新しい年の第2週の主日礼拝ですけれども、まだ私たちの教会はクリスマスの余韻がそこかしこに漂っていますね。クリスマスリース、そして真っ赤なポインセチアが、ロビーで美しく咲いていますね。
いいじゃないですか。雛飾りは、ひな祭りが終わったら、早く片付けないといけないようですが、クリスマスリースは問題ない。
一応、カトリック教会など、伝統的な教会の暦を大切にするキリスト教の教派でも、クリスマスは1月5日まであるのであって、1月6日から次の暦になるわけですね。公現節とか顕現節というそうですが、主イエスが公に現れることを覚える。そういう伝統的な教会の暦があるわけですけれども、わたしたちバプテスト教会は、あまり伝統的な教会の暦に縛られないで、自分たちの判断で、教会活動をしていくことを大切にしていますから、
いいんじゃないですかね。ゆっくりとクリスマスの余韻を味わうのも。
教会暦のついでに、今年はマルティンルターが始めた宗教改革から、500年目の記念の年なのだそうです。カトリック教会からわかれて、プロテスタント教会が生まれて、500年。カトリックを旧教、プロテスタントを「新教」といったりしますけれども、その「新教」も、もう500歳になったというわけです。
生まれたころのプロテスタント教会は、燃える火のごとくヨーロッパに広まったわけですけれども、その宗教改革から500年経ち、
今、宗教改革のお膝元、ドイツをはじめとするヨーロッパ諸国の教会は、その信仰の火が燃えているのでしょうか。
聞くところによると、毎週の礼拝に集う人々は、年々少なくなっていると聞きます。クリスマスやイースターという祭典には、たくさんの人々が教会にいくけれども、毎週、毎週の礼拝に参加し、祈る人は少ない。歴史ある大きな教会堂に、ほんの一握りの人々で、礼拝をしている教会もよく見られるそうです。宗教改革から500年。そのお膝元、ヨーロッパの教会離れ、世俗化を、わたしたちはどう受け止めればいいのでしょう。
さて、わたしたちの花小金井教会はどうでしょうか。
今年私たちの教会は、教会創立48年周年です。2019年の5月25日が教会組織50周年。
500年に比べれば、50年はつい最近の話ですね。まだ、生まれたばかりの頃の教会の雰囲気をご存じの方も、たくさんおられるでしょう。どうでしょう。その頃と、今の教会の雰囲気は、どう変化しましたか。
そしてこのあと、あと452年たって、教会の創立500年の時、わたしたちの教会はどうなっているでしょう。
すぐそばに、円成院という立派なお寺があるのです。あちらはこの土地で300年の歴史があります。この地域で円成院を知らない人はいませんね。
さて花小金井教会は、500年後この地域のシンボルになっているでしょうか。それとも、ヨーロッパの教会のように、立派な建物に、数人が集って、500年記念礼拝を捧げているのでしょうか。
今日朗読された御言葉のなかで、主イエスが弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈り続けなければならないことを教えるため」にたとえ話を語らなければならない、現実の厳しさ。
そして最後の8節では「人の子がくるとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とさえいわれた主イエスの言葉は、今の時代の教会に、とてもリアリティーある言葉として響いて来るのではないでしょうか。
さて、先週の礼拝では、重い皮膚病を患う10人が主イエスに癒やされた箇所を読みました。10人癒やされて、そのうちの一人だけが、主イエスの元に戻り、主イエスを賛美し礼拝したというお話でした。
神は沈黙しているのでも、働いておられないのでもない。主イエスにおいて、神は確かによい業をしておられる。ただ、そのことに気づいて、主イエスの元に礼拝にやってくる人は、少ない。自分自身の思い込み、偏見で、心の目と耳が閉じていると、主イエスのところに戻ってこれない。そういうメッセージでした。
今日は読みませんでしたが、その続きの箇所では、主イエスがファリサイ派の人々から、「神の国はいつ来るのか」と問われた出来事が記されています。ファリサイ派の人々にとって、「神の国」が来るとは、ローマ帝国の抑圧と支配から、解放され自由になることです。目に見える具体的な敵、ローマを倒す、神の働きはいつなのか、ということです。
主イエスは、そういう彼らが期待しているような「これが神の国だ、あれが神の国だ」と、目に見えるようなものではないのだ。
やがて人の子、つまりメシアが現れて、ノアの洪水の時のように、古い罪深い人間の営みを一掃する、終末が来る。罪深い人間が、支配者が、この世界を自分勝手に支配しているように思えても、神は、ちゃんとこの世界に「神の国」を来たらせる。限界と罪にまみれた「人間の国」ではなく、完全な愛と正義の「神の国」が来る。
その希望に生かされているあなた方の間に、すでに「神の国」は来ているのだ、とも言われます。
目に見える現実は、いまだ、人間の罪深さ、不正義、暴力、抑圧にまみれているようであるとしても、
神はかならず、「神の国」を来たらせてくださる。この主イエスの言葉に希望をおいて、あきらめることなく、気を落とさず、倦むことなく、祈り続ける人々の間に、すでに「神の国」はやってきている。
それが、教会というものではないでしょうか。
今日朗読された「やもめと裁判官」のたとえは、どのような時代であっても、目に見える現実を超えて、やがて実現する「神の国」の希望に、教会が生き続けていくように、祈りを絶やすことのないようにと、主イエスが弟子たちに、そしてわたしたちに語ってくださる、愛と励ましのみ言葉。そうわたしは読みます。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。」
そう主イエスは語り始めます。
神を畏れないなら、人を人とも思わないということでしょう。
反対に、神を畏れ、神を敬うとき、神が愛し造られた人を、人として愛するもの。
「貧しい人を嘲る(あざける)人は、造り主を見くびる者」(17:5)という言葉があります。
人を大切にしないのは、神を見くびっているからだと、箴言は語ります。
ある人はいいます。主イエスはこの不正な裁判官を、当時の律法学者、ファリサイ人たちへの問いかけとして、登場させているのではないかと。
神を畏れ敬うようでいながら、人々を裁いては、罪に定めていた彼ら。
それは、この神を畏わず、人を人とも思わない、不正な裁判官の姿ではないのかという問いが、実は隠されている。そう読むこともできるでしょう。
なぜなら、この次の箇所には、ファリサイ派の人と徴税人の人の祈りのたとえ話を主イエスはなさるからです。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下していた、ファリサイ派の人が祈る。
同時に、うつむいて「神様、罪人のわたしをあわれんでください」としか祈れない、そんな徴税人がいる。
そして、神のまえに義とされ、受け入れられたのは、徴税人の方なのだと、そういうたとえ話を、主イエスはなさるのです。
本当に正しく自分のことがわかっていたのは、実は、自分は罪人、悪人だとわかっていた人だった。ファイサイ派の人々は、ちっとも自分のことがわかっていなかったという話。
自分が信じる正しさ、正義など、ふたを開けてみれば、その程度のものです。
不完全な人間が、人を裁かなければならない。
そういうどうしようもない限界を抱えた、この地上に、わたしたちは今、置かれています。
正しいことが必ずしも通らない世界。不正義が、悪が、見過ごしにされている世界。
神を畏れることを忘れて、なにが善でなにが悪なのかもわからなくなり、
強い者が弱い者を裁き、たくさん持っている者が、持っていない者を、支配するこの地上という世界。
神を畏れることを忘れ、世俗的になればなるほど、力と金が、正義、善となる、この地上という世界。
わたしたちは、この不正な裁判官のように、神を畏れることをわすれて、金や力こそが正義になってしまった、この世界のただ中で、
神の正義を求め、神の御心、神の国を求めて、叫び続ける、このちいささ「やもめ」でありたい。
金のためなら、不正や暴力にも目をつぶる人々の中で、なお、「ちゃんと正しい裁きをしてほしい」と、叫び続けるこの「やもめ」のようでありたい。
結局、強いもののいいなりになっていくように見える、この世界のただ中で、どうせなるようにしかならないと、諦めてしまうのでも、
長いものにはまかれていたほうが、得なのだと、自分の本当の心、良心に、蓋をしてしまうのでもなく、
「ちゃんと正しい裁きをしてください」「強いものを裁いて、弱いものを守ってください」と、ひっきりなしに叫び続ける、この「やもめ」のようでありたい。
強いものが、弱いものを支配してやまない、すべての現場で、沖縄の現場で、ブラック企業のパワハラの現場で、あらゆる「いじめ」の現場で、
金ではなく、「神」を畏れる一人の人として、
「相手を裁いて、弱いものを守ってください」と、叫ぶものでありたい。
このたとえ話は、「気を落とさずに絶えず祈り続けなければならない」ことを教えるたとえ話しです。
でも、この「やもめ」の女性は、ちっとも祈っていない。ただ、叫び続けているのです。
でも、この女性は、祈っていないのではなく、この彼女の叫びが「祈り」なのだと、主イエスは教えておられるのでしょう。
神を畏れるからこそ、この地上の悲しみに、痛みに、諦めてしまうのでも、黙りこんでしまうのでもなく、昼も夜も神の救いを、祈り続けないではいられない。そのような人々をさして、主イエスは、選ばれた人といわれ、神はいつまでも彼らをほおってはおかない。速やかに裁いてくださる。そう約束してくださったのでしょう。
人間が期待する時間ではなく、神の定めた時がきたなら、速やかに裁いてくださる。祈りにこたえてくださる。
それは明日かもしれないし、500年後かもしれません。
「人の子がくるそのとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」
この主イエスの言葉をもって、今日のみ言葉は終わります。
500年後、花小金井教会は、この場所で祈り続ける群れとして、存在しているだろうか。
そういう問いかけとして、聞き取ることもできるでしょう。
鍵は祈りです。気を落としたくなる現実を前にして、
祈れない、祈りの言葉を失いような現実を前にして、
なお祈ることをやめない。やめられない。
むしろ祈れないからこそ、教会につながりつづけ、祈り、叫んできたからこそ、
この教会は今日までここに立ち続けてきたはずです。
わたしたちは、神に選ばれているのです。祈ることをやめない。それが選ばれている証です。
祈りは、私たちの生き方そのものです。神に息を吹きかけられて、生きるものとなった私たちにとって、生きることも死ぬことも、すべて神に捧げられる祈りです。
この殺伐とした地上を、生きなければならないわたしたちにとって、「祈り」とは生きるための呼吸であり、「祈ること自体が、救い」なのです。
最後に、祈りを通して、主イエスと出会った、ある医師の証言を紹介して、終わります。
秋月辰一郎という長崎の医師です。長崎に原爆が投下されたとき、爆心地に近い、浦上第一病院で、医長をしていました。1945年8月9日以降、重傷を負った人々が、次々に崩れ落ちた病院の跡地に逃げ延びてくる。
体中やけどで覆われて痛みと渇きに苦しむ人たちのうめき声があちこちに聞こえてくる。
ところが、どこからともなく、祈りの声が聞こえてきた。
もうとても言葉などしゃべれないほどに焼けただれた重い傷を負っているはずなのに、ロザリオと呼ばれる祈りが、「主の祈り」が、静かに、でもはっきりとあちこちから聞こえてくる。
「めでたし聖寵(せいちょう)満ち満てるマリア・・・今も臨終の時も祈りたまえ」
「ああ、イエズスよ、われらの罪を赦したまえ。われらを地獄の火より守りたまえ」
「霊魂を天国にみちびきたまえ」「われらに罪を犯すものをわれらが赦す如く、われらの罪をも赦したまえ」
そう祈る声がそこここから、聞こえてきた。
そして、長い夜が明けて朝日があたりを照らす頃、ほとんどの人はなくなっていました。
死に瀕(ひん)して、地上での最後の息を祈りとともに引き取った人々を見て、この医師は、圧倒される。地獄の中でも祈る人たち。すべてが塵芥に帰した場所で、なお毎晩祈る人たちを通して、祈って病気が治るというようなことを超えて、「祈ること自体が救いだ」ということを、彼は深く知ったのです。
目を天に上げて、祈りながら息を引き取っていった、この人たちの祈りに導かれるようにして、秋月医師は、のちに洗礼、バプテスマを受けました。
「祈ること自体が救い」なのです。
「祈ることができる。それ自体が、まさに救い」なのです。
ゆえに、わたしたちは気を落としてしまうような、現実をまえにしても、いや、そうであるならなおのこと、祈りをやめるわけにはいかないのです。祈り続け、神に、叫び続けないわけにはいかないのです。
それこそ、神に息を吹き入れられ、祈るものとされた、神に選ばれたわたしたちの特権であり、救いであるからです。