「神を賛美するものへ」(2017年1月1日 花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

shuichifujii2017-01-01

ルカ17章11節〜19節


 新年ですから、最初に、ご挨拶をいたしましょう。
「あけましておめでとうございます」

新しい年を共に迎えることができましたことを、主に感謝いたします。

わたしたちにとっては、年があけようが、あけまいが、毎週「おめでたい」礼拝をしているわけですけれども、

 先週わたしは、「クリスマスおめでとうございます」と、皆さんに挨拶できませんでしたから、その分も思いを込めて、「おめでとうございます」と申し上げたい。クリスマスに体調を崩された方は、他にもおられますよね。

今日こうして、神さまの恵みによって、集まることができただけで、本当に「おめでたい」と、心から思います。

そういう気づきが与えられたという意味では、牧師のインフルエンザも、神様のクリスマスプレゼントでしたね。

先週、礼拝をしている会堂から、二階の牧師館に、讃美歌が聞こえてくる。
その賛美を聞きながら、すべてをおゆだねして、横たわっている。
ああ、天国に招かれる瞬間というのは、こういう感じなんだろうなと、想像したわけです。

教会にとっても、牧師が不在でも、クリスマス礼拝もバプテスマ式もできるという体験は、とても貴重な体験だったでしょう。

教会は、イエスさまがおられるから、なにがおこっても、なんとかなる。そんな証となりましたね。

次は、イースターの日に、倒れるかもしれませんので、お祈り、お願いします。

 さて、1月からまた、ルカの福音書にもどって、読み進めていきます。1年半かけて、16章まで読んできましたけれども、イースターまでには、読み終わりたいとおもっているので、すこしとびとびに読みすすむと思います。

そこで、今日は17章の11節からみ言葉に聞くことにします。

奇しくも、インフルエンザで、しばらく隔離されていたわたしにとっては、今日の聖書に登場する、伝染性の重い皮膚病のために、ある村に追いやられていた10人の人々の、このお話は、なにやら人ごととも思えない気がするお話です。


今日は、3時からも礼拝がありますし、晩餐式もしますので、メッセージは短くしなければなりません。ですから、詳しい説明はできないのですけれども、

お時間がある時に、ぜひ、旧約聖書レビ記13章を読んでみていただければ、すこしこの出来事の事情がお分かりになると思います。

 重い皮膚病と翻訳される、へブル語では「ツアラト」と呼ばれる皮膚の病。この病気になった人は、レビ記によると、群れから隔離されて一人で住むように命じられるわけです。

 それは、当然群れを守るという理由があったわけですけれえども、衛生面だけではなく、宗教的な意味でも汚れているとされたわけでした。

 イエスさまの時代も、その教えが守られていた。ユダヤ人の住むガリラヤの町々からは、ユダヤ人の重い皮膚病の人たちが、また、サマリア人の住む町からも、サマリア人の重い皮膚病の人が、この町はずれの村に追いやられて、共同体を造っていたのではないかと、想像することができます。

さて、ユダヤ人が、サマリア人を差別し見下していたことは、お聞きになったことがおありだと思います。

ある意味、「近親憎悪」なのです。もともと同じ同族だったのに、外国のアッシリア帝国に占領されたときに、サマリアの人々は、アッシリアという外国の血が混じってしまった。ユダヤの人々は、そのサマリア人をけがれていると見下し、差別し、嫌悪していたわけです。

全く違う人種だからではなく、似ているからこそ、その少しの違いがゆるせない。

しかも、サマリア人は、エルサレムの神殿ではなく、自分たちの地元の山、ゲリジム山で礼拝をしていたわけです。

ユダヤ人からすれば、エルサレムの神殿という権威をいい加減に考えるような「あいつらはゆるせん」という関係だったわけです。

キリスト教の教会同士でも、こういうことは起こりやすい。似ているからこそ、ちょっとした違いが気になるわけです。バプテスト教会は、牧師がいなくても礼拝はできる。でもカトリックは神父がいないと、礼拝、ミサはできない。

日本も豊かな時代には、そういう互いの違いを受け入れられなくて、お互いを決定的に分けた時代もありました。でも、今は時代が厳しくなってきたこともあるのか、だんだん、お互いの違いを認め合って、互いに協力するようになってきたように、思います。

この厳しい時代に、もはや内輪もめのようなことは、言っていられないということです。


この重い皮膚病を患っていた10人も、「同病相哀れむ」ということでしょうか。同じ苦しみを共にするものたちが、ここではユダヤ人もサマリア人もなく、共に生きていたことでしょう。その10人が、通りかかった主イエスに、遠くから声を張り上げ、

「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんで下さい」と叫んだのでした。


「わたしたちを憐れんで下さい」

「わたし」ではなく「わたしたちを憐れんで下さい」


病が、ユダヤ人もサマリア人もなく、ともに生きる者としてつなげている。
「わたしを憐れんで」ではなく、「わたしたちを憐れんで下さい」という叫びは、ある意味美しい。

初詣に出かける沢山の人々のなかで、「わたしを」「わたしの家族を」「わたしの仕事を」祝福して下さいと祈る人はたくさんいるでしょうけれども、「わたしたちを憐れんで下さい」と祈る人が、どれほどいるでしょう。

教会は、「わたし」を超え、「わたしたち」と祈る仲間です。先週のバプテスマ式も、入会式も、個人の喜びを超えて、わたしたちの喜び。それは、悲しみも同じです。あなただけの悲しみではなく、わたしたちの悲しみ。

今年度の花小金井教会が頂いたみ言葉「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という関係性。「わたしたち」に生きる仲間。


ですから、イエスさまはこの10人の全員を、それこそ憐れんでくださったに違いないのです。

エスさまから「祭司たちの所に行って、体を見せなさい」と言われて、出かけて行った全員が、その途中で清くされたと、書いてあります。

清くされたとは、病がいやされた、という意味にわたしたちは受け取りますけれども、ここで大切なのは、10人分け隔てなく神さまの憐れみを受けたのだ、ということです。

にも関わらず、この出来事の最後で、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聴けたのは、

癒されたあと、主イエスのところに戻り、おお声で神を賛美した、このサマリア人だったという、ここに重要なポイントがあるわけです。

つまり、「あなたの信仰があなたを救ったという」この「救い」とは何ですかということです。

病がいやされることですか。そういう「救い」なら、10人全員が受けたではないですか。

人間が願っていること、苦しみからの解放。それが「救い」ということなら、少なくともこの出来事においては、10人、全員が救われたのではないですか。

しかし、それが本当の「救い」なのか。状況が変わること。苦境から救われること。それを求めて、今も多くの人は、初詣に出かけます。そして、祈りが聞かれることもあるでしょう。ただ、祈りが聞かれることと「救い」は同じなのでしょうか。

むしろ、今日の聖書の出来事がわたしたちに伝えていることは、すでに与えられている、神の恵み、神の憐み、神の愛の働きに、気づいて感謝をささげられることこそ、「救い」なのだと、わたしたちに伝えているのではないでしょうか。

それはむしろ、自分が望んでいた形ではなかったとしても、自分が思い描いていたこととは違ったとしても、実にその出来事の中に、出会いの中に、神の計り知れない憐れみが、注がれていることに気づけたなら、

主イエスはちゃんと、祈りにこたえて、神の憐れみと愛の奇跡を、起こしてくださっていることに、このサマリア人のように、気づけたなら、目覚めることさえできたなら、

その信仰は、その人を確かに救ったと言えるのではないでしょうか。



実は先週、ある方の葬儀に、所沢教会まで出かけてきたのです。

わたしが、花小金井教会にくる前に牧師をしていた、山形の「酒田伝道所」で、私の前任の牧師。民家牧師の奥さま、お連れ合いの直子さんの葬儀でした。

まったくお元気だったのに、急に天に召されていかれて、私も妻も、ただ驚きつつ駆けつけて「どうして、こんなにはやく、なぜ」という思いを、正直抱きつつ、葬儀に出席して、そして帰ってきたのでした。

そして、わたしはまだ体調がすぐれなかったので、横になっていました。夕方、夕食の準備をしていた妻は、その天に召された直子さんのことを、いろいろと思いめぐらしていたのです。

そして、次々に昔のことが思い出されました。「ああ、あの時、あの直子さんの一言がなかったら、わたしたちは、違う決断をしていた。あの一言がなかったら、わたしたちは、東京を離れて、酒田に行くことは、なかった」

それまですっかり忘れてしまっていた、そんな決定的な出来事、一言、一言が、次から次へと思い出されて、涙が止まらなかったのだと、彼女は夕食のとき、わたしたち家族に語ってくれました。

それを聞いてつくづく、「この人は、さいわいな人だなぁ。これが救いなんだな」と思ったのです。


わたしたちも、忘れてしまっているかもしれませんが、今、この場所に当たり前のように、今日も集まっているようでいて、しかしここに至るプロセスで、あの時、このとき、小さくても、決定的な一言が、決断があったのではないですか。

その小さな出来事、奇跡によって、今があることに、わたしたちは気がついたから、この場に集い、主イエスに感謝と賛美をささげているのではないですか。


わたしたちの心の目に、差別とか、偏見とか、思い込みのような、心をふさいでしまうフィルターがあると、

そんな、神が働いておられる小さな出来事に、気づけなくなります。

差別や偏見によって、サマリア人を見下していたユダヤ人のように、主イエスのところに戻り、賛美をささげることができなくなる。

「救い」とは、そういう意味で、差別や偏見という、心のフィルターからの「救い」でもあるのです。


 去年の末、有名なタレントが、覚せい剤を使用した容疑で逮捕されましたが、その後不起訴になった出来事ありました。

 あのとき、テレビなどの報道、コメンテーターの口から、まだ容疑でしかないのに、いかにも犯罪者のようなレッテルをはる発言が、散見されたのです。

 こういうことが起こるのは、その根底に、「あの人ならやりかねない」という、勝手な思い込み、醜い偏見があるのだ、ということではないでしょうか。


 自分の思い込みを絶対のように、神のように人を裁く。

そのような愚かさ、罪からこそ、わたしたちは「救われたい」のです。

「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と、主に叫びたいのです。

差別や偏見という、自分の思い込み、心を覆っているフィルターは、

やがて、主イエスという、神の恵み、神の奇跡100パーセントのお方さえ、犯罪人にしたて上げ、

人々の口から、「あの男を十字架につけよ」と叫ばせたのです。

差別、偏見、思い込み、この心を覆ってしまう「フィルター」こそ、わたしたちの抱える罪の本質ではないでしょうか。。


今日は、新年最初の晩餐式を、このあといたします。

わたしたちの、偏見、思い込み、その罪のすべてを受け止め、犯罪者のようにして、十字架につけられ死なれた主イエスを覚えるために。

この、神をさえ捨てるという、人の偏見、思い込みの罪の極まった十字架が、

わたしたちをその罪から救う、神の恵み、神の憐れみの奇跡となったことに、

わたしたちの心の目は開かれ、目覚めました。


この十字架という悲惨な出来事こそ、わたしたちの思い込みを打ち砕く、神の憐み、奇跡であったのだと。

心の目が開かれたわたしたちは、

今、このサマリア人のように、神の奇跡に、感謝を捧げるため、ここに集っています。

この十字架をしっかりと見つめることで、新しい年を始めましょう。


この新しい年も、曇りなく、まっすぐに、神が与えてくださった、すべての出来事、出会いを見ることができますように。

隣の人を、家族を、曇りなく、偏見なく、まっすぐに見ることができますように。

 すでにそこかしこに満ち溢れている、神の愛の奇跡に、気づき感謝をささげる、わたしたちとして下さいますように。


この祈りと願いをもって、新しい2017年を共に歩み出していきましょう。