「顔を会わせる喜び」(花小金井キリスト教会夕礼拝2017年4月23日)

shuichifujii2017-04-25

ローマ1章8節〜15節

朝の教会学校と同じ聖書箇所から、夕礼拝もみ言葉に聴いています。
ローマの手紙をしばらく読み進めていきますけれども、今日はその一番最初の部分です。

教会学校では1節から読みましたけれども、夕礼拝では8節からにしました。
この手紙を書いた使徒パウロの気持ちに注目してみたいと思ったからです。

パウロという人は、ことあるごとに祈る人だったことは、彼の手紙を読むとすぐにわかります。手紙のなかで、信仰の教えを書いていたと思ったら、いつの間にかお祈りになっていたりすることがよくあります。

彼が当時の世界を駆け巡って伝道し、教会を立てていったその原動力に、彼の祈りがあったでしょう。

それは自分自身の為に祈るということよりもむしろ、今日の箇所にあったように、クリスチャンの仲間を覚えて、彼はよく祈る人だったということです。

9節には、「祈る時には、いつもあなた方のことを思い起こし」と書いてありますね。

パウロはまだ、このローマの教会には行ったことがないのです。でも、ローマの町に教会が出来て、そこでクリスチャンたちが集会をしていると聞いて、ぜひパウロは、彼らに会いたい。彼らの所に行きたいと願ったわけです。

それは別に、昔からの知り合いだから会いたいとか、いろいろ世話になったから会いに行きたいという、そういう話ではないでしょう。エルサレムの教会への献金を集めたいという理由もあったと言われますけれども、わたしはそういうこと以前に、単純に主イエスを信じる人々、同じ神を信じる人に会いたいのだと、単純かつ純粋な心だったのだと、思う。

それは、こうして教会に集っている現代のわたしたちにも、必要な感性じゃないかと、わたしは思っているのです。


 11節でパウロが、「あなたがたに会いたい」という、この「会いたい」という言葉は、ギリシャ語でも英語でもこれは、「あなたが見たい」という言葉です。英語は I want to see you といいますね。わたしは、あなたが見たいといえば、会いたいということであるわけであります。つまり、パウロは、あなた方の顔を見たいと言っているわけであります。

 相手の顔を見たいと思う。この関係は、これは愛の関係だろうと思います。

 わたしの長男が、まだ2歳の男の子のとき、好きな女の子が出来たのです。その子の名前は、チーチャンといいました。当時、チーチャンに会いたいという意味で、彼が、チーチャンを見たいと、言った言葉がとても印象的で、その後、何度かメッセージの例話で使いました。

なるほど、その人が好きだというのは、具体的には、その人を見たいと思うことなんだなと、気づかされたわけです。

相手の顔を見たいと思う。顔と顔を合わせたいと思う。それは、そこに愛があるから、ということなら、相手の顔を見たくないとおもうということは、互いの間に、愛が足りない、という話にもなるでしょう。


 わたしが8年半いた酒田での、家の教会は、家族と地元の人数人が集う教会でしたから、まさに教会に来て礼拝をするということは、神様を信じているお互いが、互いに顔を合わせに行くということでもあるのだ、ということがリアルに感じられる現場だったわけです。

 小さな家の礼拝では、互いに顔を合わせないわけにはいかないわけですから、もしそういう人間関係になってしまったら、礼拝をしていてもつらいでしょう。

 一般的な教会は、家の教会ではなくて、わたしたちの礼拝堂のように、椅子がみんな前に向かって向いていますから、みんな牧師に向かって向き合っているわけですね。お互いに向き合うことはない。だから、あの人、この人と顔を合わせないでも済んでしまうわけです。

でも、最近は、三方向、四方向から、講壇を囲むような椅子の配置の教会もあるそうです。そういう配置だと、お互いの顔が見えてしまうので、みたくない顔を見なければならないから、いやだという方もおられるらしい。
 でも、それではここに集まっている意味があるのだろうかと、私はつくづく思う。

 顔を会わせたくないというなら、最近は、インターネットで、礼拝の風景をビデオで流して、礼拝出来る教会もあるとききますけれども、それで礼拝になるのだろうか。

 病気や寝たきりになって、家から出られなくなった場合には、そういう礼拝もいいとおもいますけれども、顔を合わせたくないから、家に閉じこもって、ビデオで牧師の話だけを聞いて礼拝をする、というのは、

パウロなら、それはちがうんじゃないかと、いうでしょう。むしろ、同じ神を信じるあなたの顔を見たい。顔と顔を合わせて礼拝したいのだと、いうでしょう。

キリスト教の信仰というものは、神と人、人と人との愛の交わりの信仰なのですから。わたしではなく、わたしたち。わたしの神ではなく、われらの神への信仰なのですから、自分一人だけでは成り立たないのです。

 とにかくパウロは、ローマの人々に、是非、会いたいのだと言うのです。そしてそれは、単なる社交辞令や、口先だけのきれい事ではないのだ、本当に切に願っている。それは神さまが証してくださるとさえ、9節で言っています。

 神を証人にさえ出来る。それは、パウロが本当に、本当に、ローマの人々を覚え、祈っていたのだと、思う。

 この手紙の最後でパウロは、沢山の人々の名前を挙げて、よろしく伝えてほしいと記しています。彼はローマの教会の一人一人を、なにかの理由で知っていたのでしょう。

 私たちの教会から、様々な教会へと遣わされた方がいますけれども、最近なら、Tさんが、福岡の神学校に旅立っていき、教会も、現地の教会に出席しているわけです。水曜日のお祈り会では、祈りの課題に彼の名前も記されています。わたしたちは、今は遠くにいるTさんのことを、そうやって、祈りのたびごとに思い起こして、祈っているわけです。パウロのように。

 パウロが彼らに会いたいと切に願ったその思いは、まさに、そのような積み重ねられてきた、日々の祈りがあったからでしょう。

 ある人のことを本当に覚え、熱心に祈りつづけているならば、その人と、顔を合わせたくないとは思わないはず。

祈ることは、愛することなのだから。ある人を覚えて、とりなしの祈るということは、その人のことを、愛する、具体的な行為なのだから、愛して祈るなら、顔も見たくなるわけです。

 ですから、逆説的ですけれども、もし、顔を合わせたくないな、という関係になってしまったとしたら、むしろその人の為に具体的に名前をあげて、祝福を祈ることで、顔を合わせたくないなという気持ちが和らいで、むしろ顔を合わせたいという、そういう心を神様が与えてくださるかもしれない。

パウロはこのローマの手紙の12章の14節以下で、こういうことを言うのです。

「あなたがたを迫害する者の為に祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」

 迫害する人の顔など見たくないに決まっていますけれども、でも、その人のために、祈ることはできるのではないですか。

 夫婦が、お互いに相手のためにたとえ一言でも、祝福を祈るなら、顔も見たくないという喧嘩をしたとしても、大丈夫。相手の為に、祝福を祈ることさえできるなら、大丈夫。わたしはそう信じています。

教会の人間関係も、牧師や信徒の関係も、そこに見えざる祈りがあるなら、互いの為に、神の祝福を祈り合う関係があるなら、神の祝福のうちに、様々な困難も、一緒に乗り越えていける。

顔を見たくないということが起こるのは、そこにいたるまで、祈りがなくなっているからではないですか。

互いに祈り合うということこそ、互いの関係を、神様の愛のうちに結び付けてくれる力。

祈ることとは、愛することなのです。

 パウロは神さまを証人にさえして、いのるときにはいつもあなた方のことを思い起こして祈っているといい、そして祈っているからこそ、パウロは、どうにかして会いたいと願います。

 では、そうまでして彼らにあって、そしてパウロは何がしたいのでしょうか?。

パウロは、11節12節で、こういいます。
1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。
1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。

 そういいます。

 霊の賜物を分け与えるといっても、もちろんパウロがなにか自分の特別な力を分け与えましょう、といっているのではないだろうと思われます。神様の賜物ですから、お互いそれぞれ神さまから頂いているわけでありますから、ただ、そのお互いの賜物を分かち合いたい。お互いの信仰によって、励まし合いたいということであろうと思います。パウロは決して押しつけがましく、上から物をいっているのではなく、謙遜に、わたしも励ましを受けたい。互いに励ましをいただきたいと、そう語っているわけであります。


 ナチスへの抵抗運動の末に、捕えられ処刑されたボンフェファー牧師は、「交わりの生活」という本の中で、こういうことを言っています。

 「キリスト者の兄弟の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の国のめぐみの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないことを、とかく忘れがちである。他のキリスト者との交わりが許されたものは、心の底から神の恵みを褒め称え、ひざまずいて神に感謝すべきである。」

 そういいました。迫害の中を生き、死んでいったボンフェッファーには、キリスト者の交わりとは、まさに、神の大いなる賜物、めぐみであることがしみじみと感じられたのでありましょう。顔と顔を会わせて、交わることができる、そのことそのものが、まさに神の恵み、神の賜物。

 最後に、パウロは、ローマのクリスチャンと、顔と顔を会わせて励まし合うことで、福音を告げ知らせたいのだと、15節でそう語っています。

 しかし、ローマの教会の人々は、当たり前のことですが、もうすでに福音を聞き、信じているからクリスチャンでありますのに、なお、パウロは、あなた方に福音を告げ知らせたいのだと言うのであります。これは知識として、福音を伝えたいと言っているのではないのでしょう。

知識なら、手紙で伝えれば十分なのだから。ローマの手紙はまさにそのために書かれているわけだから。

しかし、こうして手紙を書きながら、なお、パウロは、ローマの教会の人々に会いたい、顔を会わせたいというのです。

それは、顔と顔を合わせなければ伝えることのできないものが、福音のなかにあるから。

福音に生き、福音に生かされている、存在そのものをとおしてでしか、伝えられない福音の喜びがあるから。

苦難の中で、なおキリストを信じ、喜んで生きているパウロの存在を通して、また、ローマの様々な人々が、体験した、神の恵みを、その証を、顔と顔を合わせて、伝えあうことでしか、伝わらない、福音の恵みがあるからではないですか。


 そうであるから、わたしたちはこの夕べも、この場所に体を運んできたのです。この場所に体を運ばなければ、そして、キリストを信じ、生かされている一人一人の顔を見て、一緒に祈り、心を合わせて、賛美の歌を歌わなければ、どうしても味わうことのできない、霊的な喜びが、福音の喜びがあるから。


 今日は、昼の礼拝に、2人の人が初めて来てくださいました。お二人とも、お近くに住んでおられる方です。おひとりの方は、ポストに入っていた教会の案内のハガキを見て、来てくださいました。

実は、ハガキに短いメッセージを書いたものを、近隣にちょこちょこ配っているのです。

ハガキに書かれた言葉を読んで、教会に足を運んでくださる。わたしたちに会いに来てくださる。私たちの間におられる、復活の主イエスに会いたいと、来てくださる。

ハガキだけでは伝わらない。言葉だけでは伝わらない、何かがここにはあるから。

信じて集まる人々の中に、目に見えなくても、たしかにある宝が、

人を活かし、新しくする、福音の命が、確かにあるから。

今日、この夕べ、この場所で共に、その福音の命に触れたわたしたちは、

この喜びに押し出されて、ここから家に帰ります。

また、新しく神様が与えてくださる、顔と顔を合わせて礼拝する、出会いにむけて、

ここから、新しい一週間を出発させていきましょう。