「人の正しさ、神の正しさ」(2016年10月30日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

ルカ16章14節〜18節

 今日は何名かの方々が、青梅あけぼの教会の礼拝に出かけていますね。帰ってきたら、青梅教会は、どういう雰囲気だったかぜひ聞いてみたいものです。
 また、昨日、九州の西南学院大学神学部の受験がありました。私たちの教会のTくんが、無事に試験を受けたと連絡をくださいました。無事に試験を受けたのであって、無事に受かったわけではないです。でもきっと大丈夫でしょう。それは、落ちても受かっても、大丈夫という意味です。神の御心は、わたしたちの考え、思いをはるかに超えていますから、なにがあっても、大丈夫。
 そんな「大丈夫」という気持ちを頂いて、日曜日に神を見上げて始まる一週間も、週末になると、神はどこにいるのかと、「神」より「金」が頼りになる。この世のほこりが、心にたまる。今日の午後は大掃除です。心のほこりも落としましょう。

 さて、さきほど読まれたみ言葉は、神を信じる信仰者であったファリサイ派の人たちさえも、金に執着していたという話です。金に執着していたので、主イエスの話を一部始終きいて、おもわず、「あざ笑ってしまった」というのが、今日のお話の始まりでした。

この、一部始終聞いた話とは、今日の箇所の前のところ。「不正な管理人のたとえ話」です。

これは前々回の礼拝で読みましたね。長い話なので、あえて結論だけを一言で言えば、イエスさまは結論としては、「神と富に仕えることはできない」とまとめられたわけでした。

言い方を変えるなら、神のために生きることと、金のために生きることは、両立しないよ、ということです。

「神」か「金」か主人は一人。主イエスはこのたとえ話を通して、あなたがたはどちらかという、そんな問いかけを、御自分の弟子たちに問われたんじゃないか。。

そしてその一部始終を、ファリサイ派の人々が聞いていた。そして思わず「あざ笑った」のです。

さて、なぜファリサイ派の人々は、主イエスのこの話を、あざ笑うのでしょう。

あなたの主人は、「神」か、「富」かと問われて、「あざ笑う」のはなぜですか。

今、あなたが本当に頼っているものは、「神」ですか、「金」ですかと問われたら、みなさんも「あざ笑」いますか。

あなたの人生を今まで生かしてきたのは、「神」か「金」か。

こういうシンプルで、しかしそれゆえに本質的な問いかけに対して、「あざ笑って」しまう心って、なんなのだろう。


 皆さんは、だれかをあざ笑ったことがありますか。たとえば、まだ若い人のつたない意見に、「まだまだ若い。なにもわかってない」などと、あざ笑ったことはないですか。わたしはあるかもしれません。

 それとも、逆に、あざ笑われたことがありますか。真面目に一生懸命語っているのに、「ばかじゃないか」と、いやな上司に、先輩に、あざ笑われたとか、ありませんか。


 牧師をしていると、多少そういう経験をすることがあります。教会の中ではありませんけれども、教会とは関係のない集まりや、友人関係などで、何かの拍子に、神様の話、イエス様の話を持ち出したりすると、「そんな話」という感じで、軽くあしらわれる。

 神について語る。これは礼拝においては自然でも、礼拝以外では、そう自然なことでもない。

目に見えないものについて語るのは、目に見えるものこそが、実体だと思っている人には、あざ笑いたくもなる話じゃないですか。

 たとえば、会社で、経営会議をしているときに、ある社員が突然「この難局を乗り切るために、神の御心を求めて一緒に祈りましょう」と言ったら、どうなりますか。あざ笑われるでしょう。

 ところが、教会の役員会とか、そういう話し合いのなかでは、議論に行き詰ったなら、神に祈ることは、自然なこと。大いに神様を持ち出し、大いに、主イエスの言葉を持ち出し、行くべき方向を見つけていく。

もちろん、お金のことも話します。祈りながら。

むしろ、教会の話し合いにおいて、「聖書がなんと言っているか、イエスがなんといっているかなんて話を、持ち出すな」と、あざ笑われたりしたら、その教会はちょっと危ないですよ。

会社の経営会議と、教会の会議と、何が違うのか。

どちらもお金の話をすることもあるのに、何が違うのか。

それは、主人が違う。マスターが違うということなんです。

だれか主人なのか。主なのか。神か、金かという違いです。

あなたを本当に救ってくれるのは、神ですか、金ですか。

このシンプルで、それゆえに、実に本質的な問いへと、戻るわけです。

なので、今日のルカの福音書は、わざわざ「ファリサイ派の人たち」という前に、「金に執着する」と書いている。

残念ながら、彼らは「神」よりも、「金」、「富」に仕えていました、とルカは言いたい。

ただ、当時のファリサイ派の人、すべてが、金に執着していた、というのは言いすぎの気がします。そうではない人もいたでしょう。

ただ、ここでイエスさまの言葉、問いかけを聞いて、「あざ笑いたくなる」そういう心の状態は、まさに金に執着していたとしか言えない。そういうファリサイ派の人々が、ここにいたわけです。

ファリサイ派ユダヤ人。ユダヤの民のなかでも、人一倍熱心に神を信じ、神に従う人々と、尊敬されていたのに。

信仰者の模範として、尊敬されていたのに、そのファリサイ派の人々が、実は「神」ではなく、「金」に執着しているというのは、正直ショックではないですか。

主イエスは15節で、彼らのことをこう指摘します。

「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」15節

神ではなく、金に執着するありかたは、人に自分の正しさを見せびらかす生き方にもつながる。

神ではなく、人によく見られようとする生き方。

神ではなく人によく見られることを求めてしまうということなら、これはファリサイ派の人々だけとはいいきれない。わたしたちもまた、そういうことが起こりませんか。

「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」

と問われて、心が痛くなりませんか。

わたしたちも、人に認められ、社会に認められ、尊敬され、承認されたいではないですか。

ある意味、ファリサイ派の人々は、そんな人間の欲求を、代表している人々。

わたしたちも、「あの人は変な人だ。変わっている」とは言われたくない。あざ笑われるのは御免だと思う。

そういう意味では、わたしたちもこのファリサイ派の人々のことを笑えないでしょう。

エスさまの周りに集まっていた人々は、むしろ人々からは「変な人たち」と言われるような人々だったでしょう。

罪人と呼ばれたり、遊女だったり、裏切り者の徴税人だったり。そんな人々が、主イエスの周りに集まって来たわけだから。

さらに言えば、主イエスご自身こそ、30才過ぎて、長男の責任をおっぽり出して、旅に出てしまった。

家族は、「あの男は気が狂った」と、捕まえにさえきたではないですか。

少なくとも、主イエスも、その周りにいた人々も、

人に自分の正しさをみせびらかせるような、御立派な人ではなかった。

しかし実に、神の国とは、まさにそのような人々のなかにやってきている。それが神の国の福音だと、主イエスは御自分の周りに集まる人々に語り続けたのでした。


主イエスこそ、神の御心、律法を100パーセント生きぬき、神の御心をまっすぐに人々に伝え、人々を、神の国へと招き続けた方だから。

その主イエスの招き、主イエスの語りかけを、「あざ笑ってしまう」心。それは、「自分の正しさを見せびらかす」心であり、神ではなく、金に執着する、つまり、この世のことだけに執着する心。

そういう人間の心の中を、神はすべてご存じで、ゆえに「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」と言われるわけでしょう。

人から尊敬されることが悪いのではない。

大切なのは、人にどう見られるか、人にどう見せるかという自意識にある意味縛られ、人の奴隷のようになっていることへの、主イエスの問いかけであり、

その主イエスの招きを、あざ笑わうのではなく、ごまかすのでもなく、まっすぐに、この問いに向き合うことであるのです。

ファリサイ派の人々にとって、この主イエスの問いに向き合わないですむ言い訳こそが、彼らが見せびらかしていた「自分の正しさ」だった。

それは、神の崇高なる律法を、自分たちの都合で解釈した教え、ルールを守るという、正しさ。

神の教えではなく、み心でもなく、自分たちの決めた教えに縛られていた彼ら。

神の律法は、おいそれと人間が守っていますと言えるようなものではないのです。
人間の都合で、解釈しなおして、自分を正当化するために使ったりしてはいけない。

それが、17節でイエスさまが言われていることでしょう。

「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせるほうが易しい」

なんと、天地が消えうせようとも、律法の文字のほんの一部も変えてはいけない、という。律法は人が勝手に解釈していいものじゃない、崇高なもの。

あえて、この神の崇高な律法と、人間の勝手な解釈ということを、憲法9条にたとえてみれば、武力の行使を永久に放棄し、戦力も持たないと言い切っている憲法の理想は、これはまさに人類の理想でしょう。

でも、ある人々は、現実を見ろよと、この理想を「あざ笑う」わけです。そんなこと言っていると、敵にやられるぞと、あざ笑う。なので、人の都合で、この理想を解釈し、違った教えにして、戦うことも、武器を持つこともOKにしてしまったでしょう。

これは神の律法を、解釈で骨抜きにしたファリサイ派と律法学者のしたことと、とても似ている。

憲法と律法は、もちろん違う。憲法は変えていいんですよ。

ただ申し上げたいのは、崇高な理想が示されている時に、その理想にちゃんと向き合わないで、あざ笑い、挙句の果てに解釈でごまかし、骨抜きにして、自分たちは正しい、間違っていないというのは、いかがなものですか、と言いたいわけです。

それは、ファリサイ派、律法学者たちが、自分たちは神の律法を守っていると、正しさを見せびらかしていた姿と、本質的には同じこと。

そういう欺瞞を、さらに具体的にイエスさまは指摘します。

18節からは、離婚についてイエスさまが語られるのは、そういうことです。
神の律法には、夫が妻になにか恥ずべきことを見つけたら、離縁状を書いて去らせることができると、書いてあるのです。

ただ、その「恥ずべきこと」とは、何ですか。それは律法は書かない。わたしは、あえて書かないのだと思う。不倫なのか、なんなのか。そういう線引きを律法はしない。

それをいいことに、イエス様の時代には、夫の気に入らないことなら、なんでも「恥ずべきこと」に解釈して、好き勝手に妻を離婚して、家から出していたようなのです。

ファリサイ派や律法学者たちは、男性です。男性の都合で律法を解釈して、教えを作り出したのでしょう。

だからここえイエスさまは言うのです。そういうあなた方の勝手で、妻を追い出し、再婚するなら、それは神の前に、姦通の罪だと、厳しく追及なさる。

主イエスがそう問われるのも、ちゃんとこのことに、向き合ってほしいからでしょう。自分たちは正しい、なにも間違っていないと、自分たちの欺瞞に向き合おうとしないまま、
神様の愛の心を、悲しませないでほしい。

天地を造られた神の、その愛ゆえの、崇高な理想。神の律法の前に、その聖なる鏡の前に、ちゃんと立ってみてほしい。

ごまかさないで、あざ笑って逃げないで、神の愛の律法の前に、自分たちのいい加減さ、罪深さを見つめてほしい。

そういう切なる呼びかけとして、ファリサイ派の人々を、なお神の国への招いている主イエスの言葉として、わたしはこれを聞き取ります。


16節で、主イエスはこう言われます。

「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが力づくでそこに入ろうとしている」のだと。


律法と預言者という言い方で表現される、わたしたちが旧約聖書と呼んでいる神の言葉。

神との古い約束といわれる時代。

それは、イエスキリストが来られる直前まで、バプテスマのヨハネの時までで終わった。

今や、イエス・キリストが来られたことで、神の国の福音、良い知らせは、広く世界中に告げ知らされる時代となった。

人の前に、自分の正しさを見せびらかす必要など、もはやない。そんなことで神の国に入るのでも、救われるのでもないから。

むしろ、人から差別されようと、見下されようと、あざ笑われようと、神の国へと招いてくださる主イエスの言葉に、主イエスの招きに、まっすぐ向き合い、信じますと応えるだけでいい。

主イエスこそ、神がこの世界に与えてくださった、神の国の入口なのだから。

ある時、主イエスの元に、乳飲み子たちが連れてこられました。
弟子たちは、こんな子どもは邪魔だとおこった。善い行いも、正しい行いも見せびらかせないでしょう。子どもなんて。

しかし主イエスは言われます。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」


主イエスが来てくださったことで、なんのよい行いもないままで、神の国に入る時代が来た。

エスさまは、その神の国に、誰もが力づくで入ろうとしている、と、今日の箇所で、言われました。

「力づくで入ろうとしている」とは、どういうことでしょう。

確かに、群衆が主イエスのところに、群がり集まり、主イエスの癒し、そして、語る言葉を聞きました。

そういう意味で、人々は力づくで、主イエスをとおして、神の国に入ろうとした。

ところが、その最後はどうだったでしょう。主イエスの言葉を求めて集まった、たくさんの群衆は、どうしたでしょう。いや主イエスの弟子たちでさえ、どうなったでしょう。みんな主イエスを見捨ててしまったではないですか。

エスさまは、最後の最後、たったお一人で、十字架につけられたのです。

神の国の福音を語り、人々を招き続けた最後が、すべての人から見捨てられ、ののしられ、あざ笑われ、殺されるという結末だったのです。

人は、神の子を殺しました。神の国の福音を語り招くお方を、人間は十字架につけてしまったのです。

自分の正しさを見せびらかしながら。

エスを殺すことこそ、正義。そんな人間の正しさによって、神の子イエスキリストは、十字架につけられ、殺されました。

これが、「力づくで神の国に入ろうとした」人間の姿です。

こんな自分勝手な人間が、救われるのでしょうか。神の国に入ることなど、ゆるされるのでしょうか。

わたしたち人間は、神の国になど、入れていただけるのでしょうか。

最後に、使徒パウロの言葉に聞きたいと思います。

ローマの手紙5章6節から

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心なもののために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。

しかし、わたしたちがまだ、罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」


神を無視して、あくまで、自分の正しさにこだわる人間の罪深さは、

神の正しさ100パーセントを生きぬき、神の言葉を語る、イエスキリストを抹殺せずにはおれなかったのです。

それが、人間の正しさというもの。その極みとしての、神殺しが、キリストの十字架。

そのような人間が、神の国になど、決して入ることなどゆるされるはずがない。

自分の正しさの末に、滅びるしかない人間を、

その人間の罪が極まって殺されたキリストの血によって、その神の子の犠牲によって、

神は人間を義とし、神の怒りから救い、受け入れてくださるのだ。その証が三日目のキリストの復活なのだ。

だから、わたしたちは神と和解し、救われている。神の国へと入ることができる。パウロはそう宣言します。

これは、人間の正しさなどではわからない、理解をはるかに超えている、「神の正しさ」。「神の義」。

罪ある人を、なお救いだし、赦し、神の国へと導きいれる十字架こそ、神の正しさの極み。神の義、そして神の愛。。

この福音を、幼子のようにただ受け入れましょう。「人間の正しさ」ではなく、「神の正しさ」に生きていきましょう。

神の国に力づくで入ろうとしている」という言葉は、岩波訳の聖書では、

「皆、その中へ暴力的なほどに、なだれこんでいる」と訳すのです。

「暴力的なほどに、なだれこむ」とは、驚くべき表現です。

神の義、神の愛は、すべての人を、どうしようもなく招かないではいられないほど、熱い。キリストの命を犠牲になさるほどに、熱い。

今も、神の国のなかに、人々をなだれこませるようにして、世界中で、神は、人々を神の国へと招いている。

わたしたちの教会でも、神は招いています。今年のクリスマスには、この神の国への招きに答えて、バプテスマを受ける方も与えられています。

人はなぜ、神を信じるのでしょう。主イエスを信じるのでしょう。

この「お金こそが力であり、目的である」かような時代に、なぜ、目に見えない主イエスを信じ、バプテスマを受けたりするのでしょう。そんなことをしたら、「あざ笑われる」かもしれないのに。

答えはひとつ。その人が目覚めたからです。

わたしの本当の主人は、「金」ではなく、「神」であると。

わたしの主は、「イエスキリスト」なのだと、心の目、霊の目が目覚めた人から、

なだれ込むようにして、人々は、神の国に入っていくのです。