マタイによる福音書1章1節〜17節
子どもたちによって、アドベントクランツに二つ目の火がともりました。
主イエスの到来を待ち望む、アドベントの第2週です。
主イエスを待ち望むアドベントといっても、もちろん、主イエスはすでに、約2000年前、この世界に来られたわけです。
このイエスこそが、世を救い、わたしたちを罪から救うお方。救い主。へブル語で「メシア」、ギリシャ語で「キリスト」。
このグッドニュース、「福音」を信じさせていただいて、わたしたちは今、ここに集って、主イエスをとおして、父なる神を礼拝させていただいています。
しかし、ユダヤ人の方々は、いまだ「メシア」「キリスト」を、待ち続けています。
そういう意味で、ここに集っているわたしたちは、あのナザレに生まれた、イエスこそ、「メシア」「キリスト」なのだと、告白できるようにと、心の目を開いていただいたこと、気づかせていただいたことに、感謝したいのです。
福音書を読むとき、直接イエスさまと出会っている人々でさえ、この人が、イスラエルの民が待ち望んでいた、救い主なのだと、なかなか気づけなかった。
むしろ「メシア」「キリスト」は、こうあるべきだという、偏見が邪魔をして、目の前にイエスさまを見ていながら、その本質が、見えなかったわけでした。
人間は、神ではありませんから、どうしても偏ってみてしまう。自分の自我を中心にして、自分のみたいものだけを、自分のみたいように、見てしまうものです。
その人にとって大切だとおもうことは、よく目に留まるし、認識できるのに、価値がないと思うものは、見ているのに、認識していないということがあるでしょう。
植物が好きな人は、町の中を歩いていて、あの花はどういう名前だとか、あの花が今咲いているのは、珍しいとか、目にとまるし、認識している。でも、花に興味のない人は、そこに花が咲いていることさえ気づかずに、通り過ぎていくのです。
今日は、マタイの福音書の冒頭。イエスキリストの系図が朗読されましたね。
よく、初めて新約聖書を読む人は、この片仮名の名前のられつに、面食らってしまって、読む気が失せてしまうこともあるようですけれども、
確かに、最初はこんなカタカナの羅列に、何の意味があるのかと、読み飛ばしたくなるでしょう。
でも、興味をもって、ぜひ、旧約聖書を読んでみてほしいのです。そして、たくさんの神様に導かれた、イスラエルの人々の物語に出会ってほしいのです。
この世界を造られた神が、アブラハムを選び、導いてきた神の民の長い物語に、少しつづ触れていただくうちに、この主イエスに至る、意味のない、カタカナの羅列にみえた系図が、しだいに違ったものに見えてくるはずです。
実に、この系図に登場する一人一人に、深い深い、物語があるのです。旧約聖書をじっくりと読みこんでいくなら、
やがてこの系図の一人一人の名前をゆっくり眺めて、ちょっと黙想するだけで、
頭の中にまるで映画のように、臨場感あふれる映像で、その物語が楽しめるようになるくらいになったら、素晴らしい。
アブラハムという名前を見ただけで、ああ、あの神に呼ばれて、行く先もよくわからないまま、旅立った光景とか、
しかし、その信仰の父アブラハムも、高齢になり、自分に子を与えるという、神の約束を待てずに、失敗してしまった出来事であるとか。せっかく与えられた息子のイサクを、神にささげるようにと、試され登った、あのモリヤの山の出来事とか。
また、「ダビデ」という名前を見ただけで、少年の時、石投げひとつで、敵のゴリアテを倒した、あの情景とともに、晩年、王となったダビデの、取り返しのつかない罪を犯していく、情景。
それが6節に記されている「ダビデはウリアの妻によってソロモンをもうけ」たという、この系図の一言に、凝縮されている出来事。
自分の欲望にとらわれ、部下のウリアの妻バテシバを奪い、夫ウリアを激戦地に送り殺したダビデ。
神を信じるダビデの、取り返しのつかない罪。
この消してしまいたい出来事を、物語を、むしろこの系図をしるしたマタイは、
「ウリアの妻によってソロモン」が生まれのだと、あえて強調したのです。
マタイは、ダビデの栄光の部分ではなく、罪の出来事を物語を、系図の中にはっきりと書き記していくでのす。
想像してみたいのです。もしこれが、天皇家の系図なら、そんなことをするでしょうか。
系図というものが、その人の権威を示すものならば、そんな人間のドロドロした罪の物語など、もみ消してしまうのではないでしょうか。そうしなければ、権威を示すことができないではないですか。
そして、ダビデの後の時代の王の名前が、つぎつぎに系図に記されていきますが、この王たちも、残念ながら、ほめられた人たちとはいえず、偶像に心惹かれた王、預言者に批判され、神殿にまで偶像を持ち込む王もいたのです。
そういう、罪と不信仰の物語の末に、イスラエルの民は、バビロンによって、捕らえ、移されるという、バビロン捕囚が起こります。
そのバビロン捕囚のあとの系図が、今日の、12節以下の、名前になるわけです。
しかし、もはや、落ちぶれてしまった時代にあって、この一人一人の人々が、いったい何をしたのかは、よくわからない。旧約聖書には名前が出てこないので、わからないのです。
しかし、言えることは、かつて王家の血筋であったのに、どんどん落ちぶれ、無名の人々となっていったということです。そして、最後に、大工を生業にしていたヨセフへと至るという系図なのです。
もちろん、大工は立派な仕事です。仕事の内容ではなくて、もはや、かつての栄光ある王の血筋、家系とは想像できない、片田舎の大工のヨセフにまで至る、物語の最後に、イエスさまはお生まれになった、ということなのです。
ですから、この系図は、栄光の系図というものではなく、むしろ反対に、アブラハムから始まった、神を信じる民の歴史とは、傷と悲しみに満ちた、物語であったことが、この系図にならぶ名前から、にじみ出ているのです。
その人の弱さ、罪、不信仰の神の民の歴史。その痛みをまるごと引き受けるようにして、主イエスは、この系図の元に生まれたのです。
しかし、主イエスはこの系図の元に生まれたと同時に、人の血のつながりにおいては、決定的に切れたのだと、マタイは記します。
それは、聖霊によって、神によって、主イエスは、マリアのおなかの中に宿ったから。
それゆえに、主イエスにおいて、新しいつながりが始まった。
今や新しいつながり、神の霊によってつながる新しい時代が始まった。
ここに、神の救いをみることもできるでしょう。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
ということを言われました。
血縁関係を超えた、神によってつなげられる、新しい関係へ、主イエスは招かれたのです。
しかし、むしろ血縁関係にこだわるユダヤ人たちが、
自分たちこそがアブラハムの子孫だと、主イエスの言葉に耳を貸そうとせず、やがて主イエスを十字架につけていったのです。
血の繋がりにこだわり、系図にこだわるユダヤ人たちが、むしろ主イエスに躓いたのです。
血統にこだわることのなかに、罪の匂いがするのです。
しかし、たとえ罪の匂いのする歴史であるとしても、アブラハムからつながってきた神の民の歴史に、意味がないとか、系図などどうでもいいとか、そういう話ではないのです。
アブラハムから始まる、このイスラエルの物語、歴史、そこにある、一人一人の信仰者の人生、喜び、悲しみ、罪も含めた、そのすべての意図のみが、
主イエスがこの世にこられるために、必要な営みであったのだから。
その一人一人の人生をつないで、主イエスを、聖霊によって、この世に来らせてくださったのは、神なのだから。
人の目には、こんな失敗、こんな悲しみ、人生はなかったほうが良かったと思うとしても、神はそのすべてを、ひとつ残らず用い、つなげて、
主イエスをこの世界に来らせる、神の救いの働きのために、用い、つなげていてくださったのだから。
実は、この系図の中には、女性の名前が何人か記されているのです。
普通、当時の系図には、女性の名前が記されることはなかったのです。
しかも異邦人の女性であったり、男性との関係で悲しみを味わってきた女性たちの名前が、記されているのです。
タマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻、つまりバテシバ。そして、最後に、系図には入っていないけれども、聖霊によって身ごもったマリアも、主イエスにつながる一人でしょう。
女性の名前など、書き残されない、男性社会のユダヤにおいて、系図に女性の名前が書き込まれいる。ここに神のまなざしが現れている。
その女性たちがいなければ、主イエスに至る系図は成り立たないという、大切な一人一人として、彼女たちの名前を、マタイの福音書は、しっかり書き記すのです。
どの女性も、ある意味、生きる悲しみ、重荷を背負わされた女性たち。
そして、その一人一人の名が、主イエスにつながる名前として、書き記された。
彼女たちは、まさか自分たちの名前が、このように主イエスに至る系図に書き記されるとは思ってもいなかったでしょう。
彼女たちは、地上の人生を生かされてきた日々、男性が支配する社会のなかで、歴史の表舞台に登場することもなく、男性に仕え、あるいは利用され、裏切られ、悲しみに耐え、それでも、子を生み、育て、そして人知れず、死んでいっただけに見えた人生だったでしょう。
それは悲しみ多く、大した意味を見いだせない人生だったように、本人でさえ思っていたとしても、
神はそのような彼女たちの名前を、マタイをとおして、この系図に書き記されたのでした。
この世界を救う、途方もない神の業へとつながる、一人一人の人生として、主イエスにいたるまで、神は、つなげてくださった。
それはまた、この系図の後半で、もはや落ちぶれてしまって、何をした人なのか、分からない一人一人の名前さえ、マタイをとおして神はちゃんとここに書き記されていることも同じです。
なにも大きな働きをしたわけでもない。だれに覚えられるほどの人生でもない。そう本人はおもっていたとしても、
何の変哲もない、変わり映えのしない毎日を生き、そして死んでいったように見えたとしても、
神はその名前を、主イエスに至る、尊いつながりの名前として、マタイをとおして、ここに書き残してくださった。
そして、わたしたちは、今日、約2000年以上の時を超えて、確かにこの世界に存在し、やがて主イエスをこの地上に来らせる、救いの歴史をつなぐ、一人一人の貴重な名前に接しているのです。
そのことに気づく時、もはや、これをカタカナの「られつ」とは読めないでしょう。
そうではないでしょうか。
わたしが10年前、山形の酒田の小さな教会・伝道所、家族しかいない伝道所に赴任したのは、その場所で2年の間、伝道活動をしていた、T牧師が、天に召されたからでした。
76歳の高齢になってから、誰一人信徒のいない酒田に、御夫婦で住みついて2年後、78歳で天に召されたのでした。
T牧師がいた2年間。その小さな家の教会を訪ねてくる地元の人は、ほとんどいませんでした。目に見える変化も成果もないまま、T牧師は重い病に倒れ、天に召されていきました。
しかし、そのあとを引き継ぐようにして、わたしたち家族は酒田にいき、6年たって、一人イエスさまを信じてバプテスマを受ける人が与えられ、8年たってもう一人与えられました。
T牧師が2年の間、なにも起こらなかったように見える日々を、人生を、そこで生きてくださったゆえに、その後何年もたって、主イエスに出会う人が、神の国のみのりが、その場所にもたらされたのでした。
約2000年前にこの世界に到来した主イエスは、わたしたちの罪のために、十字架につき、復活し、天に昇られ、
やがてまた、この世界に到来します。わたしたちが福音を告げ知らせ、新しいつながりを広げたその先に、
主イエスは、この世界を、完全に救ってくださるために、再びやってこられます。
今、わたしたちはその日に向かう歴史を、物語を、今、生きているのです。
ですから、わたしたち一人一人の人生は、意味なく、ただ生まれ、死んでいくだけの人生ではないのです。
そうではなく、やがていつの日か、主イエスが到来し、神の救いが完成するその日につながっている、神の壮大なストーリーのなかの、大切な日を、なくてはならない人生を、
わたしたちは、生きている。
神は、わたしたちを、やがて来る神の国へと、ちゃんとつなげてくださる。
わたしたちの名も、この主イエスにいたる系図の一人一人の名のように、
きっと天において、神の救いの名簿に、ちゃんと書き記され、覚えられているはず。
何一つ無駄なことはないのです。
わたしたちの命は、神が、主イエスにつないでくださっているのですから。