「忘れてはいけないこと」(2016年7月24日花小金井キリスト教会夕礼拝)

サムエル下21章1節〜14節

毎週、イスラエルの王「ダビデ」の物語を読み進めてきました。
目には見えない神を信じる人々の集まり。ある意味、神以外に「王」はいないはずの集まりに、人間が「王」として立たなければならないという、葛藤、矛盾、を、ダビデの生涯を追いながら、感じさせられてきました。


ダビデの前の王、サウルは、神によって油を注がれて、王に立てられたという意識から離れて、後半、王という立場、力、権力にしがみついてぼろぼろになっていきました。

部下であったダビデのことも、自分の立場を脅かす男として、ねたみ、命を狙うことさえしたわけでした。

おそらく、今読まれた出来事は、その当時のサウル王が犯した罪が、清算されていないということが問題になって、始まった出来事です。

時代は、二代目の王、ダビデの治世の後半。3年続いた飢饉(ききん)があった。その飢饉の原因は、サウルの時代にギブオン人を殺害した罪であるという託宣があったというわけです。

ギブオン人とは、イスラエル人ではないのです。でも、その昔、イスラエルの民がエジプトから逃れ、カナンという土地に住み着いた。それには先住民との戦いがあったわけですけれども、ギブオン人という人々とは、神様のまえに誓約をかわして、イスラエルの領土に共に生きる約束をしたのです。

イスラエルはギブオン人は保護をすると、昔約束して、共存していたのです。

それいらい共に生きてきたはずのギブオン人を、イスラエルの王になったサウルが、なぜ、殺害し、絶滅さえしようとしたのか、その理由は聖書には書いていないのです。

でも、現代にいきるわたしたちは、すこし想像することができます。それは、昔ヒトラーという男が、ドイツという国の独裁者になったとき、それまで共存していたユダヤ人を、彼は絶滅しはじめた、という歴史を知っているからです。

アーリア人種こそ、優秀なる種族であるという、プライドにとらわれた人間が、王のような立場に立った時、どういう恐ろしいことが起こるのかという歴史を、わたしたちは知っています。

人種的、民族的なプライドにとりつかれた人間は、社会の悪を、他の人種、民族のせいにします。ドイツ社会の悪の原因は、ユダヤ人にあるのだ、ということになる。そして異物を取り除くようにして、民族浄化していく。

日本も同じようなことをしてきましたし、今も、ヘイトスピーチのようなことをして、他の人種、民族の方々をバッシングする人たちがいるでしょう。

他者を攻撃する人の心理には、必ず不安があるものです。

サウルも、自分がイスラエルの王となってしまい、他国との戦いで勝っているときはいいけれども、負けた時には、あの「王」ではだめだと批判されるようになる。自分が「王」として認められつづけるために、自分への批判を、他者に向けなければならない。

そこで、同じ領土内の、あのギブオン人が悪いのだと、批判をかわすために、彼らを抹殺するということも、十分あり得るはなしです。


いずれにしろ、サウルが王であったイスラエルにおいて、それまで共に生きていたギブオン人への差別と排斥、そして民族虐殺、ホロコーストに至る過程の責任は、ほかでもない、サウル自身にあった。

それが2節の後半でいわれていることでしょう。

「サウルは、イスラエルとユダの人々への情熱のあまり、ギブオン人を討とうとしたことがあった」

自分たちの民族への情熱、民族意識の高揚のあまり、今まで共存してきたギブオン人と共に生きられなくなってしまった。

この罪が、次のダビデ王の時代まで、なにも償われず、精算されずにきた。

ダビデは、わたしには無関係だと突っぱねてもいい話です。しかしそういうわけにはいかない。3年続いている飢饉の原因が、そのサウルの罪のせいだとわかった今、ダビデは自分には関係のない話だと、つっぱねるわけにはいかない。


ダビデイスラエルの王として、イスラエルの民を飢饉から守るために、神の祝福をもとめて、責任を果たそうとするのです。

それは、被害者であるギブオン人と向き合い、どうすればいいのか、彼らから教えてもらう、ということでした。

3節で、ダビデはギブオン人の代表に、こう尋ねます。
「あなたたちになにをしたらよいのだろう。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろうか」

ダビデは自分自身がしたことではないけれども、イスラエルの民族の代表として、被害者ギブオン人に向き合い、彼らの要求を聞かせてほしいと頭を下げています。

このダビデの態度は、簡単なようでいて、なかなかできることではありません。

罪を個人的にとらえるなら、わたしや、私の世代が犯した罪ではないのに、なぜ償わなければならないのかという話です。

しかし、その理屈をいうなら、神の祝福というものも、同じではないですか。イスラエルは、その昔アブラハムが神を信じ、その子孫を祝福するという、神様の約束の上にあるのです。自分が立派だから、祝福されているわけではない。祖先アブラハムのおかげではないですか。祝福もそうであるなら、呪いもそうではないですか。

十戒のなかに、こういうことばがあるでしょう。
「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に3代、4代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」

つい、幾千代にも及ぶ慈しみのほうに、意識が向きますけれども、父祖の罪を子孫に3代、4代までも問う、という部分は、どう読んだらいいのでしょうか。

聖書の神を信じる信仰というものは、わたしが信じているとか、わたしが従っている、そのわたしを祝福して下さいというような、きわめて個人的で私的な、ご利益信仰ではなくて、

連綿と、神の民としてつながっている仲間、家族、民のながれのなかに、今、わたしたちも生かされている。そういう信仰。

なので、わたしはそんな罪を犯さなかったのだから、わたしだけは祝福して下さいというわけにはいかない。

神の民という、同じ船に乗っているのだから。その船が嵐にあっているときに、わたしは罪を犯していないのだから、助けてくださいというのはおかしな話です。

ダビデは今、王として、船長として、イスラエルという船に、飢饉という嵐が吹いている理由をしった。

そこでダビデがとった行動。被害者と向き合い、声を聞き、民族の罪と向き合った彼の行動は、神を恐れる指導者の行動でしょう。

ドイツは戦後、それをしましたね。

1985年ワイツゼッカー大統領は戦後40年の式典で「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」と、過去の罪に向き合うようにとの有名な演説をしました。

日本の指導者からは、聞くことのないことばです。むしろ過去を否定的にみるな。自虐史観だ。日本民族の誇りを取り戻すべきだ、という人々が増えている。今の総理もそのひとりでしょう。

ドイツでは今でも子供たちの教育プログラムの中に、ホロコーストの罪を、被害者のユダヤ人の声に、加害者の立場として、耳を傾ける教育を今も徹底して続けているし、町中には、今でもたくさんの過去の罪のしるし、モニュメントがある。忘れないために、子どもたちに語り継ぐための努力がなされている。

日本の教育は、どうでしょう。過去は水に流してしまったのでしょうか。

しかし、足を踏んだ人は忘れても、踏まれた人はいつまでも覚えています。

そして、踏まれた人がいつまでも覚えていることが、悪いのではなく、踏んだ人がすぐに忘れてしまうこと。覚え続けようとしないことがが問題なのでしょう。

踏まれた人の声を聞き、踏まれた人の心が癒され努力をしなければ、この日本という船は、このさき祝福されるのでしょうか。

ダビデはそのことを悟りました。ゆえにダビデはギブオン人の声を聞きました。わたしたちは、誰の声を聞かなければならないのでしょう。

ギブオン人はダビデにこういいました。

4節「サウルとその家のことで問題なのは金銀ではありません。イスラエルの人々をだれかれなく殺すというのでもありません」

ダビデは答えます。
「言ってくれれば何でもそのとおりにしよう」

彼らは王にいいました。

「わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡をはかった男、あの男の子孫の中から7人をわたしたちに渡してください。わたしたちは主がお選びになった者サウルの町ギブアで、主の御前に彼らをさらし者にします」

王は「引き渡そう」と言った。

そして、サウルの息子、孫の7人がギブオン人の手にわたされ、処刑されることになったのです。

これは復讐劇ではないでしょう。復讐なら、ギブオン人の殺された人数だけ、イスラエル人をだれかれなく、殺してもよかった。しかし、ギブオン人ははっきりと「サウルとその家のことで問題なのは、金銀でもなく、イスラエルの人々をだれかれなく殺すことでもない」と言ったのです。これは復讐ではないのだと。

そうではなく、サウルの子孫7人の命をギブオン人は求めました。

親の罪が、子の犠牲によってあがなわれるということに、なりました。

それは子どもの立場からすれば、あまりにも理不尽です。

なぜ、自分たちの命が、犠牲にならなければならないのか。あのおやじのしたことじゃないか。そう思うでしょう。

しかし、そのオヤジがいなければ、生まれてこなかったことも事実なのです。

殺人者の娘として生まれ、自分の父が殺した子どもの親に育てられるという、あの原罪がテーマとなった、三浦綾子の「氷点」という小説を、思い起こします。

わたしは誰一人、自分ひとりで生まれてきた人はいないのです。良くも悪くも、つながっているのです。そのつながりを否定することはできません。


そして罪は、なかったことにはできないのです。ただただ、あがなわれ、ゆるされるしか、ないのです。


さて、使徒パウロは、ガラテヤの手紙の中で、こう言います。

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いからあがないだしてくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」

また、ローマの信徒の手紙ではこう言いました。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによるあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯してきた罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」


ギブオン人への、サウルの罪は、なかったことにはできず、子孫の命が、そのゆるしのための贖いとなった。

そしてそれは、あのキリストが、その命を犠牲になさることで、私たちの罪が、なかったことになったのではなく、贖われた。ゆるされたことの、重みを、思わせられるのです。


罪は、時間が解決してくれるものでも、癒すものでもありません。

罪の傷を癒すことができるのは、神であり、キリストの贖いだけです。

サウルの7人の子孫が処刑され、さらされたその体を、母は粗布をとって、鳥や獣から守ったと、書いてあります。

その行いがダビデ王に報告され、遺骨はその後丁重にほうむられ、神はイスラエルの祈りに答えてくださるようになったと、この物語は終わります。


子どもたちの遺体をいたわる母の姿。この母の姿と、キリストが十字架に死んだあと、墓に葬られたその遺体の手入れを、せめて遺体の手入れをしたいと、女性たちが墓にやってきた姿がだぶります。

男の弟子たちは、逃げ隠れていたときに、女性たちは、イエス様の遺体のことを、心にかけていた。

もし、まだ観たことがない方がおられるなら、数年前にアカデミー外国語賞を受賞した、「おくりひと」という映画を観てほしいのです。

わたしたちが、酒田にいたころ、全面的に酒田でロケをした、美しい映画です。

亡くなった方の体を、きれいに整え、化粧をし、棺におさめる、納棺師のお話。

本木さんが主役でした。彼の妻の役が広末涼子

主人公は、物語の途中まで自分が納棺師の仕事に転職したことを、妻に言えないのです。
死体を扱う仕事への、偏見が彼自身の中にもあったから。

でもある日、妻にわかってしまう。そして、「けがらわしい、さわらないで」とさえ言われてしまう。

死体とは、けがらわしいもの。忌み嫌われるもの。そういう意識があるのでしょう。

しかし、物語がすすんでいき、やがて妻にとっても親しい方がなくなったとき、その遺体をやさしく、丁寧に、まるでまだ生きているかのように、復活したかのように、化粧をし、整える彼の仕事の、その価値と意味が妻にもわかっていく。

それはただの遺体ではないのだ。愛するあの人の体なのだ。その体をある意味、一瞬復活させてくれるような、彼の働きが、その人を愛しつながっていた人々の悲しみを慰めていたという、その働きの尊さに、妻は気づいていくストーリとなっていきます。

今日の聖書の物語においても、息子たちの遺体を、野の獣から守らずにはいられなかった母の愛がありました。

主イエスの遺体に、香油を塗らずにいられなかった、女性たちの愛を思いました。

わたしたちは、最後のときまで、「からだ」という実態を通し、愛や悲しみを、分かち合っていくのです。肉体を介さない、バーチャルなコミュニケーションではなく。

主イエスは、神の愛を示すために、肉体をまとわれ、肉体において苦しみを受け、肉体の死によって、神が人をどれほど愛しているのかを、伝えてくださいました。

それは、主イエスの犠牲において、もう、親の罪のために子が犠牲になるような、悲しみが繰り返されることのないため。

これ以上ありえない犠牲が、神の子キリストの血が、十字架の上で流されたのだから。

この神のあがないの愛を、わたしたちはわすれません。わすれてはいけません。

この神の愛を、次の世代へと、わたしたちは語り継いでいく責任があるのです。