ルカによる福音書24章1節〜12節
今、イオンという、大きなデパートにいくと、「イースター」の大イベントをやっているのだそうです。
あの、ディズニーランドでは、「ディズニー・イースター」というイベント中です。ウサギの耳をつけた、タマゴのキャラクターで、「うさたま」というキャラクターが、ミッキーマウスとドタバタ劇を転回して、みんなを楽しませてくれるのだそうです。
楽しそうですねぇ。みんなで、そっちに行きますかね。イースター。
最近、クリスマスやハロウィンに続いて、イースターを、新しい春のイベント、お祭りしようと、デパートや遊園地が、宣伝を頑張ってくれるので、本家本元と教会としては、ありがたいです。
その内、「え、教会でもイースターをやっているんですか」と、驚かれるかもしれませんね。
でも、「「うさたま」ちゃんは、飾らないんですか?」と、質問されるようになったら、どうしましょう。
「ずいぶん静かですね。もっと派手なパーティーをしないんですか?」と言われたら、どうしましょう。
わたしたちの教会では、ほんの数日前まで、主イエスの受難、十字架、そのお苦しみを覚えて、受難の絵画をロビーに展示さえして、イエスさまのお苦しみに、心を向けてきたのに、
今日いきなり、あの十字架の出来事を、すっかり忘れてしまったかのように、がらっと模様替えして、「イースターおめでとうございます」と、派手なお祝いをする、というのは、ちょっと、心がついて行かない。
そういうイースターは、あまりに軽く、ちまたのデパートや、遊園地と、同じレベルになってしまうでしょう。
福音書は、主イエスの復活の出来事を、お祝いや、お祭りのようには、伝えません。
主イエスが復活なさった、日曜日の朝。「主イエスは復活なさった」と告げる、天使の宣言を聞いた女性たちは、「喜んだ」のではなく、「恐れて地に顔を伏せ」ました。
そして、イエスさまが復活なさったと告げる、女性たちの言葉を聞いた、男の弟子たちも、「喜んだ」のではなく、それは「たわごとだ」と思ったのです。
イースターの朝、誰一人、「イエスは復活したのだ。よかったよかった。」と、喜び合ったわけではありませんでした。
そもそも今日の箇所には、復活のイエスが、現れてもいない。今日読まれた箇所は、二人の天使が、復活宣言したことと、イエスさまの遺体が、墓にはなかったことしか、書かれていないのです。
ルカの福音書は、このあとに、エマオという村に向かう、二人の弟子たちのまえに、一瞬イエスさまがあらわれ消える、有名な出来事を記します。その後になって、弟子たちの間に、復活の主イエスが現れるという出来事が続くわけです。
ルカの福音書が伝える、主イエスの復活の出来事には、そういうプロセスがあるのです。4月の礼拝で、そのプロセスを、来週、再来週も、み言葉に触れていきます。ですから、今月いっぱいが、わたしたちのイースターです。
私たちにとって、主イエスの復活。イースターは、今日お祝いし、来週は忘れてしまえるような、イベントではありません。
十字架のあの苦しみと死。わたしたちの罪のすべてを引き受けて、絶望のうちに死んで行かれた主イエスが、
天の神によって、その絶望の死から、起き上がらされたのだ。復活させられたのだ。
復活なさったかたは、わたしたちの罪を赦すために、十字架の上で、絶望の叫びをあげた方なのだ。
復活、イースター。それが、私たちにとって喜びなのは、十字架があってのこと。
十字架をすっかり忘れてしまった、イースターの喜びなど、あり得ない。
ですからこのイースターの朝、わたしたちは、福音書の通りに、十字架のうえで死んで、葬られた、主イエスのことを、覚えることから、始めましょう。
イースターの朝、イエスに従い、愛した、この女性たちがしたように。
主イエスが納められた、墓に向かいましょう。
さて、主イエスとともに、ガリラヤからエルサレムにきていた、女性たち。
彼女たちは、金曜日の午後、十字架の上で死なれた主イエスの遺体が、アリマタヤのヨセフという、弟子に引き取られて、岩を掘った墓に納められた有様を見届けていたのです。
そして、安息日の間、遺体の手入れをするために、香料と香油を準備し、
安息日があけた、週の初めの日、日曜日の早朝、墓にやってきた。
十字架から降ろされ、血だらけのイエス様の体を、もうすぐ安息日が始まるからと、ばたばたと、亜麻布だけにくるんで、無造作に寝かしてしまった。
その様子を見ていた女性たちが、どれほど心を痛め、せめて体の手入れをしたいと、香料と香油をもってやってきたのだろうか。
彼女たちは、もちろん遺体がそこにあると思っています。そして、人が亡くなった後に、そのままにしておいたら、どうなってしまうのか、彼女たちはよく分かっていたはずです。
実は、先週の火曜日、わたしの実の父が、突然、心筋梗塞で亡くなってしまいました。
一人で生活していたのですが、いつも父の近くで気にかけてくれていた友人が、倒れてまもない父を見つけてくださって、救急車で病院にはこばれましたけれども、わたしに連絡があったときには、すでに病院で死亡が確認されたあとでした。
病院に駆け付け、父と対面したとき、心から救われたのは、父の顔が、苦しんでいるような顔ではなく、おだやかであったことでした。
親しい人を亡くした方は、きっとおわかりになると思います。ご遺体の顔の表情が、残された遺族にとって、とても大切なことを。苦しみの表情だったり、口が開いたままだったりする姿を、見なければならないとしたら、どれほど心が痛むことでしょうか。
しかも、愛する人が、血だらけのまま、苦しみにゆがんだ表情をしているとしたら、せめて、血をぬぐい、顔を綺麗にし、安らかな顔にしてあげたいと願うであろうことは、当然であったに違いない。
主イエスの墓にやってきた女性たちの気持ちが、いたいほどわかる。
愛する方が、犯罪人のように苦しめられ、死に、投げ込またままの墓に、
女性たちは、どうしても行かないわけには行かなかったわけがわかる。
愛する方の顔を、せめて、安らかな顔にしなければ、自分の心の痛みが、悲しみが、どうにもならない。心が痛くて痛くて仕方がない。その思いが、彼女たちを墓へと向かわせたにちがいない。
ところが、墓にイエス様の遺体はなかったのです。彼女たちは途方に暮れました。
せめて、自分たちの手で、イエス様の体をきれいにさせていただきたかった。
あのイエス様の面影を、あの元気な時のイエスさまのお顔をみて、慰めを得たい。
でも、遺体はどこを探してもない。ない。ない。
確かにここに、寝かせた現場を見ていたのに、そこにない。
途方に暮れる女性たちに、輝く衣を着た二人の人が現れ、いいました。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。
まだ、ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」
この二人の、神の使いが告げた、復活宣言を聞く。
ぐちゃぐちゃとした心のままで、心の痛み、失敗、罪、悲しみ、苦しみを抱えたまま、
日曜日の朝、この場所に集ってきて、
一方的に天から響いてくる、この「復活宣言」を・・・
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と響く、天からの声を・・・
なぜ、いつまでも、過去の悲しみにとどまり、心の痛みと苦しみを抱えて、遺体を捜しているのかと響く、声を・・・
あの方は、死から起き上がったのだ。復活させられたのだ。
悲しみと失望、不安と恐れ、そういう、ぐちゃぐちゃな心のままで、
この天から響く復活宣言を聞く。それがわたしたちのイースター。
わたしたちは、復活した主イエスを目で見たので、復活を信じているのではないのです。
この女性たちもそうでした。
天使の復活宣言を聞き、そして、あの愛する方が、主イエスが、
ご自分はやがて十字架につけられ、三日目に復活することになっていると、言っておられた、その言葉を思い起こし、
この、主イエスの言葉の、この約束にたって、この女性たちも、そして、わたしたちも、
イエスさまは今も生きておられると、信じる者へと、神は招いてくださったのです。
ところが最初、ユダを除いた11人の弟子たちに、このことを伝えたところ、弟子たちは、これを「たわごと」だと思い、受け入れませんでした。
わたしたちも、彼らのことを笑えません。主イエスは、死人の中から復活した、信じなさいと、招かれたからといって、「ああそうですか、それはよかった。ハッピーイースター」と、簡単に信じられるものではない。
なにを「たわごと」をいっているのかと、思うのが普通なのです。わたしたちもそうであるはずです。そんなことが起こるわけがない、たわごとだと思っても当然。
しかも、よみがえったイエスさまの姿を、見たわけではないのです。
しかし、今日の箇所の最後で、ペトロが立ち上がって墓に走ったと書いてあります。彼は確かめに行ったのです。そして墓の中をのぞくと亜麻布しかなかった。
この出来事に驚きつつ、ペトロは家に帰ります。
なぜ、ペトロは墓に走ったのだろうか。
もし、ペトロが墓に入った時、そこに主イエスの遺体があったとしたら、彼はどうしたのだろうか。
血だらけで、苦しみの表情のままの、イエス様の体があったなら、
ペトロはどういう思いになったのだろうか。
そもそも、イエスさまを裏切って逃げた男の弟子たちは、なんであのとき、逃げてしまったのかと、罪悪感を感じていはたずです。
主イエスと3年も一緒に生き、歩み、心からしたい、イエスのためなら死んでもいいとまで、愛していた弟子たちなのです。
なのに、最後の最後に、自分たちは逃げてしまった。見捨ててしまった。
さらにペトロは、大祭司の庭で、問い詰められた時、三度も、あの男など知らないと、言ってしまった。
この自分たちの過去を、罪を、まだ引きずっていたに違いないのです。やり直しの出来ない過去の過ち。罪。
あの方を見殺しにしてしまった、心の痛み、悲しみに、苦しんでいたはずなのです。
身近な人を亡くした人は、そういう心の痛みを知っているはず。
「あのとき、ああしておけば、死ななかったんじゃないか。」「こうしておけば、助かったんじゃないか。」「なぜ、自分が生き残って、あの人が死んでしまったのか」「こんな別れが来ると知っていたら、一言、ありがとうと言っておけばよかった。愛している、赦してほしい、と言っておけばよかった。」
そんな心の痛みを、もう二度とやり直すこの出来ない、取り返すことの出来ない、過去の後悔を、ずっと抱えて生きてしまうものなのです。
主イエスの弟子たちこそ、そうであったはずなのです。自分たちが逃げたあと、イエスさまは、鞭打たれ、罵倒され、苦しみのうちに、大声を上げて、十字架の上で死んだのだから。
そのイエスさまのことを、そばで見守ることさえ、弟子たちはしなかったのだから。
ただ自分のことで精一杯で、逃げ隠れていたのだから。
もしペトロが、墓の中で、イエス様の遺体を見つけてしまったなら、彼は、自分の罪に、押しつぶされたのではないか。
そして、ユダのように、自分がしてしまったことに、罪に、押しつぶされ、生きていけなかったのではないか。
しかし、墓には、主イエスの遺体は、なかったのです。
主イエスの遺体はないのです。なぜなら、天使がいったように、主イエスは生きておられるのだから。
天使は言いました。
「なぜ、生きておられる方を、死者の中に捜すのか」と。
神が、死から起き上がらせた方を、なぜ探すのかと。
あなたのその罪を背負い、死んだイエスは、
神が復活させ、あなたの罪を、すべて赦されたのだと。
なぜ、赦されていることを信じられずに、死者の中にイエスを捜すのか、と。
過去の悲しみの中に、痛みの中に、罪の中に、イエスを捜すのか、と。
今日、わたしたちひとりひとりも、このイースターの日曜日の朝、
この場所に、主イエスに会うために集まってきました。
それは、ここに主イエスのお体があると、思ってきたわけではありません。
死からよみがえり、今も生きて、わたしたちひとりひとりに、語りかけておられる、復活の主イエスにお会いするために、きたのです。
主イエスにお会いして、主イエスの言葉、神の愛の言葉に、生かされたくて、
わたしたちは毎週日曜日の朝、ここに集まってくるのです。
もし、そうでないならば、
主イエスが、死んだまま、復活などなかったのだとすれば、
いったい私たちは、この場所に何をしに来ているのでしょう。
主イエスの、遺体を探しに来たのでしょうか。マグダラのマリアや、女性たちのように。
自分の手で香料と香油を準備して、自分の心を慰めたくて、主イエスの遺体を探しに、わたしたちは、ここに来たのでしょうか。
それとも、自分が過去におかしてしまった罪を、失敗を、未だに引きずって、
自分の罪が、神によってすでに赦されていることに気がつかないまま、分からないまま、
死者の中に、イエスを探しに、ここに走って来たのでしょうか。あのペトロのように。
もうそうならば、この天からの宣言を、どうか、聞きとっていただきたいのです。
「なぜ、生きておられる方を、死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」
あのお方は生きておられます。
ペトロが裏切ってしまったあの時、彼を憐れみの目で見つめてくださった、あの方は生きておられる。
十字架のうえで、すべての人々のために、「父よ彼らをおゆるしください」と祈られた、あの方は、
「今日、一緒にパラダイスにいる」といわれた、あの方は、
主イエスは、
復活し、今、ここに生きておられる。
わたしたちは、神に赦されているのです。愛されているのです。
だから大丈夫。
わたしたちは自分のことも、だれのことも、責めなくていい。
後ろを振り向かえって、死者の中に、イエスを探しつづけなくていいのです。
今すでに、神に赦され、愛されている、人として
今、生きておられる主イエスとともに、
前に向かって、勇気をもって歩みはじめていくのです。