「神の国は始まっている」(2016年7月24日 花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

昨日から今朝まで、教会の小学生、ジュニアの夏期学校でした。子どもたちもスタッフもくたくたでしょう。眠かったら寝てくださいね。

 いやー楽しかったです。所沢の航空公園でめいいっぱい遊んで、温泉に行って、スイカ割りに花火。そして教会のお母さんたちがつくってくれたおいしい夕食と朝食。

 夜はプログラムにはないお楽しみをしたんですよ。今、ポケモンGOってはやっているじゃないですか。スマフォであるきまわって、モンスターを捕まえるゲーム。昨日はそんな架空のモンスターじゃなくて、「リアルポケモンGO」というのを、教会でやりました。

まあ、要するに「きもだめし」だったんですけど、お父さんやおじいさんやおにいさんたちが、モンスターになってかくれているのを、こどもたちが、さがして、やっつけるわけです。

楽しかったですよ。男性たちは、みんな、ぼこぼこにたたかれていました。

そういうわけで、子どもたちが教会からサタンを追い出してくれましたから、皆さん大丈夫ですよ。

ゲームの、ポケモンGOも楽しいのかもしれないけれど、愛がないでしょう。

でも、「リアルポケモンGO」には愛があるんですよ。子どもたちを楽しませるぞって、大人が本気になっている「愛」がそこにあるんです。。
女性たちも、子どもたちにおいしいものを食べさせたいって、とっても手が込んだ料理を作ってくれて、そこに「愛」が見えたでしょう。

航空公園に遊びに行った午後には、自転車に乗って、こどもたちにアイスクリームを届けてくれた、アイスマンもあらわれました

バーチャルの世界もいいけれども、大人たちがそうやって本気で、こどもたちを楽しませようって、一生懸命している、リアルな「愛」が見える現場って、素敵じゃないですか。

聖書が教えている、天の親が、あなたを愛している、神の子を愛しているって、ことばだけじゃなくて、バーチャルじゃなくて、

大人が本気になって、こどもを楽しませてあげよう、って現場にこそ、垣間見えたりするんじゃないですか。

教会学校のテーマは、実は、「お祈り」だったんです。最初にわたしは子どもたちに、「お祈り」って、神様に話すだけじゃないんだよ。「神様が愛しているよ」って声を聞くのも「お祈り」だよって話しました。

大人たちが一生懸命、子どもたちのためになにかしている。そこに、天の親。神様が、君たちのことを本気で愛しているんだよって、そのことを、聞きとってほしい。感じてほしい。
あなたたちは、愛されているんだよ。もう、それがわかれば、「お祈り」だって、わかるでしょう。

そして、こんな素敵な経験ができるのも、夏休みのおかげ。

しなければならないことから、解放されなければ、こんな素敵な時間は持てないわけです。

 実は、わたしの中学の息子も、先週から10日間の、ある教会のキャンプに送り出しているんです。今週金曜日に帰ってきたら、次の週にには、天城山荘の「少年少女大会」にまた送り出します。

 しなければならないことからせっかく解放される夏休み。ゲームもいいけど、どうせなら、リアルに、人と出会い、リアルな喜びの出来事を体験してほしいじゃないですか。

 夏休みは、夏休みにしかできないことをするためにあるはず。

だから、しなければならない「夏休みの宿題」なんて、やめてしまえ、

なんていったら怒られるので、聞かなかったことにしてくださいね。でも、これはわたしの本心。

休みって、しなければならないことからの、解放のことなのだから。

先ほど朗読された御言葉も、「安息日」がテーマだったわけです。6日の間は生きるために、しなければならないことをする。それは大事。

でも、七日目は、そのしなければならないことから解放される日を、神様は与えてくださった。それが、そもそも安息日というものだったわけなのです。

その昔、イスラエルの民は、エジプトの奴隷だったことがあるわけです。奴隷に休みの日などありません。「月月火水木金金」なのであって、奴隷に日曜はない。その奴隷の苦しみの叫びが、天に届き、神様は「モーセ」という指導者を立てて、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、解放したでしょう。

そして荒野を、カナンの地を目指して旅を始めたそのイスラエルに、旅の途中のシナイ山で、神様は、「十戒」という教えをくださった。

十戒」をご存じでしょう。あの10戒は、ある意味イスラエルをエジプトから解放して下さった、神様の「奴隷解放宣言」とも読める。

なぜなら、その十戒の「全文」で、神様はこう宣言なさるからです。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」申命記5:6

そして十戒の第一項目は、こうです。

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」

つまり、もうあなたたちを奴隷にした、エジプト王のファラオが「神」じゃない。あなた方を解放し、自由を与えた、わたしだけを、「神」としなさいよ、という、まさに奴隷解放宣言。

その十戒の4項目目が、安息日の教えです。「安息日を守ってこれを聖別せよ」という解放宣言。

「6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」

と書かれています。なぜ「いかなる仕事をしてはならない」のかといえば、つづく箇所には、こう書いてある。

「そうすれば、あなたの男女の奴隷も、あなたと同じように休むことができる。」からだと。

つまり、あなたが休まないと、立場の下の人たちが、休めないじゃないか。ちゃんと休め、ということです。

今の時代でいえば、上司が休まなければ、あなたの下で動く部下も、休みにくいじゃないかというはなしです。

だからどんなに儲かる話があっても、安息日には休みなさい。弱い立場の人々、あなたの言うことを聞かなければならない人々を、解放しなさい、という解放宣言が、この安息日の規定。

天の神様のまなざしは、いつも、立場の弱い一人一人に向けられているのです。天の親は、弱い人が強い人の奴隷になること、束縛から、解放してくださる。

この神の愛の御心の具体的な現れ。それが、安息日

ですから、日本の職場にこそ、この安息日が必要なんじゃないですか。立場が下の人ほど、なかなか自由に休めないでしょう。「お先に失礼します」といいにくいじゃないですか。それはある意味、奴隷状態であるわけでしょう。

少しでも、利益を上げるためには、休日返上、残業代抜きで働け、働け、イヤならやめろ。これはかつてのエジプトよりも、人間を奴隷のようにあつかっていないですか。そんなブラックな現場が、沢山あるではないですか。

安息日とは、まさに人の支配、金の支配から、解放する神の恵みの日。

自分に命をあたえ、生かしているのは、エジプト王でもなく、会社の社長でも、金でもなく、神なのだ。天の父なのだ。

そこに立ち返り、自由になって、天の神を礼拝し、神とつながれる、喜びの日。

そういう意味で、今、わたしたちの時代こそ、この安息日の精神が、解放の喜びが必要のように思う。

夏休みさえ、なにかしなければならないことに、しばりたい。そんな束縛の霊からの解放が必要なんじゃないですか。


ルカの福音書は、主イエスの地上の働き、それは解放なのだと強調しています。

それは、ルカの4章で、主イエスが、安息日の会堂で、預言者イザヤの、言葉を朗読なさった出来事が示しています。

こういう言葉でした。

「主の霊がわたしの上におられる
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである」

このあと主イエスは宣言します。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言なさったと。

主イエスが語られる言葉、なされる働きは、
わたしたちが、「神」ではないものに捕らわれ、しばられ、心も体も束縛されているところから、

わたしたちを、自由にしてくれる、「天の親」である神につなげてくださる。本当の自由を与える働き。それが福音なのです。

今日読まれた、病の女性の癒しも、病自体が問題になっているのではなく、病の霊であるとか、サタンと呼ばれるような、なにかわたしたちの心と体を縛り付け、束縛するものから、解放する主イエスの業こそが、大切なポイントになっているのです。

 安息日とは、神が働いて、人を束縛から解放してくださる日なのではないか、という問いかけのメッセージが、ここにあるのです。

 しかも「会堂」という現場。当時、地域ごとにあった礼拝所。集会所。一緒に心合わせて、神を礼拝する現場です。

その礼拝の現場で、18年も自由になれないでいる女性がいた。

主イエスは、そこで解放の働きをなさった。なぜなら礼拝こそが、わたしたちを縛り付ける、不安や恐れから、ときはなち解放してくださる、神の働かれる現場だから。

この福音のメッセージが、ここから読みとれるでしょう。

そして同時に、この主イエスの解放の働きを喜ぶことができないどころから、むしろ、主イエスのしたことに、腹を立てた会堂長の心、その思いとは、いったいどういうものだったのだろう。いや、それは私たちの中にもあるんじゃないかと、問いかけられるでしょう。

14節
「ところが会堂長は、イエス安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆にいった。『働くべき日は六日ある。その間に来てなおしてもらうが良い。安息日はいけない』」

彼は、イエス様がしたことに、腹を立てました。安息日に、治してもらってはいけない。ほかの日にしなさいというのです。

さて、よくこの状況を想像してみましょう。

この女性は、18年もの間、腰が曲がっていたのです。逆をいえば、今に始まった病ではない。慢性病です。ならば緊急に治さなくても、明日治せばいいじゃないか。よりによって安息日の、それも会堂のなかで、治さなくてもいいじゃないか、という常識的な判断は、当然会堂長にあったはずです。

彼の言っていることは、当時の常識からすればしごくまっとうなのです。だれも文句のつけようがない。

しかし、もう少し深く想像して行きたいのです。彼女は18年もこの腰が曲がった状態で、神にすがるようにして、礼拝に来つづけていたのだということを。

それなのに、今まで彼女はその束縛から解放されなかったのです。毎週、毎週、すがるように神をもとめ、会堂に集い、礼拝をしていたのに、彼女は18年もの間、サタンに縛られたままだったのです。

18年もの間、悪いものの束縛から解放されなかった、その礼拝とは、いったいなんだったのか。

それがあたりまえ、礼拝なんてそんなものということだったんじゃないですか。神の解放の喜びも、希望も、期待のない礼拝。

そういう状態のところに、主イエスがこられたのです。そして御言葉を語り、主イエスの方から彼女を呼び寄せ「あなたの病気は治った」といきなり、病からの解放宣言をなさり、優しく手を置いてくださった。

彼女は、今まで長い間、毎週のように安息日に礼拝を捧げてきた。

しかし、この時ほど、直接神様を身近に感じ、神の語りかけを体験したことなどなかったはず。
彼女が今、ここにおいて、主イエスを通して、直接自分に語りかけられる神の言葉を、神の手を感じた。経験をした。


彼女は、今まで求め続けていた、神様ご自身を、神の愛を、その解放の喜びを、今、自分の体全体で経験し、ここで味わっているのです。

それなのに、会堂長や周りの人々は、なぜ、その彼女の喜びを、ともに喜べなかったのでしょう。

もし、わたしたちがもしそこにいたら、どう思うでしょう。

その喜びをともにできたでしょうか。

それとも、守るべき常識や、しなければならないことに、心縛られていたでしょうか。


エス様は言われます。

15節
「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日には牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませにひいていくではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」

 「安息日であっても、その束縛から解いてやるべき」と訳される言葉は、むしろ、「安息日であるからこそ」その束縛から解かれのだ、と受け止めてもいいのだそうです。

安息日という、この世のあらゆる力、束縛、恐れから解放される日であるからこそ、命の源である神と出会い、つながる喜びを、霊的な解放と自由を知ることがのできる。

神は今、礼拝の現場でこそ、働らいておられる。

礼拝とは、人が主役ではなく、神が主役。神が働かれ、神が人を解放し、自由にする現場。

しかし、その神を押しのけ、誰かを支配しようとする者たちにむかって、主イエスは言われます。

「偽善者たちよ」と

あなたたちは、安息日にしてはならないといいながら、安息日には牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませにいくではないか。と

牛やろばの命を守るために、安息日にも水を飲ませているではないか。

なのに、18年も一緒に礼拝してきた、あなたがたがよく知っているこの女性が、

今、悪いものから解放され、喜びを味わっているのに、なぜ一緒に喜べないのか。

何があなた方の心を縛りつけているのか。「偽善者たちよ」

そう主イエスはいわれます。

そう、実は、解放されなければならないのは、主イエスの働きを喜ぶことのできない、

偏見と思いこみに囚われていた、会堂長たちだった、というお話なのです。



神の国。いいかえれば神の支配。

つまり、天の親の愛が満ち溢れる世界。それは、神ではないものから解放し、天の親につなげてくださる、主イエスがこの地上を歩まれたそのときから、始まっています。

主イエスのことばが、心に宿った人の中から、少しずつ、少しずつ、神の国は、神の愛の支配は、広がっています。

それは人の目には小さく、ささいな出来事に、最初は見えるものです。

18節には、主イエスが、神の国についてたとえ話をなさっています。神の国は「からし種」に似ていると。

小さくて、目に見えないほどのからし種なのに、やがて成長すれば、その枝に鳥が巣を作るほどになるのだと。
パンを膨らませるイースト菌のように、主イエスの言葉と働きは、この世界のなかで、やがて大きく成長していくのだと。

やがて人々が、「こんな男になにができる」と、主イエスを十字架につけてしまったとしても、

神の命のからし種は、少しも衰えず、主イエスの言葉を宿した人々の中で、生き続け、成長していくのです。

主イエスの十字架から約300年後。このからし種の命は、実に大きく成長し、ローマ帝国そのものを、主イエスを信じる国へと、ひっくり返してしまいました。

人間の力を結集して、ローマをひっくり返したのではありません。

人の無力さの中に、神に委ねていきた、小さく弱い人々の中に

このからしたねの力が、復活の主イエスの命があらわれでたのです。


実は、わたしも小学生の時、一度だけ友達に誘われて教会の子ども会にいったことがありました。

それから20年以上、まったく教会とかキリスト教には、興味などなかったのに、心のむなしさ、渇きを感じるようになって、やがて一度だけ小学生のころにいった、あの教会にいったのです。そして、今、こうして牧師にまでなってしまいました。

ですから、一度でも子どもたちに教会に来てほしい。その時はよくわからなくてもいいから、おじさんやおばさんやおにいさんやおねえさんたちが、一生懸命子どもたちを愛している現場に、来てみてほしい。

そしたら、やがてわかるときがくるから。いつかわかるから。ああ、あのおじさんやおばさんたちを通して、僕のことを、わたしのことを、イエス様はよんでいたんだな。それがわかるときがくる。

わたしたちはそう信じて、たった一人でも、小さな子どもたちを、愛します。主イエスの御言葉を伝えます。

小さなからし種の命さえ宿ったなら、神様は必ず成長させてくださるから。断言します。わたしは、その証人だから。

すぐに変化しないからといって、おちこまなくていい。だんだん減っているんじゃないかと、下を向かなくていい。

300年後を楽しみにしましょう。300年後、この日本が主イエスを信じる神の国に、ひっくりかえっていることを夢見て、種をまきましょう。

 聞いた話ですが、中国のある竹は、植えても、最初の4〜5年は何の変化もないのに、5年を過ぎたころから突然成長し、わずが6週間ほどで30メートルほどの高さになるそうです。

地面のなかでくすぶっているだけ。なんの変化もないときも、いや、そういう時こそ、神は働いておられる。

人が働くことも、行動することもできない、役立ってなどいないと思う、地面の中のような時間が、

安息日という時にこそ、神は働かれる。

伝道者パウロは、自分のしてきたことを振り返って、こういいました。

「わたしが植え、アポロが水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神なのだ」と。

目に見えない主イエスは、今、この礼拝という現場で、働いておられます。

なに一つ、かわらず、成長しないように見えるときも、土の中にくすぶっているときも、

からし種の命は、私たちの心の中で、

教会の交わりの中で、この世界のただなかで、

なにもかわることなく、成長し続けているのです。