「争いの終結」

 

 わたしたちは、一刻も早いロシアとウクライナの和平を祈り続けています。

だれもが「争い」より「平和」であることを望んでいるにもかかわらず、なぜ「戦争」は繰り返されるのでしょう。国家間の「争い」と「罪」について、キリスト者精神科医、ポール・トゥルニエは「罪意識の構造」のなかで、このように述べています。

 

 「二国間に 外交上の事件が持ち上がると その二つの国はそれぞれ恐ろしいほどの熱心さで相手国の過ちを告発する。示威行為は論理的で妥協の余地なく、すきがなく、世論は一致し、新聞報道も一致し、論証が豊富に巧妙になされる。自分の方が決定的な権利を持っているとし、協約をおかされた犠牲者の立場にあるとしている国は、その権利を反駁の余地のない法的きびしさで振り回す。しかし相手方は公平の権利に訴える。・・・・このようにして攻撃が交差し、緊張が生じていく。ひとたび戦争が始まれば、おのおのが正義の名においてそれを行う。情熱の敷居をいったん超えると、よく言われるように「銃はひとりでに発射される」

この恐ろしいまでの激烈な憤慨と相互避難は、お互いに「罪ありとされている」と意識している両者に耐えられない大きな不安を与える。社会闘争や政治闘争の古典的な形態を、「罪」という熟語で次のように言い直すことができよう。

人は自分を無罪とするために、他の者を罪に陥れてしまう、と。

みんなが汚れており、誰一人清くはなっていないのである。」(P.100)

 

トゥルニエは、国と国、そして人と人との間の「争い」がやむことなく、むしろエスカレートしていくのは「人は自分を無罪とするために、他の者を罪に陥れる」からだと言います。逆を言えば、人は自分の罪と向き合いたくないので、「正論」で他者を裁き争いつづけるのだと。

さてパウロは、イスラエルに与えられた「律法」とは、人を「正しい」人間に導く教えではなく、むしろ自らの罪に気付かせ、その罪から救うキリストへと導く「養育係」だったと告げました。「律法」ではなく、キリストの恵みこそが人を「無罪」とし、この恵みに与った人々は裁き合うことやめる。ここにおいて「争い」は終結です。