「揺れ惑う者さえ」(2016年7月31日 花小金井キリスト教会夕礼拝メッセージ)

サムエル下24章1節〜25節

 約2カ月にわたって、夕礼拝では、旧約聖書のサムエル記を読んできました。
 きっと、NHK大河ドラマに作り直したら、きっと面白いものができるだろうなぁという、イスラエルの物語。
特にまだ、王がいない時代、12の部族であったところから、周りの国が、軍事力をつけていく中で、目にみえない神に頼るよりも、自分たちも、目に見える力をもって対抗していかなければならないという流れがつよくなって、ついに「王」を求めていくあたりから、だんだん人間臭いというか、神への信仰と、目に見える繁栄、権力との葛藤、矛盾、混迷、混乱を極めていったなぁと、そういう印象があります。

 そもそも、目に見えない神によって導かれてきた、神が王であるべきイスラエルの民が、人間の王を立ててほしいと求めた時点で、サムエル記の著者は、このように宣言していたわけです。

イスラエルの民は、主なる神が、彼らの上に王として君臨することを退けたのだ」と

 そのように、イスラエルという王国は、最初から矛盾と限界を抱え込んでだ形スタートしました。

そういう意味では、どのように人間的に素晴らしい人が、王の立場に立ったとしても、それは神への厚い信仰をいただいていた「ダビデ」であったとしても、逃れられない葛藤、限界だったように、私は思わされています。

 初代のサウル王が犯していく「罪」も、2代目のダビデ王が犯していく「罪」も、一言で言えば、目に見えない神こそが、王であることを忘れていく。

そういう100%神の心と一致できない、人間のもつ限界にあったように、思うのです。

先週は、初代の王サウルの罪が、ダビデの時代にも精算されていないことが、3年の飢饉の原因だったというお話でした。結局、サウルの子孫から7人がそのために処刑されなければならなかったという重い出来事でした。

一般の歴史書は、王様のことを悪くは書きません。しかし聖書は、王であろうが容赦なく罪の責任を問います。

いや、多くのことを任された王であるからこそ、神の前の罪の責任を、預言者によって、問われていくわけです。

 さて、先ほど朗読された箇所は、サムエル記の最後の箇所です。ダビデの働きの記録としては、最後の出来事になります。

ここで起こった出来事。それは神の誘いの中で、ダビデイスラエルとユダの人口調査をしたという出来事です。

ダビデは強行に民の数が知りたいと、部下のヨアブに命じます。部下のヨアブはなぜそのようなことをするのかと、戸惑ったようすも伝わってきます。そして、結局、このイスラエルの民の数を数えたことが、ダビデの心の呵責となり、10節で「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕をお見逃しください。大変愚かなことをしました」とまで言わせているのです。

私たちの感覚からいえば、王様が民の人数を数えることのどこが悪いのか。なぜそこまで重い罪になるのか、よくわからないことです。しかし、結局民の数を数えた部下のヨアブが、ダビデに報告したのが、「剣を取りうる戦士はイスラエルの80万、ユダに50万であった」とあることから、民の人数を数えるということは、結局、今軍事的な力を、どれほど持っているのかということを知りたかったのであり、それは本来目に見える人の数や力によらず、目に見えない主なる神、万軍の主にこそ、信頼して歩むようにと民を導いていくべき、イスラエルの王としては、これはその神への不信。そして数えることができるような、目に見える力、軍事経済への信頼、依存という、神に対する裏切り、不信であった。

そして、ダビデはそのことに、後から気がつくのです。ここもポイントだと思います。部下のヨアブのほうが、先に気づいている。

何でそんなこと望まれるのですか。あなたの神、主がこの民を100倍にも増やしてくださるでしょうにといっている。

今までだれよりも主を愛し、主を信じてきた、ダビデらしくないのです。

まだ王になる前、少年であったころ、ペリシテとの戦いのとき、相手の巨人ゴリアトとの一騎打ちで、鎧も槍もいらない。自分には、小石と石投げひもさえあればいい。これは、主の戦いなのだと、主なる神へのまっすぐで、突き抜けたほどの信頼、信仰、愛に生きていた、あのダビデらしくないのです。今や、鎧と槍に頼りきり、不安で、その数を数えずにはいられない、ダビデがそこにいる。

人口調査に誘惑したのは、主ではないか。そもそも誘惑などしなければ、よかったのではないかとも思います。

誘惑とはむしろ、試みとかテストということだったのではないでしょうか。

人生の最後を迎えつつあるダビデ。そのダビデがなお、神に信頼する道を選ぶのか、そうではないのか。

そのダビデの信仰が、民の数を数えるという試みによって、試された。

以前のダビデであれば、当然、民の数など数えようとはしなかったでしょう。神の数によって、勝ったり負けたりするのではない。

軍事力でも、経済力でもなく、主なる神が祝福してくださらなければ、イスラエルは一歩も前に進めないのだ。数を数えるような、不信仰なことはしないと、そのような信仰に立ち、誘惑を拒否したのではないか。

しかし、イスラエルの王として、様々な経験をしてきたダビデは、今、あの小石と石投げひもで、ゴリアトに立ち向かっていった、まっすぐだったあのころのダビデではないのです。

年齢を重ね、精神的に年老いてしまったことも、あったのかもしれません。人間はどうしても、年老いていくことで、保守的になり、目に見える安定を求め、冒険を恐れていくからです。ダビデもまたそうであったのでしょうか。

民の数を数え終わったとき、ダビデは自分の命じたことが、神への信頼に立つべきイスラエルの王として、神への不信という、重い罪であることに、気づいて心に呵責を、責めを感じるようになります。

自分の罪に、自分で気づき、心に責めを感じる。これは神との関係に生きる人間にとって、大切なことです。

あの、19人もの人の命を奪った人が、もし、心に責めを感じていないとすれば、それは恵みではなく、裁きです。

人は心に責めを感じるからこそ、神の前に赦しを求めるからです。赦されることを求めないでいられる状態は、恵みではなく、裁きでしょう。それでは赦されることはないのですから。

さて、ではダビデは心の責めを感じたとき、赦しを求めたのでしょうか。

ダビデは言いました「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました」と言ったのです。

お赦しくださいではなく、見逃してくださいです。これは同じことでしょうか。赦されることと、見逃されることは、同じことでしょうか。

責任において、この罪の赦しを願うことと、罪を見逃されることは、決定的に違うのではないでしょうか。

見逃すということは、罪はなかったことにすることでしょう。水に流してしまうことでしょう。だれも責任をとらないということでしょう。

しかし、赦しは違うのです。赦しは誰かが罪の責任をとることで、赦されることだからです。

せっかく、心の呵責を感じながら、ダビデはここで、責任逃れをしようとするのです。

そのダビデの態度がはっきり現れるのが、続く出来事になります。

ガドという預言者がきて、ダビデに告げます。次に告げる三つのことから、一つを選べと。

一つ目は、7年間の飢饉が国に及ぶこと。二つ目は、3ヶ月ダビデが敵に追われること、三つ目は国に疫病が起こること。

この三つから一つを選ぶようにと、ダビデは問われます。これもまた、ダビデを試す、主の試みではないか。

ダビデはこの問いに、はっきり答えないのです。ただ、彼はこういいました。

「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」

この答えは、いったいなんでしょう。煮えきらない態度ではないでしょうか。人間の手にはかかりたくない。主の手にかかりたいといいながら、その主は慈悲は、恵みは大きいというけれども、なにか責任逃れの言葉に聞こえるのです。

結果として、イスラエルの民に疫病が臨み、7万人が死ぬことになります。そこにいたって、ダビデはやっと自分の責任を認めてこういうのです。

「罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群が何をしたのでしょう。どうか御手がわたしとわたしの父の家にくだりますように」と

もし、あのとき、あの三つの災いを選ぶようにいわれたとき、ダビデが2番目の選択を、つまり、自分一人が敵から追われることで、民に災いがいくことのないという、選択をダビデが選んでいたら、当然、7万人もの民が死ななければならないことはなかったでしょう。

ダビデはここでも後から気がつくのです。自分が罪の責任逃れをしたことを。しかし、そのために、7万人もの民の命が犠牲になった。

ダビデは、ここにきて罪の責任は自分にある。罪を犯したのは自分なのだと、告白します。民の苦しみを経て、やっとダビデは、神様の前にまっすぐに顔をむけ、自分の罪に向きあうのです。

 その罪の告白をうけ、預言者ガドがダビデに告げました。

「エブス人アラウナの麦打ち場に上り、そこに主のための祭壇を築きなさい」

つまり、主なる神のまえにたち、罪の赦しを求めて、捧げものをささげよ、とうながしたのでした。


ダビデは結局、このあと、アラウナが所有している麦打ち場を買い取って、神への祭壇を築き礼拝します。

その際、アラウナはダビデに対して、麦打ち場も、捧げものの牛も、なにもかも王に提供しますと申し出ました。

しかしダビデはこの申し出に対し、こう答えます。

「いや、わたしは代価を支払って、おまえから買い取らなければならない。無償で得た焼き付くす捧げ物をわたしの神、主にささげることはできない」

この罪の捧げ物は、ほかの誰でもない自分自身が代価を払わなければならない。これは自分の罪のために捧げ物なのだとダビデは語った。

ここにいたるまでダビデは、一貫して、神の前から逃げるようにして、目に見える力に頼ろうと、イスラエルの民の数を数え、それが罪であることに気づいても、神の前からにげるようにして、見逃してほしい、なかったことにしてほしいといい、

ダビデが自分の罪の責任を取るチャンスとして与えられた、三つの災いから一つを選ぶ時も、「神は慈悲深い、恵み深いのだから」と、態度をあいまいにして、神に向き合うことを、避け続けてきたのでした。

しかしそのためにイスラエルの民にまで災いが降りかかるに至って、ダビデは「自分が罪を犯しました」と主に向きなおった。これを悔い改めというのでしょう。

そして自分の責任として、主への焼き付くす捧げ物、和解の捧げ物を買い、主への赦しをこいつつ、礼拝した。

主に顔をそむけ、逃げていたところから、主に顔を向け、向き合っていく。それは自分の罪にまっすぐに向き合い、赦しを求めること

悔い改め

どうかあなたに背いた罪を、赦してくださいと、心を尽くして、和解の捧げ物を捧げる。

ダビデはここで、悔い改めをしているのです。

そしてここまで主は、ダビデを見捨てることなく、ダビデが悔い改め、主に向き合うことを、待ち続けてくださった。

ここに、主の慈悲深さ、恵み深さがあるのでしょう。、

わたしたちも、長い信仰生活の中で、最初のころの、神に向きあうまっすぐさから離れ、道に惑い、揺れる時があるでしょう。、

自分の罪に向き合えず、そんな罪など、なかったことにしてしまうこともあるでしょう。

しかし、主はそのようなダビデを、なおあきらめず、見捨てることをなさらなかったように、

主に向き合えず、罪に向き合えずにいるわたしたちを、なおあきらめず、見捨てることなく、悔い改めることができるようにと、導いてくださる。

主の前に、まっすぐに、素直に、

赦しを求め、和解の捧げものを捧げられるように、してくださる。

すでに、わたしたちのために、主イエスの十字架の贖い、和解の捧げ物は捧げらたのですから。

恐れることなく、惑うことなく、主へ顔を向けていけばいいのです。