夕礼拝メッセージ「神とその恵みに言葉に委ねます」(2022年5月8日 花小金井キリスト教会)

夕礼拝220508

使徒言行録20章25節~38節

「神とその恵みに言葉に委ねます」

 

 

 会堂におられる方。ZOOMや、後にビデオで、礼拝を捧げる方。

 こんばんは。今日も一緒に礼拝を捧げられる恵みに感謝しています。

 

さて、わたしたちの教会は、週に3つの「コンテンツ」を配信しているのです。

この「夕礼拝」もその一つですが、朝の「主日礼拝」、そして「教会学校の学び」のビデオが毎週配信されています。

おそらくこのコロナ危機以降、あらゆる教会が「礼拝の配信」を始めたとおもいますが、「聖書の学び」を毎週配信している教会は、まだ少ないようです。

 

この「教会学校」を、わたしたちバプテスト教会は、とても大切にしているのですね。

子どもたちだけではなく、大人までの「教会学校」を毎週行っている教派は、キリスト教の教派の中では、少数派ではないかと思っています。

わたしたちの教会が「教会学校」を大切にしているのは、教会に集う一人一人が、自分で「聖書」を読み解いていく、成熟したクリスチャンとして生きることを大切に考えているからです。

加えて、独りよがりの「聖書」の読み方に陥らないように、一緒に対話しながら「聖書」を学ぶことを、大切にしています。

コロナ危機以降。一緒に集まることが難しくなりましたので、聖書の学びの配信を始めましたが、ご自宅で見る方もいますし、お祈り会の小グループで、一緒に観て、分かち合うことで、理解を深めています。

 

そもそも「聖書」は、旧約聖書新約聖書あわせて66巻という、膨大な文書ですから、週に一度の「主日礼拝」や「夕礼拝」において語られる、30分くらいのお話では、そのほんの一部しか、取り上げることができません。

「木を見て森を見ず」というたとえのように、「聖書」全体が「森」なら、礼拝メッセージは、森の中の一本の「木」です。

 

その「木」がそこにある意味を知るには、「森」全体を見通しておく必要があるわけですね。

その「森」を見る現場が、「教会学校」なのです。

今月から夕礼拝のメッセージの箇所は、「教会学校」で学ぶ箇所と同じ個所にしています。

ですから、礼拝のメッセージで「木」をじっくり見つめると同時に、教会のユーチューブにある「聖書の学び」を通して、その「木」が植えられている「森」の様子も、ぜひ知っていただくことを、お勧めします。

 

 さて前置きが長くなりました。

 

今日、朗読された聖書の箇所は、使徒たちによって「福音」が世界に広がっていく様子が記された「使徒言行録」の後半となります。

使徒言行録」は前半が、エルサレムから始まった教会の様子。そして中盤から現れてきた使徒パウロによる、異邦人伝道の旅。

そして後半は、伝道の旅を終えたパウロが、エルサレムで捕らえられ、ローマへと護送されていく話となります。

 

朗読された箇所は、エフェソの教会の長老たちに、別れのメッセージを語っている箇所でした。

このエフェソの教会はパウロの伝道によって生まれた教会です。

31節でパウロはこう言っています。

 

「・・・わたしが三年間、あなたがた一人一人に昼も夜も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」

 

パウロは、このエフェソという場所で、昼も夜も、神の言葉を、一人一人に、しかも涙を流して、教え続けてきたというのです。

 

何という情熱でしょうか?

そうまでして、「神の言葉は教えられなければならない」ことに、あらためて気が付かされています。

おそらくパウロの長い伝道生活のなかで、クリスチャンが「神の言葉を学ぶ」ことの重要性を、痛感させられてきたからかもしれません。

 

教会に対する迫害の問題。そして何よりも教会内部の問題・・・分派、分裂、差別、不道徳、律法主義、聖霊の賜物、教会に対する理解の不一致など、さまざまな問題を経験してきたパウロ

 

そのような日々引き起こされる、教会のさまざまな問題。

その問題は、その場しのぎの「人の知恵」では解決できず、「聖書」の言葉から「神の知恵」を読み解き、対処しなければならないことを、パウロはだれよりも、経験してきた人なのです。

 

もしパウロが現代に生きていたら、「週に一度、たった30分の聖書のお話で、教会は大丈夫なのか?」と、心配したことでしょう。

パウロが、「涙を流して教え」なければいられないほど、外から、内からやってくる問題を乗り越えるためには、「聖書の教え」を知る必要がありました。

 

それは当時の教会だけの話でしょうか?

 

確かに、当時異邦人からクリスチャンになった人々は、「旧約聖書」の内容を知らなかったことでしょう。

ですから、パウロはまず、丁寧に「旧約聖書」の内容を教える必要があったはずです。

旧約聖書」を学ぶことで、イエスが約束されたメシア(キリスト)であることを知り、信仰の確信が、増し加えられるからです。

 それは、日本人からクリスチャンになったわたしたちも、同じではないかと思います。

 

 最初は「イエス様をただ信じる」ところから、クリスチャン生活が始まりますが、

旧約聖書」「新約聖書」を生涯学び続けることを通して、神さまの救いのご計画、愛の偉大さを知りつづけ、なにが神さまの御心なのか、神さまの前に、どのように生きていったらいいのか、その時々に、心の「目をさます」ような経験をするからです。

 

 

 さて、今日の聖書の箇所に戻ります。

先ほどは25節から読んで頂きました。実は「教会学校」ではもう少し前の箇所から学ぶことになっていたのですが、長い箇所なので、朗読は25節からにしました。

 

この場面は、先ほども言いましたように、使徒パウロとエフェソの教会の長老たちとの分かれの場面です。

「長老」とは、教会の指導者、リーダーのことです。

 

パウロはこの後、エルサレムにある教会へ向かうつもりなのです。

そしてパウロには、エルサレムに行けば最後、もうエフェソには帰ってくることは出来ないという予感がありました。

 

少し前の箇所、22節からパウロはこう告げています。

 

「そして今、わたしは、「霊」に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何もわかりません。ただ投獄と苦難とがわたしに待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証するという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と。

 

 

そして、今日朗読された、「あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしにはわかっています」という、25節からの言葉に続くのです。

パウロは、自分が福音を語り、教え、育ててきた、エフェソの教会との別れの時を自覚しています。

 

別れの時には、だれであれ、重要なことを伝えるものです。

 

最初にパウロは言います。「神のご計画をすべて、ひるむことなくあなた方に伝えた」のだと。

逆をいえば、もうパウロが教えることはない。あとは聞いた教えを、あなたたちも教えていってほしいと言うことでしょう。

 

  • 長老(リーダー)へ託していくパウロ

 

またパウロは言います。

「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」と。

長老は、人々を支配するためではなく、「神の教会の世話」をさせるために、聖霊によって立てられていることも、パウロは確認しています。

そのように、「自分自身」と、「教会全体」のことの両方に気を配り、世話をする人々。そういう「成熟」した人々が教会には必要です。

 

人間の成長にたとえるなら、信仰生活の最初は、生まれたばかりの「赤ちゃん」に似ています。クリスチャンになったばかりは、教会の仲間から、一方的な愛を受け取りつつ、育っていきます。

やがて自分で自分のことができる、「子ども」時期、「青年」時期を経て、やがて自分のことだけではなく、ほかの人のことにも配慮し、助ける「大人」へと成熟していくような、成長の段階がクリスチャンにもあります。

 

「大人」へと成熟していくためには、「子ども」「青年」時代に、沢山の学びを必要とするように、クリスチャンの信仰生活にも、「聖書の学び」の時が必要です。

聖書のことを知らないままに、自分の人生経験だけで、教会の「長老」の働きは、できません。

 

パウロは、今までの伝道生活の経験を踏まえて、この後、エフェソの教会にどのような問題が起こってくるのか、予測してこう告げます。

 

「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなた方のところへ入り込んできて、群れを荒らすことが、わたしにはわかっています。」

 

そして、

 

「また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとするものが現れます」と。

 

前半は、教会の外側から、教会を混乱に陥れる、働きです。そして後半は、教会の内部から生まれてくる、問題です。

 

外側の問題で考えられるのは、まず「迫害」です。また、パウロが告げた「福音」を否定する「違った福音」を持ち込む、偽の教師の存在も考えられます。

 

かつて、ガラテヤの教会では、「イエスを信じるだけではなく、律法を行わなければ救われない」という教えが、持ち込まれてしまい、福音を信じる喜びという、神の教会らしさを見失うということが起こりました。

その状態に陥ったガラテヤの教会に、パウロは手紙を書き、聖書を教えることで、問題を解決しようとしたのです。

 

また、教会の内部から発生した問題に悩まされていた、コリントの教会にも、パウロは何度も手紙を書きました。この内部問題も、神の言葉を教えることで、パウロは問題解決へと導こうとしたのでした。

 

しかし今、エルサレムに向かおうとしているパウロは、今後そういう「教える」という形で、エフェソの教会と関わることは、もはやできないと思っています。

 

だからパウロは言うのです。

 

「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に昼も夜も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(31節)と。

 

もう、彼自身は、教会に教えることはできなくなる。

しかし、すでに「神のご計画のすべて」(27節)を、「ひるむことなく」、教会に伝えてきたのであるから、

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」とパウロは言い、「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」と、「恵みの言葉の力」に、すべて委ねるのです。

 

 

さて「恵みの言葉」というパウロの表現が、とても印象的です。

「恵み」とは、神が与えてくださった賜物という意味です。

つまり、神が与えてくださった「言葉」。そういう意味で、わたしたちは「恵みの言葉」としての「聖書」を手にしています。

 

この「恵みの言葉」こそが、信仰者を育て、造り上げていくのです。

 

 

 

 

 

その昔、わたしが山形の酒田で開拓伝道をさせていただいた時のことです。

開拓6年目に初めて地元の壮年の方がバプテスマを受けて教会員になりました。

そしてすぐに、私とその方とで「教会学校」を始めたのです。

妻は子どもたちの「教会学校」。そして私とその方は大人の「教会学校」です。

「聖書教育」という参考書を元に、最初はわたしがリーダーの役目をして、短くお話をして、互いに感想を言い合っていました。

しかし、そのうち「じゃあ、来週はリーダーをお願いします」と、バプテスマを受けて間もないその方に、リードをお願いしてみたのです。

今思えば、バプテスマを受けたばかりの方に、牧師に向かって、聖書のお話をしていただくというのは「無謀」な話です。でも、それによって、その方は自分から聖書を学ぶようになり、信仰者として急速に成長していかれました。

 

やがて、わたしたち牧師家族が、酒田を離れることに決まり、その方は近くの他教派の教会に、通い始めることになりました。

数年後、わたしが酒田に行った折に、その教会の牧師さんに挨拶に行きました。

その時牧師さんから、あの方が今も誠実に、教会に仕えておられますと聞き、本当にうれしかったことを思い起こしています。

 

 牧師であれ、何であれ、人間はいつかはいなくなり、教会のメンバーも、やがてすっかり、入れ替わっていくでしょう。

 もし教会のつながりが「人間関係」だけで成り立っているのならば、さまざまな問題や、人と人との別れのたびに、「教会」は分裂したり、人が離れたりを繰り返しては、やがて消えていってしまいます。

 

そうではなく、たとえ人は移り変わっても、永遠に変わることのない神さまとの関係に、一人一人がしっかりつなげられるようにと、「恵みの言葉」としての「聖書」が、わたしたちには与えられているのです。

「聖書」があるからこそ、2000年もの時を越えて、今日も「受けるよりは与える方が幸いである」といわれた、イエス様の言葉に触れることができました。

 

 イエス様の姿は見えなくても、わたしたちが聞いた「恵みの言葉」が、わたしたちのなかで生きて働き、わたしたちを愛する人へと成長させてくれると信じています。

 

最後に、コリントの信徒の手紙にあるパウロの言葉で、このメッセージを終わります。

「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなた方を信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えたものです。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植えるものでも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(1コリ3:5-6)

 

お祈りしましょう。