「それが罠となった」(2017年9月24日 花小金井キリスト教会 夕礼拝メッセージ)

士師記8章22節〜35節

夕礼拝で、ギデオンのお話の3回目となります。
前回までのお話を簡単に振り返りましょう。
イスラエルの民が、まだ国家を形成する前。12の部族の緩やかな連合体のころのイスラエル
ミティアン人に支配されていたイスラエルの民を救うリーダー、士師として、神が立てたのが、ギデオンでした。

どちらかと言えば、慎重なタイプで、見えない神を信じて、突き進む勇敢なタイプではなかったギデオンが、主の導きの中で信仰がはぐくまれて、人の力よりも神の言葉、神の力を信じるリーダーシップを発揮していくことになります。

先週の礼拝で、ミディアン人の軍隊とイスラエルの戦いの場面を読みましたけれども、砂の数ほどの沢山の相手軍に対して、用意した3万2千人のイスラエルの兵士を、主鳴上様は、「多すぎる」といわれて、減らしなさいとギデオンに命じる。1万に減らしてもそれでも「多すぎる」。これでは自分の力で勝ったと思い上がるといわれ、結局300人にまで、イスラエルの兵は減らされるわけです。

実にストレートに、人間の見える力に頼らず、見えない所で働いておられる、主なる神に信頼するリーダーシップを、ギデオンは発揮していきます。

そして、結局イスラエルはその300人で、ミディアン人の陣営を壊滅させ勝利します。
主が相手の陣地で働かれ、相手の兵士を恐れさせ、同士討ちや逃亡させたのでした。

その信仰による勝利の後の出来事が、今日の箇所です。
22節にあるように、イスラエルの人々は、ギデオンとギデオンの子どもたちに、イスラエルを治めてほしいと願うのです。

しかしギデオンは言います。
「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」

素晴らしい信仰の言葉です。自分が支配者にはなれない。主こそがイスラエルを治められるのだから、という謙遜な言葉です。

ただこのあと、ギデオンはなぜか、イスラエルの人々から戦利品の耳輪を集めるのです。
その重さは1700シュケル。約20キロの金です。

ギデオンはその約20キロの金をもちいて、エフォドというものを造ります。このエフォドが何だったのかは、諸説あって、祭司の祭服のことをいっているというのが、一般的なのですけれども、それに金20キロも使うだろうかという疑問もある。

27節では、その「エフォド」というものを、自分の町オフラに置いたとあります。置くもの。安置できるものだったのでしょうか。

さらに、「すべてのイスラエルが、そこで彼に従って姦淫にふけることになり、それはギデオンとその一族にとって罠となった」という謎の言葉が続くのです。

ギデオンには多くの妻がいたと書いてありますけれども、それはこの「彼に従って姦淫にふけることになった」ということとは、関係はないでしょう。

ここで言われている「姦淫」とは、イスラエルの神ではない神を、神のように礼拝することを意味するようです。すると、このエフォドとは、偶像だったのか、という疑問がわき上がってくるわけです。

ギデオンは、金20キロを使って、神の像を造ったのだろうか。なぜ、神を信じ、神がイスラエルを治めるのだといっていた、ギデオンが、神ではない偶像などとつくったのだろうか。

このエフォドとはいったい何だったのだろうか。謎は深まります。

想像するしかありませんけれども、神を信じて、300人で闘って勝利を得たギデオンは、まさか、その戦利品で、神ではない偶像をつくる、ということは、到底考えられないわけです。
では、このエフォドとはなんなのか。それが祭司の服なのか、なにかを記念するものなのか、具体的にはわかりません。ただ言えることは、なにかこの勝利の出来事の戦利品で、形に残るものを造ろうとした、ということは言えると思います。

それは、決して悪い意図ではなかったでしょう。この信仰の勝利の出来事を記念する、何かを造っておこうということだったのかもしれない。

ただ、結果的に、そのギデオンの振る舞いが、イスラエルの人々の、目に見えない神に信頼する信仰を、微妙に、目に見えるものに信頼する信仰へと、スライドさせてしまった、ということなんじゃないか。

目に見えない神を信じつづけることは、簡単なことではありません。神を信じて、たった300人で、相手の数え切れない軍と戦わさせられる。

こういう信仰のチャレンジを続けていくことは、簡単ではありません。

弱い時は、単純に神様にすがるしかないという、信仰に生きることが出来た人も、いざ、神様の助けと祝福を体験し、勝利や成功を体験したあと、強くなったり、豊かになった後も、目に見えない神を信じて、信仰のチャレンジをし続けることは、決して簡単なことではないのです。

戦利品を手に入れた。力を得て、豊かになった、その感謝と記念として、エフォドが造られたのかもしれない。

それは主が与えてくださった祝福、勝利を祝う意図だったのかもしれない。
しかし、一方で、今までは失うものがなかったから、神の言葉に従って、チャレンジしてきたけれども、勝利を得た今、失いたくないものが出来てしまったいま、目に見えない神に従い、その言葉に従って生きるよりも、目に見えるもの、手に入れた力によって、生きていった方が、楽であるし、リスクもないし、その方がいいのではないかと、

神ではないものに、心引かれてしまうということは、当然考えられるでしょう。

 ギデオンには、そんな悪気はないのです。純粋に神の祝福への感謝と記念として、戦利品を用いて、エフォドを造ったのかもしれない。そのエフォドを神の代わりにしようなどとは、考えてもみなかったでしょう。

しかし、その振る舞いが、イスラエルを、目に見えない神への信仰から、目に見えるなにかに頼る信仰へと、ここで言われている「姦淫にふける」という状態へと導いてしまったのだとすれば、これはとても考えさせられる出来事です。


「勝って兜の緒を締めよ」ということわざが日本にもあるほど、一番気をつけなければならないのは、成功した時、勝利した時であることは、時代と文化を越えて、普遍的な真理なのです。

教会の歴史の中で、初期の頃の長い迫害の時代を経て、4世紀に、キリスト教は、ローマの国教にまでなった。これはキリスト教の勝利であり、成功の出来事である一面、国とキリスト教が結びついてしまい、キリストの名で、教会が、正義の戦争を認める姿に変質していったのは、見えない神を信頼する信仰から、見える現実的な力に頼る姿に、教会の信仰が変質した部分もあったのではないかと、思うのです。

ギデオンがたった300人で、神に信頼して勝った出来事。

その神に対して、神に信頼し続けることは、難しい。
特に勝利し、成功し、豊かになった時に、人は、目に見える金の像をり、それにすがって、安心したいのではないでしょうか。その動かない像、富に頼りたくなるものではないでしょうか。

しかし、主はわたしたちの思いを越えて、今も聖霊として、生きて働いておられます。
主イエスは、聖霊は風のように、自由に吹いて働かれるといわれます。

今、わたしたちにとって、この自由に働かれる神を信頼するということは、
変わらない、金の像をつくって、安心してしまうのではなく、

常に新しく、変わり続ける、そういう意味では安心は出来ないけれども、

常に新しい冒険へ、チャレンジへと、勝利へと、招き続ける主なる神の言葉に、導かれていくことではないでしょうか。

過去の勝利を記念する「エフォド」ではなく、主が導かれる、新しいチャレンジと、勝利へと、今週も新しい一歩を踏み出していきましょう。