しかし、この息子たちが、いい加減で、賄賂を取ったり、どうしようもなかった。そこでイスラエルの民は、今こそ、イスラエルをまとめてくれる王をたててほしいと、サムエルに懇願するようになったのです。
時代の状況の変化。軍事敵なプレッシャーの高まり。サムエルのなさけない息子では、もうどうにもならない。
こういう状況を見れば、民が新しい王を、国をまとめる強いリーダーをもとめるようになるのも、しかたがないのでしょうか。
しかし、聖書は一貫して、不安や恐れから行動することに、否定的です。
不安に駆られて、国を統率する強いリーダーを求める。王様を求めることは、目に見えない神さまが、今もちゃんと守り導いてくださっていることへの、信頼の喪失であると聖書は告げるのですね。
イスラエルが王様を立てるのは、神が王であることを退けることなのだと、語られていくのです。
さらに、人間が王様になるなら、その引き換えに、イスラエルの人々は、その王様に支配されることを、受け入れなければならない。
「それでもいい。周りの国を恐れて生きるくらいなら、王様に支配されてもいい」と、イスラエルの民は、王様を立てていく。
そして王となったのが、サウルという王さまでした。
それでもあくまでも、イスラエルの王を選ばれるのは、神です。民主主義ではないのです。。あくまで神がイスラエルの王を選び、祭司を通して、王に任職する油を注ぐ。神が王と立てる、神権政治です。
ですから、もちろんイスラエルの王は、人々の声ではなく、自分を王に選び立てた神の声に聴き、神の御心を行わないといけない。
しかし、サウル王はその重要な点において早い段間でつまづきました。敵との戦いにおいて、神に信頼して、サムエルの到着を待つべき時に、周りの人の恐れの声に聴き従ってしまい、サムエルを待てずに、サウロはサムエルしかしてはならない祭司の仕事を、代わりにしてしまう。
その出来事によって、神はサウルを王としておくわけにはいかないと、見限られてしまいます。
そして今日の16章の聖書の箇所となるわけです。神はすでに、サウルのことを見限っています。
1節の後半
「わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた」
もちろん、まだ、サウルは現役の王です。しかし、神はもうサウルを見限っているのです。これはある意味、怖い話です。
そして、すでにサウルに代わる新しい王を、神は選んでおられる。その人物に、王に任職させるための油を注ぐように、とサムエルをベツレヘムのエッサイという男のところに行かせるのです。
その息子たちの中に、次の王となるものがいるので、彼に油を注ぐようにと、遣わしたのが、今日の聖書のストーリです。
つかわされたサムエルは、エッサイと息子たちを、会食に招きます。その会食に出掛けてきた一人ひとりの息子と出会うサムエル。
立派な姿に、彼こそが次の王だろうとサムエルは思うが、神のまなざしと選びは違いました。
今日のメッセージのポイントになる言葉は、7節の主のことばでしょう。
「しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』」
そして、結局、その会食の席に来なかった息子。つまり、なぜか兄弟の数の中に入っていなかった、入れてもらえなかった、末の息子、羊の番をしていたのか、させられていたのか、わかりませんけれども、数にはいっていなかったダビデが、次のイスラエルの王に選ばれ、油が注がれていきます。
なぜ、神はこのような選び方をなさるのでしょう。神の選びはいつも不思議です。サウル王を退けるにしても、次の王になる人は、もうすこし人々から納得してもらえるような人を選ぶべきではないか。
たとえば、今の王さまに近い立場、近親者など、できるだけ政権交代がスムースに行きそうな人を選ばないと、混乱するのではないか。
ましてはどこの馬の骨ともわからず、さらに、兄弟の数にも入れてもらえなかった年若いダビデを、イスラエルの王に選ぶ。
これはちょっと、いやだいぶ、賢いやり方とは思えない。
しかし神は、外側しか見ることのできない人間とは違い、内側を見ておられた。
ダビデという人の外側ではなく、内側を見ておられた、ということです。その内側に秘められている、イスラエルの王となるべく可能性を、命を、信仰を、見ておられた。
今の日本は、余裕がなくなってしまって、即戦力にならないと、価値がない。待っていられない。今、すぐに使える人間でなければ、だめだという風潮でしょう。
もし、そういうまなざしで、エッサイの息子たちを見定めたら、間違いなく、一番最初にあらわれた、エリアブという息子が、イスラエルの王ですよ。エリアブは、今すでにどこからみても、王さまにふさわしい立派な容姿だったわけですから。
違う言い方をすれば、彼はすぐに王さまとして、使える。即戦力だった。
ところが、神はそのような人の外側ではなく、まだ今は、現れてこない、隠されている、人の心の内側を、その命の小さな種を、見ておられる。
この人の中に宿っている、可能性は、信仰は、愛は、豊かに実るに違いないと、ダビデを見ていてくださったということです。
その通り、この後、油注がれたダビデは、10年近い年月を経て、忍耐と試練をへて、サウルの次の王になり、イスラエルの民を愛し、神を愛する信仰深い王となっていくのです。
彼はこの時、王として即戦力ではなかったのです。ここでひそかに王に選ばれても、やがてそれが実現するのは、10年後なのです。しかしその王になるまでのつらいプロセスにおいて、ダビデはさらに謙遜と忍耐を学んでいくのです。
さて、神は、人のように外側を見て、即戦力になる人を選ぶのではないのではないか、という視点で、主イエスの選んだ12人の弟子たちをみてみれば、確かにあの弟子たちも、神の言葉を伝えるという伝道において、ちっとも即戦力ではなかったわけでした。
即戦力という視点でいえば、むしろ聖書を実践することに熱心だったファリサイ派の人たちとか、律法学者のような、神の言葉のプロフェッショナルたちのほうが、すぐに役に立ったんじゃないか。すぐに使えたはず。
ところが、一人として、聖書のプロフェッショナルを、イエス様は弟子に選ばれない。むしろ、聖書の知識や実践からすれば、ど素人の人々を弟子に選ぶ主イエス。
漁師のペトロとか、徴税人のマタイとか、そういう人々を弟子にしている。まったくもって、効率のわるい、合理的ではない人事を、主イエスはなさっています。
神の選びの不可解さ。なぜ、神の選びはそのような時間のかかる、無駄の多いような、不合理に思える人事なのでしょう。
コリントの信徒の手紙1 1章26節
1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
わたしたちが、今こうして、神を信じる信仰者へと召されたのも、選ばれたのも、人と比べて、立派だったからとか、愛と献身にあふれた聖人だったから、ではないはずです。
いやむしろ、自分の罪に失望し、自分の弱さ、小ささにおびえ、もう自分一人ではどうにもならないことに、気付いたからこそ、神の愛と恵みにすがるものとなったのでしょう。
わたしたちに、なにか誇るものがあったからではなく、むしろそうではないからこそ、神を信じるものへと、わたしたちは選んでいただいているはず。
すべて神様の恵み。プレゼント。それは、自分は大したものだと、誇らないために。誇るなら、恵みを与えてくださった神様をこそ、誇りましょう。
今あるは、神の恵みと、神様をたたえましょう。
サウル王は、そもそも神によって王へと立てられたのです。しかし彼はその与えられた立場に、しがみついてしまう。そして自分から王の座を奪うのではないかと、やがてダビデに対して疑心暗鬼になり、命を狙うようになり、サウル自身、精神的にぼろぼろになっていきます。
自分で得たのではないものに、神の恵みによって与えられたものを、手放すものか、これは自分のものだとしがみつくことは、結局自分自身を滅ぼしていくのです。
聖霊の風は自由にふく。神の働きも、神の選びも、風のように、自由に働かれる、神の出来事。
その神の風に逆らわずに、神の風を感じながら、神の風にのっていく。
ダビデのこの後の歩みは、そのような聖霊に導かれる歩みとなります。
今日の御言葉の最後に「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」という表現は、そういうことなのでしょう。
主の霊、聖霊に導かれて生きるようになった。聖霊の風に吹かれるようになった。
その聖霊の風は、わたしたちにも吹いています。そうであるからこそ、聖霊の風に吹かれたからこそ、今、わたしたちはここにいるからです。
自分の思いに縛られず、聖霊の風を感じて、自然体でありましょう。
どんな出会いでも、どんな働きでも、奉仕でも、主が選んでくださったなら、大丈夫。わたしたちの中にある、可能性、命、信仰を主は見ていてくださっています。
主の選びに委ねて、今、与えられている出会いと働きに、自然体で歩んでいきましょう。
あせることはありません。ダビデに注がれた、王となるための油は、10年後に現実となったように、神が選ばれ、導かれる道は、必ず実現していくのです。