「心が燃えたではないか」(花小金井キリスト教会主日礼拝4月23日)

ルカによる福音書24章13節-35節

 こんなことになってしまって、もうこの国も、そしてわたしたちも、おしまいではないか。

きっと、そんな深い失望と、未来へのいいようのない不安を感じながら、

エルサレムから逃げるようにして、エマオへと歩く、主イエスの二人の弟子たちの姿。

しかし最後には、なにも状況が変わったわけではないのに、二人の心が不思議に燃やされることになり、彼らはそれ以上逃げることをやめてしまい、

自分たちが立ち向かうべき現場へと、もと来た道を引き返していく。

わたしたちは先ほど、この二人の弟子に起こった不思議な出来事。

すなわち、復活のイエスキリストとの出会いの出来事を読みました。

それは今日、わたしたちもそれぞれに「その出会い」をここで体験し、新しいわたしたちとされて、それぞれの場所に、戻っていくためでもあります。


「主の日の礼拝」

それは、十字架に死なれ、3日目の朝、復活した、主イエスとわたしたちの出会いの現場です。

目には見えなくても、むしろ、目に見えないからこそ、世界中のすべての人とともに、今日も出会い、共に歩んでくださる復活の主イエスと、

わたしたちは毎週、そして今日も、この場所で、主イエスの言葉に触れることで出会い、

わたしたちの心が燃やされ、新しい自分とされて、今日も帰っていくために、

今日も、わたしたちは、ここに集められました。



さて、2年間にわたって、ルカの福音書を少しずつ読みすすめて来ましたが、いよいよ来週で最後となります。

2年前は4月5日がイースターでした。ちょうどそのイースターの日。

その前の週まで、山形の小さな港町酒田で、開拓伝道をしていただけの私と家族が、この花小金井教会に招かれて、

みなさんと顔を合わせて礼拝を捧げたあの日から、2年たちました。

今でも忘れません。一番最初のメッセージの冒頭で、「イースターから新年度が始まって、いいスタートですね」と、おやじギャクで始めたことを。


その日も、このエマオに向かう二人の弟子の箇所から、メッセージをしました。そしてその後、ルカの福音書の最初に戻って、2年かけて、またこの箇所に戻ってきたわけです。


その、み言葉を共に聞き続けた歩みは、今思えば、復活の主イエスが、いつも共に歩いてくださり、み言葉を解き明かしてくださった歩みでした。

メッセージの準備をしながら、なんど、いったいこの聖書の箇所から、何を語ったらいいのだろうと、頭を抱えたことでしょう。

それでも、いつも不思議に、語るべき言葉が見つかり、それは往々にして、礼拝前のぎりぎりということが、よくありましたけれども、なんとか、分かち合うことができたのでした。

そして、今思えば、この二人の弟子たちのように、わたしたちも、心がうちに燃えたではないかと、そういう出来事を、味あわせていただいたように思います。



先ほども申し上げましたが、わたしは山形の酒田という田舎町で、8年半、最初は自分の家族5人だけ、そして何年も経ってやっと数人の方が日曜日にやってきて、6年目にやっと地元の人がバプテスマ、洗礼を受けるという経験をするなかで、

いかにこの日本において、人がイエスキリストを、神の子、救い主、このわたしの主です。主人ですと告白して、
日曜日には、礼拝を捧げに教会に集まってくるということが、奇跡的なことであるのか。

何年も孤独と失望の日々を繰り返し続ける中で、いやと言うほど実感させられてきたのでした。


ところが、つい、毎週こうして日曜日に皆さんと顔を合わせていると、このあり得ない奇跡に、神の恵みに、どこか慣れてしまうのです。

今日も、共に、顔を合わせて捧げられる、この礼拝のありがたさが、見えなくなってしまうことがあるのです。

教会とは、建物のことではなくて、あのイエスを、神の子、わたしの主と、信じさせていただいた、その希望に心燃やされた、ひとりひとりの集まり。

そういう意味で、神秘的で奇跡的な集まりでありますのに、決して人間の力や金の力で作り出せるような、集まりではないのに、

毎週毎週、神が実現している、神による集まりであって、そういう意味で、わたしたちは、実は毎週、ここで神の奇跡を、主イエスの復活の奇跡を目撃していますのに、そのことが当たり前になってしまいやすい。


そもそも、主イエスの復活がなければ、ここに、教会もないのです。

 イエスさまが、十字架につけられるまえ、何年間もイエスに従いつづけた12弟子も、その周りを囲んでいた沢山の弟子たちも、

主イエスが十字架に死なれたあのとき、その集まりは、失望のうちに解散してしまったのです。

主イエスを囲んだ集まりは、主イエスが死んでしまえば、集まっている理由はないのです。

そのばらばらに散らされたなかの、その弟子の二人が、主イエスが殺されたエルサレムの町から、逃れるようにして、約11キロほど離れたエマオという村へ歩いている。

なぜ、こんなことになってしまったのかと、過去を悔い、そして、これから自分たちは、このイスラエルという国は、どうなってしまうのかと、未来を恐れ、二人はとぼとぼと歩いている。

それは、この混迷きわまる、日本にいるわたしたちが、

なんでこうなってしまったのか、これからいったいどうなってしまうのかと、不安を感じていることと、少し、にているかもしれません。

この二人の弟子の一人の名前は、クレオパという人でした。もう一人の名前は分かりません。

ただクレオパという名前を、ここにはっきりと書き残しているからには、最初にこのお話を読んだ人々は、このクレオパのことをよく知っていたのかもしれません。

「ああ、あのクレオパがいつも話していた、あの出来事か」と、この物語を読んでいたかもしれません。

初期の教会は、周りの人々から、自分たちの信仰が理解されずに、迫害されることも多々あったでしょうから、

その孤独の中で、この2人の弟子が体験した、この美しい出来事が、

過去を悔い、未来を恐れて、暗い顔しか出来なかった、この一番つらい時に、

そこに復活のイエスは、一緒にいてくださったと、後から気がつかされた、彼らの経験が、この証が、どれほど慰めを与えたことでしょう。

2000年の時を超え、どれほどの人を励まし、支え、生かしてきたことでしょう。


この二人の弟子たちは、最初、歩きながら、互いに話し合い論じ合っていたのです。

他の聖書では「議論」していたと、訳されています。


わたしは以前、この二人の弟子たちが、道々、「議論」をしていたなんて、なんと理屈っぽい人たちだ。議論などしていても、主イエスが十字架で死なれた意味など、わからないのに、と否定的に考えていたのです。


ところが、最近気が付かされたのは、私自身、2週間前に突然父を亡くしてから、この二人の弟子と同じようなことを、していることに、気づいたのです。

何かをしていても、気がつくと頭の中で、父について考えている。そして、いつのまにか、妻に向かって、父の最後のことを話したりしている。

あのとき、父はどういう思いだったのだろうか、とか、あのとき、こうしていたら、どうだったのだろうとか、考えても仕方のないことを、なんどもなんども考え、話している自分がいることに、はっと気づき、

ああ、これはこの二人の弟子がしていることだったのではないかと、気づいたのでした。

この二人も、別に「議論」が好きだったわけではないはず。

いくら、考えてみても仕方がないとわかっていても、心の内からわき上がる悲しみ、痛みの感情に、押し出されて、そうしないではいられない。

答えのない問いを、どうどうめぐりの問いを、互いに、語り続けていたのではないかと、そう思うようになったのです。


ある神学者は、この二人の弟子は、夫婦だったのかもかもしれないと、いいます。クレオパは男性の名前ですが、もう一人が男性だとは書いていないからです。

本当のことは分かりませんけれども、そう考えてみるなら、なおのこと、この二人は理屈っぽく「議論」をしていたというより、

お互いの心の痛みを、悲しみを、語りあうことで、精一杯言葉にすることで慰め合おうとしていたのではないか。

そして、そのように心痛めて歩いている二人の間に、

復活の主イエスのほうから、近づいて、一緒に歩き始めてくださったのではないか。そう思う。

しかし、なぜか2人はこの人が、主イエスだとは分からない。二人の目は遮られていたと書いています。

心の目が遮られていたということでしょうか。たしかに見ているのに、あの方だとはわからなかった。イエスさまだと分からなかったと、クレオパは、後から証言したのでしょう。

ヨハネ福音書にある復活の出来事も、墓にイエスさまの遺体を探しに行った、マグダラのマリアが、イエスさまを目の前にみていながら、イエスさまだと分からず園丁だと勘違いしたと書かれています。

エスさまを見ているのに、それがイエスさまだとは分からない。不思議です。

でも、ここから連想し、そして希望を与えられるのは、わたしたちも、実は今、気がつかないとしても、復活のイエスさまをみているのではないかということです。

一番つらく、悲しみに沈み、もうだめだと諦めてしまいそうなわたしたちに、

未来のこと、これからの人生に、不安や恐れを感じているわたしたちに、

すでに、復活のイエスさまは、近づき、一緒に歩いている。

ただ、わたしたちはそのことに気づかないまま、イエスさまだと分からないまま、

失望と不安の日々を生きているだけなのだ、ということです。

今、わたしたちが気づいていようといまいと、感じていようといまいと、

主イエスのほうからわたしたちに近づき、今、主は、わたしたちと共に歩いておられる。

この、見慣れてしまった、当たり前と思える礼拝のただなかに、

なにも代わり映えのしないように見える、いつもと同じ日常の中に、

復活のイエスは、今、共に歩まれている。

それなのになぜ、わたしたちは、青い鳥を探すようにして、自分が勝手に願っている、特別な出来事や、出会いの中だけに、神を探そうとしてしまうのでしょう。復活の主を探してしまうのでしょう。

神を信じていることが、なぜ、自分の願いや希望をかなえること、自己実現と同じになってしまうのでしょう。
なぜ、もっと特別な、超自然的な、自分が願う奇跡や祝福がなければ、神はいないと思ってしまうのでしょう。
なぜ、平々凡々のありきたりの日々には、神は働いていない。私たちの信仰と祈りがもっとなければ、祝福や奇跡はおこらないと、思ってしまうのでしょう。

そういう考え方は、主イエスがいったい、どういうお方なのか、この二人の弟子たちのように、勘違いしているのです。

この二人の弟子たちは、主イエスについて、こういうことを言いました。

「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。」

「あの方こそ、イスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と言いました。

この二人は、主イエスは神の力で奇跡を起こし、あの巨大なローマを倒して、イスラエルの民を、ローマの支配から解放してくれると、望みをかけていたと、言うのです。

彼らは、主イエスというお方を捉え損ねていた。

そしてわたしたちも、同じように、主イエスというお方を、捕らえ損ねてはいないでしょうか。

目の前の困難から、祈れば奇跡を起こして、助け出してくださる、そういうお方として、主イエスを捉え、信じてはいないでしょうか。

もし、そうであるとすれば、やがては、この二人の弟子たちと同じように、失望し、とぼとぼと逃げるようにして歩くことになるでしょう。

今、復活した主イエスが、すぐそばで共に歩いてくださっているというのに、

今、まさに神の奇跡が、そこで起こっているというのに、

それが、自分の願っていることではない、というだけで、心の目が遮られて気がつかない、見えないということがおこるのです。

わたしたちも、今、ここで、共に礼拝が捧げられている、という風景が、復活のイエスによる、奇跡である、この出来事が、

なんの代わり映えのない、当たり前のこと、ありきたりな日常にしかみえなくなってしまったとしたら、

わたしたちも、この二人の弟子たちのように、主イエスの言葉を聞いて、心の目を開いていただきたいのです。
25節
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

そう言われる主イエス

モーセとすべての預言者たちから始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを明らかにされた主イエス

「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」

そう主イエスは言われます。

神の栄光とは、人間の願う栄光とはちがう。

人の目には、無力に、無残に十字架につけられ、殺されてしまったあの出来事が、

すべてはむなしく過ぎ去ってしまっただけの、あの悲しみのなかに、

神の栄光があらわされていることが見えないのか。苦しみの先にある栄光が、分からないのか。

悟れないのか。

ああ、物わかりが悪く、心の鈍い者よ。

そう主イエスは言われました。

神の奇跡、神の業。復活の栄光は、十字架の死の苦しみとともに、現わされた、栄光だから。

自分がみたいもの、自分が願っていることしか見ない人には、見えない、悟れない、栄光だから。

しかし、どんなに私たちが、物わかりが悪く、心の鈍い者であったとしても、

神の子イエスさまが、すでに十字架において苦しみ、死なれ、

この世界のすべての罪の悲しみを、痛みを引き受けて、

その絶望の底から、イエスは復活させられたことは、変わりようのない信仰の事実。

人には愚かに思える十字架の死。

しかし、やがて復活の主イエスに出会い、心の目が開かれた、使徒パウロは、彼の手紙の中で、こう断言したのです。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたし救われる者には神の力です」(1コリ1:18)と。

また、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇る者が決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)と。

復活なさった方は、私たちの罪を背負い、私たちに命を分け与えるために、十字架につけられ死んだ方。

十字架の上で、ご自分の体を引き裂くようにして、わたしたちに、命のパンを与えてくださった方。

主イエスはかつて言われました。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)と。

クレオパともう一人の弟子は、旅路の途中で、主イエスと泊まった宿屋において、

主イエスご自身が、引き裂いて、渡してくださった、パンを受け取った、その瞬間、すべてを悟ったのです。

自分たちに今、パンを渡してくださっているお方が、だれであるのかを、悟ったのです。

自分たちは今、復活の主イエスから、神の命のパンを受け取っていることを。

その瞬間、主イエスは見えなくなりました。いなくなったのではありません、見えなくなったのです。

ただ、見えなくなったのです。もう見えなくてもよくなったのです。

復活の主イエスは、今も、今までも、そしてこれからも、そばで一緒に歩いておられることが、分かったのだから。

主イエスは生きておられます。そして、今日も、私たちに、命の言葉を、語ってくださっています。

その姿が目に見えなくても、声が聞こえなくても、不思議な奇跡が、あろうとなかろうと、

主イエスは今、生きておられ、私たちと、今、共に歩いてくださっていることは、何一つ変わりません。変わることなどありません。

そのことが、わたしたちに分かるのは、この二人の弟子が体験したように、後になって振り返る時。

聖書の言葉が、命の言葉が、確かに心を燃やしたことに、気づく時。

わたしたちの中で、この心が燃えていたではないかと、気つく時、
わたしたちは、復活の主イエスと出会っています。

そして、主イエスと出会ったなら、わたしたちは今、どういう状況であっても、大丈夫なのです。

 この二人の弟子たちは、ただちに向きを変え、自分たちが逃げ去ったエルサレムへと戻っていったのです。

 その勇気と力を、希望を、彼らは自分の心のうちに、見つけてしまったから。

 復活の主イエスが与えてくださる、燃える心を、その宝を、彼らは自分のうちに見いだしたから。

 彼らはまったく新しい命、神の命に生きかされる、新しい人となったのです。

 わたしたちも同じです。

 さあ、復活の主イエスに心燃やされ、

 逃げ去ってしまった、わたしたちのそれぞれの現場へと、

 ここから帰って行きましょう。