「福音のために、どんなことでも」(花小金井キリスト教会 11月27日主日礼拝 メッセージ)

shuichifujii2016-11-27

1コリント9:19−23

今日も、この場所にともに集うことができました。先週は雪が降りましたね。急に寒くなりましたから、体調を崩されて、今日、この場に集えない方もおられるでしょう。

肉体には限界があるわけですね。わたしも最近、50肩になってしまって、痛くて右手があがらないんです。

そういう意味で、年を重ねるということは、自分の弱さを知っていくことですし、自分はなんでもできると思っていた高慢さが砕かれていって、

ますます、主イエスにたよる人へ、主イエスが来られることを、待ち望む人へと、成長していくということですから、50肩の痛みも、感謝だなと思うわけです。

今日から、クリスマスを待ち望む、アドベントですね。

アドベントという言葉は、ラテン語の「到来」という言葉からきた言葉です。

主イエスの「到来」。主イエスが来られる。それはまず、約2000年前のクリスマスに起こりました。

わたしたちの一人一人の限界、肉体の弱さ、やがて死にゆくこと。

そして、この世界の限界、悪、暴力、差別、抑圧の悲しみ、その暗闇の中に、

永遠の命に至る、小さな光をともしてくださるお方として、

最初のクリスマスに主イエスは来られ、福音をもたらしてくださいました。



その主イエスがともした小さな光は、この約2000年の間、確実にこの世界を照らす光として、広がりつづけています。

わたしたちの教会でも、クリスマスの礼拝で、主イエスの光を心に宿した一人の人が、バプテスマを受けます。

神の国は着実に一歩一歩、広がっています。そしていつの日か必ず、主イエスはまた来られて、すべてを完成してくださる。

その希望を待ち望むわたしたちは、今日も、この福音の光を分かち合うことをやめません。

クリスマスの集会の案内のチラシができましたから、どうぞご家族やご友人を誘ってくださいね。

そしてこのアドベントの第一週からの一週間が、バプテストの仲間たちと覚え続けている、「世界祈祷週間」になるわけです。わたしたちの教会は月間としてすでに3回の礼拝で覚えて祈ってきましたね。

その昔、まだ若い女性宣教師、ロティームーンが、単身中国に福音を伝えに行きました。
そしてわたしたちのバプテスト教会の仲間が、インドネシアカンボジアシンガポールルワンダに遣わされています。

日本人が、アジアに出て行って、福音をつたえるということは、困難なことです。なぜなら、かつてその地を侵略し、傷つけてしまった過去があるのですから。

ですから、その場所に出て行って、福音を分かち合うということは、決して上から何かを教えるという話ではなくて、福音によって、赦し、赦され、和解と神の平和をひろげる働きなのだと、わたしは理解するのです。


 先ほど朗読された、使徒パウロの言葉は、コリントにある教会にあてて書かれた手紙の一部です。
23節でパウロはこう語っています。

「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と

水曜日の夜のお祈り会で、この箇所を読んだとき、ある方が、このパウロの言葉を誤解する人がいたら怖いと言いました。

「福音のためなら、わたしはどんなことでもする」といっても、それは福音をつたえるためなら、なにをやってもいい、手段は選ばない、という意味ではないからです。

 クリスマスの時期に、新宿などの繁華街で、スピーカーをもって、「神の国が近づいた、悔い改めよ」と流し続けている人々がおられるでしょう。

 聖書の言葉を聞かせればいい。それが福音をつたえるということなら、インドネシアや、カンボジアにわざわざ小さな子どもたちを連れて、宣教師の人々は出かけていかなくてもいいでしょう。現地の言葉を一生懸命習得しなくてもいいでしょう。ただ、録音した聖書の言葉を、大きな音で、スピーカーから流せばいいのだから。

 なぜ、このインターネットで世界がつながった時代に、いまだに住み慣れた生活を離れて、宣教師たちは外国に出ていくのでしょう。

その理由はなんですか。

そのヒントは、まさにクリスマスにあります。主イエスがまさに、本来あるべき姿を捨てて、人と同じ姿となり、この世に来てくださったから。

ただ、紙に書かれた文字、律法では、どうしても伝わらないものがあるから。

神が人を愛しているという、この神の愛の本質は、神が人の立場にまで降りてこられないと、どうしても、つたわらない。

「ああ、本当に神はこの世の愛されたのだ」と、人々の心の中に、生きた言葉が、生きた光が宿るためには、

どうしても、神はその独り子、主イエスを、わたしたちと全く同じ、人としてこの世界に生まれさせなければならなかったのでしょう。

そして現代においても、インターネットの情報では、どうしても「神の愛」は伝わらない。

直接人の口をとおして語られる宣教によって、神は福音をつたえようとしておられるからこそ、この時代も、人は宣教師となり、外国へと出かけていくのでしょう。

 私は20年ほど前、タイのチェンマイで行われた、アジアバプテスト青年宣教大会に参加したことがあります。
そのプログラムの中に、タイの奥地の山岳地帯にいる、少数民族に福音をつたえている宣教師の現場に出かけて行って、その働きを見るというプログラムがあって、チェンマイから、ジープのような乗り物で何時間も旅をして、ラオスミャンマーの国境近くにすむ、山岳少数民族の村に行ったことがあるのです。
 わたしが行ったのは「アカ族」という少数民族でした。ほかにも「カレン」族とか「モン」族など、6部族ほどの少数民族がいます。

 わたしは、訪ねた「アカ族」のことしかわかりませんけれども、今でも因習深く、悪霊が頭から入っていると恐れているので、女性は民族衣装のかぶり物を、寝る時も外さないとか、双子の赤ちゃんが生まれると、それは悪い霊の生まれ変わりなので、煙を吸わせて殺してしまう、ということをそこで聞いたのです。

 その「アカ族」の集落の近くに、アカ族からクリスチャンになった人々のコミュニティーがあります。そこに生きる人々は、すべての命は神に愛されているという、福音に出会い、信じるなかで、次第に悪霊を恐れたり、双子を殺すような風習から、解放されるのだそうです。
 そこで働くインド人の宣教師の方からは、こういうことを聞きました。

「相手の生きている文化が、自分に受け入れがたいものであっても、無理やり変えようとせず、福音を聞いて受け入れた人々が、自分から変えられていくのをまつ」ということを。


 パウロが手紙を送った先の、コリントの教会は、当時の国際的な交通の要地であり、商業都市で、多様な人種民族が入り乱れ、宗教的にも、さまざまな異教の神殿に溢れていた場所で、イエスキリストを信じて、クリスチャンになった人々が、集まるようになっていたわけです。

 手紙を読み進むとき、コリントの教会の中では、ユダヤ人からみれば、不品行なこと、また、異教の偶像に捧げた肉をどうするかとか、そういう課題が教会の中に、沢山あったことがわかります。

 逆を言えば、コリントの人々は、クリスチャンになる時に、ギリシャ的な、異教の文化のまま、そのままの姿で、福音を信じてクリスチャンになったということでしょう。

そして、ユダヤ人からクリスチャンになった人たちもいた。律法を大切にしている人々にとって、律法を知らない人々と一緒に生きることは、どんなに困難なことだったでしょう。


 そういうコリントの教会の人々に向かって、今日の箇所でパウロはいいます。

 自分は誰に対しても自由なのだと。自由であるからこそ、律法を大切にするユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持たない異邦人には、異邦人のように、信仰の弱い人には弱い人のように、すべての人に対して、すべてのものになったのだ。

逆を言えば、目の前の人を裁いて、切り捨ててしまう束縛から解放されている。

むしろ、どのような人とでも、寄り添いともに生き。奴隷のように仕えるほど、わたしは、誰に対しても自由な者なのだと言っているのではないでしょうか。

かつて律法に縛られて、クリスチャンを迫害せずにはおれなかったパウロが、ここまで自由になっている。

これが福音にあずかるということなのでしょう。

そう、福音を伝えるということは、伝えた相手を変えようとするのではなく、福音を語る人自身が、福音にあずかることで、握りしめていた価値観、こだわり、自我から自由にされ、解き放たれて、

どのような人とも、共に生き、仕えるものへ、自由人へと解放する、神の恵み。

別の言い方でパウロは、それを、キリストの律法とか、キリストの奴隷と言います。

自由の源であるキリストの言葉が、心に満ち溢れることで、わたしたちも自由になれるから。

あらゆる違いを超えて、すべての人に対して、すべてのものになる、寄り添う自由を得るからです。

そしてパウロは、それは「何とかして何人かでも救うためなのだ」と言います。

「何とかして何人かでも救う」という言葉から、ある例話を思い起こしました。

 オーストラリアの砂浜で、一年に何度か、ある時期、何千匹ものヒトデが砂浜に打ち上げられる場所があるそうであります。

大潮の夜の間に大波が押し寄せて、戻る波では連れ戻せないところまで、ヒトデを運び上げてしまうそうなのです。そして、太陽が照りつける頃になると、人では徐々に渇いて、やがて死んでしまう。

 ある朝、一人の男性が、海沿いのホテルからビーチに下りると、小さな男の子が、弱り果てたヒトデをつまみ上げては海に投げ入れているのに気がつきました。その砂浜には何千匹ものヒトデが転がっている。男性は、男の子に話しかけます。「ぼうや、何をしているのか良くわかるよ。どうして、そんなことをしているのかも良くわかる気がする。でも、ぼうや、ヒトデは何千匹もいるし、この砂浜は何キロも続いているんだよ。坊やのしていることで、何か大きな違いが生み出せると思うかい」

 そう訪ねる男性に男の子は、「わからないよ、でも、この一匹にとっては、大きな違いだと思うんだ」そう答えて、この男の子は、また別のヒトデを取り上げては、海に投げ入れました。


 このお話が示していることと、パウロが「なんとかして何人かでも救いたい」と願った気持ちは響き合うのではないでしょうか。

 主イエスも、たとえ話の中で、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」といわれたことがあります。

自分と出会った一人の人と、どう向き合うのか。その一人のために、その人のようになって、寄り添い、神の愛を語ろうと願うとき、

わたしたちも、このパウロの思いを共有できるのではないでしょうか。

最後に、ニューヨークのスラム街で何十年も、子どもたちのための、教会学校を続けている「メトロ・ワールド・チャイルド」という団体のお話をして終わります。

毎日のように窃盗、麻薬、恐喝、強盗、婦女暴行、殺人が起こる、ニューヨークのスラム街。それがどれほど危険な場所か、わたしたち日本人には想像もできませんけれども、そこに住みついて、何十年も子どもたちに「神の愛」を伝える教会学校をしている、その団体の創設者は、「ビル・ウイルソン」と言います。

その人は、自分自身も、何度も強盗に襲われ、拳銃で撃たれて殺されそうな目にも何度もあいながら、その活動をやめないのです。毎週週末には、何十台ものスクールバスを走らせて、沢山の子が集う、教会学校をしています。

 そのビル・ウィルソンが、語ったあるエピソードを紹介します。

あるとき、英語を話せないプエルトリコの女性が、バプテスマをうけてクリスチャンになったのです。

そして、「私も神様のために何かをしたいのです」とビル・ウィルソンに願います。

しかし、彼も、英語ができない彼女になにをしてもらったらいいか困りました。

そこで、ただ、毎週子どもたちを送迎するバスに乗り、子どもたちを愛してあげてくださいとお願いしました。

 そこで彼女は、子どもの送迎バスに乗り込む前に、ふたつだけ英語の言葉を思えました。

「アイラブユー」と「ジーザス ラブズ ユー イエス様はあなたを愛しているのよ」です。

バスに乗ると最前列に座り、一番まずしそうな子を見つけては、その子を自分のひざに抱き上げ、教会学校の場所に着くまで、そして帰りのバスの中でも、ずっと、「アイラブユー」「イエス様はあなたを愛しているのよ」とささやき続けました。それが、彼女にできるすべてでした。

 ある時から、彼女はある男の子に特別に愛情を注ぐようになります。その子は三歳くらいで、やせていて、いつも汚れた格好をしていました。

 もっと特徴的だったのは、この子はなぜが一言もしゃべらないということでした。兄弟も近所の友達も誰も一緒にこないで、彼だけが毎週、自分のアパートの前に座り、バスが拾ってくれるのを待っていたのです。

その子に、プエルトルコの女性は特別に愛情を注ぎ、いつも、彼をひざに乗せて両腕で抱きしめては、繰り返し繰り返し「アイラブユー」「イエス様はあなたのことを愛しているのよ」と語りかけつづけたのです。

何週間も何ヶ月も、このプエルトリコの女性は、一言もしゃべらない一人の男の子に、ずっと愛情を注ぎ続けました。

そしてクリスマスの二週間前、ある変化が起こります。今までと同じようにバスに乗った男の子は、いつものように彼女の愛情を受けながら、教会学校から自宅のアパートの前に、バスが止まったとき、彼は、彼女のほうを振り向いて、初めて、「ア、アイ、ラ、ラブ、ユートゥー」と、どもりつつ、彼も語り、彼女を両腕でしっかり抱きしめたのです。

それが土曜日の午後でした。ところが、その日の夕方、その子の死体が、彼のアパートの非常階段の下のごみ袋の中から発見されたというのです。

プエルトルコの彼女が、この男の子の厚い心の壁を越え触れたその日、まさに、その日の夕方、母親は怒りのあまり、彼を殺し、その子を、ゴミ袋に入れて捨てたのです。


この世界は、まだ、どうしようもない暗闇が覆っています。スラム街はその闇が、罪が、吹きだまってしまっているところです。

人の罪が吹き溜まると、弱い命が犠牲になるのです。

そんな場所に、だれも行きたがらない。そこにまでいって、福音を語る人は稀です。

しかし、そういうところにこそ、神の「アイラブユー」を、「イエスはあなたを愛している」と、自分の口で、語ってあげなければならない。

ビルウイルソンはいいます。単純にそれを実践した、あのプエルトリコの女性の奉仕によって、一人の男の子の魂は、今、神のもとにあると信じると・・・


 今日から、クリスマスを待ち望むアドベントです。クリスマスとは、神が人となられ、この世に来てくださったという出来事を祝う祭りです。

神が、紙に書かれた律法ではどうしても伝えられない「アイラブユー」を、

私たちと同じ人となられることで、示された、神の愛の出来事です。

パウロは福音のためならどんなことでもします」と言いました。
しかし実はすでに神さまのほうが、わたしたちのために、どんなことでもしてくださったのです。

罪の悲しみの叫びにこたえて、このスラムのような世に、神は御子を生まれさせた。

この福音の喜びに、わたしたちも、共にあずかる者となりたいのです。