「キリストの平和」(2017年8月13日 花小金井キリスト教会 平和主日礼拝)

マタイによる福音書5章43節〜48節

 敗戦から72年目の8月がやってきました。
「敵」を殺す。「人」を殺すことが、正しいこととされ、称賛される戦争という狂気を、わたしたちは二度と繰り返したくない。

 この願いをもって、毎年8月の第二主日を、「平和主日礼拝」として、み言葉に聞き、平和を求めて祈る礼拝を捧げます。

 このメッセージの後には、バプテスト教会の仲間が言葉を紡いだ、「平和宣言」を、共に交読します。

「暴力」という力を前にするとき、「言葉」は無力に思えるでしょう。

 たしかに、人の「言葉」は、ときに無責任で、軽はずみです。政治家の失言には、うんざりさせられます。

 しかし聖書の言葉。とりわけ、主イエスの言葉は、軽はずみで、無責任な言葉ではなく、聞く人の心のなかに、深い問いかけと、救いを与える、生きた言葉、命の言葉として、

2000年以上の時を越え、数え切れないほどの迫害を越えて、消し去ることのできない言葉として、わたしたちのところにまで届いています。


「いのち」の言葉。主イエスキリストの言葉。

今日、わたしたちは、軽はずみで無責任な、人間の言葉としてではなく、

今日、ここで生きて働かれる、復活のイエスキリストの言葉を、聖霊によって、聞き取ろうとしています。

聞く者のなかで、生きて働き、平和という実を実らせる「命の言葉」。

「神の言葉」として、この朝わたしたちは、主イエスの言葉を聞きました。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と。

 主イエスの弟子たちに語り、マタイの教会、そして歴史のすべての教会、そしてここにつどう私たちへの言葉として、わたしたちは聞きます。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」

こう語られ、そしてその言葉の通りに、生き抜き、十字架のうえで、ご自分を迫害するもののために祈られた主イエス


「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」

この主イエスの言葉は、耳障りの言い理想論でも、無責任な軽口でもないのです。

この世界を救う神の子の、いのちをかけた言葉です。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」

今、この主イエスの言葉を、恐れることなく、講壇から語ることが出来る時代は、幸いです。
戦時中の教会でもし、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と語るなら、敵国のスパイと疑われて、投獄されたことでしょう。

この言葉は、実際に「敵」のいる時代には、きれい事では済まない、危険な言葉です。

主イエスの時代も、そうでした。

律法学者やファリサイ人たちは、ユダヤ教の律法を解釈して、

「隣人を愛し、敵を憎め」と教えていたようです。

神の民である、ユダヤ人にとって「隣人」とは、神の民ユダヤ人のことです。

異邦人は「隣人」ではないのです。

主イエスの時代のイスラエルは、異邦人のローマに支配され、

ユダヤ人にしてみれば、ローマは「隣人」どころか、むしろ神の民を迫害する「神の敵」であったのです。

やがて、神が救い主メシアを遣わし、「神の敵」であるローマを滅ぼし、イスラエルを復興させてくださる。

これが、当時のユダヤ人が信じていた希望。。

ですから次々に、自称メシアが現れては、ローマに対してテロをひきおこしたのです。

主イエスの弟子の中にさえ、熱心党という過激派組織にいた、シモンという男がいました。

主イエスの12人弟子も、主イエスに期待していたのは、「敵」であるローマを倒し、イスラエルを復興すること。

ユダヤのだれもが「隣人であるユダヤを愛し、敵であるローマを憎む」その時代にあって、

主イエスは言われたのです。

「あなたがたも聞いているとおり、隣人を愛し、敵を憎めと命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と

こんな言葉は、聞いたことがない。きっと主イエスの周りの人々は思ったことでしょう。

神の民であるユダヤ人でありながら、ユダヤ人の敵を愛し、迫害する者のために祈れとは、なにをいいだすのか・・・と。

かつて日本がアメリカと戦争をしていた頃。

この日本もまた、天皇を神とする神の国と教えられ、神の国を迫害する「敵」を憎み、闘い、勝利した先に、「平和」はやって来るのだと、教えられ、若者たちが戦場に送り出された、その時代。

多くのクリスチャンもまた、時代の波にのまれたのでした。
終戦まであと4ヶ月。特攻隊員として、零戦にのり、連合軍の船に突入した、林市造(はやしいちぞう)というクリスチャンの学徒兵の、母に宛てた最後の手紙に、こうありました。

「お母さん、でも私のようなものが特攻隊員となれたことを喜んで下さいね。死んでも立派な戦死だし、キリスト教によれる私たちですからね。
 でも、お母さん、やはり悲しいですね。悲しい時は泣いてください。私も悲しいから一緒に泣きましょう。そして思う存分ないたら喜びましょう。
 私は讃美歌を歌いながら、敵艦につっこみます」

ここで、あえて彼の手紙を紹介するのは、もちろん特攻を美化するためではないのです。

多くのクリスチャンもまた、苦悩しつつ時代の波に、のまれていったことを、記憶しておきたいのです。

そして、彼が突撃したであろう、アメリカの戦艦にも、母を思い、神に祈るクリスチャンが、いたかもしれないことを心に留めたい。

「隣人を愛し、敵を憎ませる」時代の、引き裂かれるような、痛み、悲しみ。苦しみ。

神の子同士が、まさに、隣人を愛するがゆえに、敵として殺し合う姿に、

だれよりも引き裂かれ、悲しんでおられるのは、実は、天の父。天の親ではないのかと。


そもそも「敵」とは、なんなのでしょう。

 なぜ、見ず知らずの若者たちが、家族を愛する普通のお父さんたちが、お互いに、殺し合うほどの「敵」にならなければならないのでしょうか。

「敵」など、本当はいなかったのではないでしょうか。幻想ではないでしょうか。

 だれかが勝手に「敵」を造りだし、「敵」と思い込まされてきたのではないですか。

「隣人を愛し、敵を憎め」と。

仲間を愛し、家族を愛するがゆえに、「敵」が生まれ、「敵」と思い込まされ、戦争は始まっていくのです。


 しかし、戦争が終わってみれば、あれほどにくかった「敵」とは、自分たちと同じように、恋をする若者であり、家庭をあいするパパだったことに気付く。

「敵」など本当はいなかったのではないか。「敵」と思わされ、戦わされていただけなのではないか。


 日本と、沖縄戦を闘ったアメリカ兵の中から、後に宣教師として日本にやってきて、日本人を愛し、神の愛を伝え、沢山の教会が出来ました。先週天に召された、この花小金井教会の初代牧師、アスキュー先生もその一人です。

本当は「敵」などではなかった。「敵」だと思い込まされていた。

それは、天の親の視点から見れば、明らかです。

だれもが神に愛され、この地上に生まれてくる命なのだから。

最近、教会に来て下さるお母さんが、赤ちゃんを連れてきてくださるでしょう。

みんな、赤ちゃんをみて、その無力さ、愛らしさに、だれもが無条件で笑顔になるのです。

国籍がなんであろうと、肌の色がどうあろうと、赤ちゃんに「敵」も「味方」もあるわけがない。

この地上の人間は、すべて赤ちゃんから出発するのです。

無条件に愛され、受け入れられるいのちとして、人はこの地上に、神の作品として、生まれてくる。


主イエスは、わたしたちを、この原点に立ち戻らせる言葉を、語ります。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」のだと。

 かけがえのないいのちとして、無条件に愛されるいのちとして、

悪人とか善人とか、正しいとか正しくないという、行いとは無関係に、

愛されるいのちとして、人はこの地上に生まれてくる。

そのいのちを、「敵」と「味方」に引き裂き、滅ぼさずにはいられなくさせるのは、人間が抱えてしまった、罪にほかならない。

仲間を、家族を、自分を愛するからこそ、どうしても「敵」が生まれ、憎しみが生まれてしまう。

愛と憎しみの、ジレンマ。限界ある人間が抱え込んでしまった、罪のジレンマの、悲しみ、痛み、苦しみ。、

そのどうしても「敵」をつくり、争い、関係が引き裂かれてしまう、

人には、どうにも解決できない、罪の悲しみを、痛み、苦しみを、

主イエスはその身に味わい、ご自分が十字架の上で、人々の罵声を、憎しみを受け、突き刺されるなかで、すべて味わいつくし、

そして、こう祈ったのでした。

「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているの分からないのです」と



「敵を愛し、迫害する者のために祈られた」主イエス

「隣人を愛し、敵を憎む」ことから、どうしても逃れられない、人の罪の現実のただなかで、

ただお一人、その罪にあらがって、

「敵を愛し、迫害する者のために祈る」る「平和への道筋」を、示され、生き抜いた、主イエス


敵を愛し、赦し、大切にしてしまうなら、もはや、その人は敵ではなくなってしまうでしょう。


いや、「敵」などそもそもいないのだ。だれもが、神に愛され、神がこの地上に生んだ尊い神の子ではないか。

その神の子たちを引き裂いて、「敵」を作り出す、どうしようもない、人の罪に気づかされ、

実は、「敵」を作っていたのは、他でもない、自分自身ではないかと、罪に悲しむなら、

わたしたちには、希望があるのです。

「敵を憎まずにはおれない」、罪に勝利してくださった、キリストがおられるから。

イエス・キリストの十字架が、私たちを罪から解放し、救ってくださるから。

ただキリストを信じ、キリストの言葉を信じ、キリストの言葉を心に豊かに宿せばいいのです

主イエスは、天の父が、完全であるように、あなたがも完全でありなさいと言われます。


正しい者も、正しくないものもなく、敵も味方もなく、全ての命を愛される、完全な神の愛。

そして、その愛で愛されている、神の子であるわたしたちも、愛において完全なものとなりなさいと、わたしは、そう言う意味で、受け取っています。

「愛において完全なものとなる」

悪人とか、善人とか、正しい者とか、正しくない者とか、

敵とか味方とか、

誰かが勝手に、人と人の間に、線を引いて、こっちは愛するけれども、この線から向こうは、愛さない。「敵」だという、線引きを止める。

肌の色が違おうが、言葉が違おうが、行いがどうであろうが、神の愛は人と人の間に線を引かない愛。

それが、キリストの十字架によって示された神の愛だったのだと、使徒パウロは語ります。


かつて、「隣人を愛し、敵を憎む」ことに熱心なユダヤ人であった、パウロ。その当時はサウロと呼ばれていました。

律法に対する熱心さゆえに、「隣人を愛し、敵を憎む」その熱心さゆえに、クリスチャンを、ユダヤ人の敵とみなして、迫害していたサウロ。

しかし、そのサウロはある時、復活のイエス・キリストと出会い、迫害者から、キリストの証し人。伝道者パウロへと、180度変えられてしまうのです。

「隣人を愛し、敵を憎んでいた」サウロを、「敵を愛し、迫害する者の為に祈る」パウロへと変えたのは、なんだったのでしょう。

復活のキリスト。生きておられる、「キリストの言葉」との出会い以外に、ありえません。

後に、パウロの宣教によって生まれた、ガラテヤの教会、エフェソの教会にパウロはこう語っています。

ガラテヤ3章26節〜

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と
(ガラテヤ3:26〜28)


また、エフェソの教会には、パウロはこう語っています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」たのだと。


かつて、「隣人を愛し、敵を憎んでいた」パウロは言うのです。

あの、お互いを隔てていた壁は、「キリスト」において、取り壊されたのだと。


ユダヤ人と異邦人の間の敵意も、奴隷と、奴隷の主人の間の敵意も、男と女の間の敵意も、

互いを敵対させてしまう「罪の壁」は、キリストの十字架において、「すでに」取り除かれている。

ゆえに、パウロはローマの教会に向けて、こんなことさえ語ったのです。

「あなたがたを迫害する者の為に祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」と。(ローマ8:14)


「隣人を愛し、敵を憎む」その律法に、だれよりも熱心に生きていたサウロを、「敵を愛し、迫害する者の為に祈る」パウロに変えたのは、

彼の努力などでは決してなく、

すでに、互いの間にある、「敵意の壁」を打ち壊された、

復活のキリストとの出会いに、よるのです。

そして、今、同じ復活のキリストが、


すでに私たちの間の壁を、壊してくださっている、

今も生きておられるキリストの言葉を、聞きつづけ、

生きて働く、キリストの言葉に強められ、励まされ、問われ、導かれて、

完全な愛。隔てのない愛を、神がわたしたちのなかに、実らせてくださる。

キリストに出会ったサウロが、パウロにかわったように、

わたしたちも、キリストの言葉によって、きっと変えられていく。

だから、自分に失望してしまわず、

あきらめ、くじけそうになっても、勇気を失いそうなときも、

いや、そうであるときこそ、「キリストの言葉」を聞きつづけていきたい。

わたしたちの力でも、努力でもなく、

ただ私たちの中に、今も生きておられるキリストが、

敵も味方もない、分け隔てのない愛を、完全な神の愛を、

この世界にさらに、広げてくださると信じて、

キリストの言葉を聞き続けていきたい。


約50年前。アメリカの黒人の人権のために、非暴力を貫いて抵抗したキング牧師は、白人から恨まれ、自宅に爆弾を投げ込まれながらも、

仲間たちに暴力の報復を思いとどまらせ、、なお「敵を愛せよ」とキリストの言葉を説きました。

 しかしそれはキングが強かったからではありません。

 彼は自伝の中で、その時の彼の心の内を、赤裸々(せきらら)にこう語っています。

 ・・・私は祈りに祈った。その夜私は声をあげて祈った。私は言った。主よ私はここで正しいことをしようとしています。私たちが掲げている主張は正しいと考えています。しかし主よ、私は告白しなければなりません。私は今弱いのです。くじけそうです。勇気を失いつつあります。

 キングも不安と恐れのゆえに、神に祈るしかなかった。

彼のことを、迫害をも恐れず、敵を愛した、勇気ある人と、まつりあげてしまったら、そこに隠れている本質を、見失ってしまう。

キングも、そしておそらくパウロも、迫害をうける中で、心弱り、くじけそうになり、勇気を失いそうになったことは、何度もあったはず。

もうだめだ、逃げ出したいと、おもったはず。

わたしたちと、同じ弱い人間だったはず。

そうであったからこそ、神に祈りに祈った。祈らないではいられなかった、その祈りのなかで、キングは、キリストの言葉を聞いた。

「私はあなたとともにいる。世の終わりまでともにいる。」

キングは、そう「キリストの言葉」を、祈りの中で聞いたと、告白します。

その「キリストの言葉」が、彼を支え、彼の使命に、立たせ続けたのでした。


今も生きておられる、キリストの言葉

敵意の壁を打ち壊し、敵も味方もなく、共に生きる力を与える、

キリストの言葉。


キングは「わたしには夢がある」という、有名な演説のなかで、


「かつての奴隷の子孫たちと、かつての奴隷所有者の子孫たちが、兄弟の間柄として、同じテーブルにつく」夢があるのだと、語りました。

 敵と味方。白人と黒人。ユダヤ人と異邦人。そうやって、お互いの間に、敵意を生み出す、壁がなくなり、

だれもが「神に愛されている子」だったのだと、気づき、

共に同じテーブルを囲んで喜び合える、世界がくる。

それがキングの夢。

そしてそれは、「キリストの言葉」を聞いている、わたしたちにとっても夢。

そして、「キリストの言葉」を聞き続ける、

わたしたちを通して、

神がやがて実現する、神の夢。神の国の幻。


キリストは語ります。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」