「心を合わせて祈る仲間に(花小金井キリスト教会5月28日主日礼拝メッセージ)

使徒言行録1:12-26

 すがすがしい天気のもと、今週もここに体を運ぶことができました。
同じ空気、同じ時間、同じ霊、「聖霊」に満たされ、導かれてここにあることの幸いを思いますし、同じ聖霊が、今日、ここに体を運ぶことのできない人々とも、繋いでくださっていることを、信じています。

 今日は、また、聖霊に導かれて、はじめてわたしたちの教会に来てくださった方がおられますね。感謝です。

 牧師の話は、最初はよくわからないと思いますけれども、何度も聞き続けていればちゃんとわかるようになりますし、スルメいかのように、噛めば噛むほど、聞けば聞くほど、味がでますから、あきらめないで、礼拝に来てくださいね。

 はじめて来られた方はもちろん、なんども足を運んでおられる方も、きっと、ご存じないと思うのですけれども、この花小金井教会が、日曜日に最初の礼拝を始めて、今年で50年なんです。先週そのお話をいたしました。

こうして当たり前のように、新しい会堂があって、牧師がいて、毎週教会に集ってくる人がいるように感じていますけれども、決してこれは当たり前じゃないんですよ


以前、ある男性から、こういうことを聞かれたのです。

おたくの教会も、親会社とか子会社みたいに、上の組織とかがあるんでしょ。つまり、そういう上の教会というのがあって、そこからお金がきたり、牧師が派遣されてくるんでしょ、と言いたかったと思うんですね。

みなさんのなかにも、そう思っている方がおられるかもしれませんね。

でも、わたしたちバプテスト教会は、そんな上とか下という、教会はないのです。

どのバプテスト教会も、そこに集まっている人たちだけで、自主運営している。完全独立なんです。

だから、みなさんが全員来週から「もう、教会に行くのやーめた」とおもったら、花小金井教会は、消滅するんですよ。わたしだけが壁に向かって説教していても、それは教会ではないからです。

最初は、本当に、なにもないところから、教会は始まるのです。日曜日に礼拝を始めましょうと、仲間があつまってきて、でも、最初は、人数も少なくて、たとえるなら、生まれたばかりの赤ちゃんのようなものだから、ほかの教会が、お母さんの役をして、いろいろ手伝ってくれますけれども、でも、やがて人が集まってきて、自分たちだけで、牧師もよんで、教会の活動ができるようになったら、独り立ちする。

今まで、たくさんの人々が、この花小金井教会の礼拝にきて、教会を愛して、イエス様の愛にこたえて、自分の人生を捧げてきて、50年のあいだ、ここに教会は立ってきました。

礼拝に来る何の義務もないのにですよ。なのに、50年のあいだ、いちども、日曜日の礼拝が途切れたことはない。

これは人間の努力とか、頑張りではありえない。復活のイエスが、目に見えない聖霊として働き、ひとりひとりをここに招いておられるという、動かぬ証ではないでしょうか。

今日も、ここで礼拝をしていることこそ、イエスが生きておられる、聖霊が働いておられる証でしょう。

今日、はじめて来られた方も、その聖霊に導かれかたこそ、ここにいます。


わたしが今、花小金井教会の牧師であるのも、そういうことです。

上の組織から、「おまえ、次は花小金井教会にいけ」と言われたわけではありません。

数年前に、当時山形にいたわたしを、花小金井教会の方々が探しだして、牧師へと招いて下さったわけです。

でも最初は、わたしはそのお話を、お断りしました。その時している働きを止めることはできないと、考えたからです。

しかし、なぜかそこで話が終わらず、もう一度お話をいただくことになり、わたしは祈りました。神様の御心はどこにあるのか。自分の考えていることをこえて、人の心をすべて知っておられる主の御心は、どこにあるのか祈りました。

そして、結局、自分の考えを超えて、主なる神さまから招かれたことを信じて、聖霊の導きと受け止めて、決断して、今、わたしもここに立っているわけです。


 さて、先ほど朗読された使徒言行録のなかで、死んでしまったユダの代わりに、だれかを「使徒」として立てなければならないと考えた弟子たちは、

まず、イエスさまと生活を共にした人から二人を選んだのですが、最後に、その「ヨセフ」と「マティア」の、どちらの人を選んだらいいのか、最後の決断を迫られた時に、彼らがなにをしたのか、ということが書かれています。

最後の最後に彼らは、こう祈ったのでした。

「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちどちらをお選びになったかを、お示しください」と。

そして「くじ」を引いて「マティア」に決めたのでした。

この出来事が示しているのも、神様を信じているわたしたちが、なにか決断するというとき、考えに考えて、しかし、最後の最後は、

自分の考えとか、損得勘定とか、合理的な判断さえ越えて、

「すべての人の心をご存じである主」に祈り、示された道を選ぶということ。

そういう人々の集まりが、教会なのだということを示しているのでしょう。


そうであるからこそ、人間が「主」ではなく、神こそが「主」であると言えるのですから。それこそが、神を礼拝する教会であるわけですから。


さて、そもそも、主イエスが天に昇られて、残された11人の弟子。後に最初の教会の指導者になっていく彼らは、


決して信仰的に、立派な人々だったというわけではなく、むしろ信仰において、頼りない人々であったことを、わたしたちは知っています。

この使徒言行録を書いたルカが、彼が書いた「ルカによる福音書」のなかで、そのことを赤裸々に書き記していますね。

エスさまが権力者達に捕らえられ、大祭司の家で尋問を受けていたとき、弟子のペトロはその大祭司の庭にまでやってきながらも、そこにいた女性から、「この人も一緒にいました」と指摘されると、恐れてしまい、「わたしはあの人を知らない」と3度も言った。裏切ってしまった。

弟子のペトロも、ほかの弟子達もみな、イエスさまを裏切り、見捨てて逃げた。イエスさまが十字架に付けられていたとき、誰一人、男の弟子たちは、イエスさまのそばにおらず、逃げかくれていた。

むしろ、イエスさまの後についてきていた女性たちこそが、苦しむイエスさまを遠くからもしっかりと見つめ、葬られたイエスさまのご遺体を、まっさきに手入れしようと墓に向かったのは、女性達だった。

そう「ルカ」は福音書にしっかり記しているでしょう。

そんな、逃げかくれていたペトロたちが、最初の教会の指導者、使徒として立てられていくのです。

こんな人事は、この世の常識では、普通考えられない。

また、もしも、新しい新興宗教を始めたいのならば、その最初の指導者達は、ぬかりなく教祖の教えを行ってきた、立派な人たちでなければ、信者はだれもあとについてこないでしょう。

しかし、最初の教会では、そうならなかったのです。むしろ最初からイエスさまと行動を共にした弟子達。逃げてしまった弟子達が、最初の指導者となっていった。

こんなことがなぜ起こるのでしょう。それはただひとえに、十字架についたイエスは、復活なさり、弟子たちにあらわれたからです。

復活こそが、すべてのひっくり返してしまった。復活したイエスさまとの出会いが、逃げかくれ、自分に絶望し、生きていく目的さえ見失っていたはずの弟子たちを、もう一度立ち上がらせた、奇跡だったから。

「主イエスの復活の証人」それこそが、教会の最初の指導者たち。使徒と呼ばれる人たち。

今や、自分たちをその絶望から救い出した、イエスさまの復活の「あかし人」「生き証人」として、彼らは教会の指導者「使徒」に立てられていくのです。

そして、あの逃げかくれていた弟子たちは、やがてそのほとんどが、イエスは復活したと語りながら、殉教していくことになるのです。彼らは最後まで、「イエスは復活し、今もいきている」と、復活を証することをやめませんでした。

ペトロたち弟子たちは、本当に、復活のイエスに出会った。これ以外に、わたしたちはこの弟子達の変化に対する、答えをもっていません。

復活のイエスに出会う。それは、自分に失望し、絶望し、生きる目的を見失った人を、その絶望の淵から立ち上がらせ、新しい使命、新しい命を与え、生き返らせる、神の奇跡。

復活のイエスに出会う。ここにわたしたちの希望があります。

一方、主イエスを裏切ったことでは同じはずのユダは、自分に絶望したまま、自分で自分の命を絶ってしまったのでした。

ペトロが今日の箇所の中で、ユダの悲惨な最後について語る、「はらわたが出てしまった」という表現は、実になまなましく、聞くに耐えない、辛い言葉です。

しかし、それを語るペトロ自身も、かつてイエスのことを知らない、と裏切っている。

これは、どちらの罪が重いとか軽いという話ではないのです。

ペトロとユダを、決定的に分けた、分水嶺こそが、「復活のイエス」との出会いであったのです。

「復活」のイエスと出会ったペトロと、「絶望」にとりつかれ、復活のイエスに出会う前に死んでしまったユダ。

同じようにイエスさまを知り、従ってきた二人の大きな分かれ道の真ん中に、「復活のイエス」との出会いがあるのです。


キェルケゴールという哲学者は、「死に至る病」という有名な本の中で、「死に至る病とは絶望である」「絶望とは罪である」と言います。

彼は言います。死に至らない病は希望に繋がっていくが、死に至る病は絶望なのだと。
絶望とは、自己の喪失であり、神との関係の喪失。つまり絶望こそが「罪」なのだと。

あの、芥川龍之介太宰治も、聖書をよく読み、キリストを求めながらも、最後は自分で自分の命を絶ってしまいました。

鋭い感性で、人間の罪を見つめ続けるだけなら、最後には、人間は絶望に至ってしまう。

しかしその「絶望」の先に、たしかに広がる希望があることを、「復活」があることを知った人は幸いです。

主イエスは死からよみがえり、今も生きておられることを、

わたしのなかで、わたしたちのなかで、教会という集まりの中で、今も生きておられ、この世を神の国へと導いていると、信じて生きる人は、幸いです。実に幸いです。

その人は、今を生きることが、死に向かうむなしい営みではなく、永遠の命へ、神の国へと至る、素晴らしく価値ある日々であることに、目覚めているのですから。

しかしそれではユダは、滅んでしまったのでしょうか。

人間のわたしたちには、すべては分かりません。ただ、ペトロの口を通して、使徒言行録が告げているのは、ユダについては、「聖霊」がダビデの口を通して預言していた。つまり旧約聖書の「詩編」のなかで、ユダは、このような「役割」を生きることが、語られていた。

そして人間の思いや考えでは、とうてい理解できなくても、聖書の言葉は実現しなければならなかったのですと、ペトロは語ります。それは、あのイエスの十字架の苦しみも、死も、そして復活も、すでに、旧約聖書に預言されていた、人の思いを遙かに超えてた、神の救いの計画の成就であったように。

人の目には、失敗の人生、辛い最後にみえようとも、すべての人は、神によって生まれ、神に導かれ、神の計り知れない計画の中で、生きたという、そのかけがえのない存在の価値は、一ミリもかわりらない。いや、かわれない。すべての命は、神に生かされ、神に招かれている命であるのだから。

今、生かされている、残り少ない地上の人生のなかで、今、どのような状況の中にあろうと、自分の内側に、復活のイエスを、今も生きておられるイエスの力と愛と希望を感じながら、神の愛にいかされつづける、復活の証人として、わたしたちは、共に祈り合い、支え合い、この地上の旅路を、生きぬいていきたい。

この最初の弟子達も、女性達も、共に集まり、心をあわせて熱心に祈っていたと、14節に書いてあります。

かつて弟子たちは、一緒に心を合わせて祈り合うような間柄ではありませんでした。

エスさまとともに歩んでいたころの弟子たちは、だれが弟子達のなかで、一番偉いかと競い合っているような、関係だったのです。心を合わせて祈っているような場面は、福音書の中に一度も出てきません。

3年近く彼らは、すべての行動を、寝起きをさえ共にしていたし、沢山沢山、語り合ってもきたでしょう。

しかし人は、直接相手の心を、決して知ることも、わかり合うこともできないのです。

だれも、ユダの心がイエスさまから離れていたことを、知ることは出来なかった。人は人の心を知ることはできない。離れていったユダの心も、そして、自分で自分の命を絶たなければならなかったユダの心も、

弟子達も、そして、私たちも、だれも知ることも、わかることもできないでしょう。

苦しんでいる人が求めるもの。それは「自分を分かってくれる人」ではないでしょうか。

人生の最期が近づき、苦しんでいる人がいるとき。私たちは、なにか助けてあげたい、力になりたいと思えば思うほど、よけいなアドバイスや励ましをしてしまいます。

「生きていても仕方がない」「死にたい」という人に向かって、

「人の命は地球よりも重くて大切なんですよ」とか、「生きたくても生きられない人だっているんですよ。元気を出そう」などと、言ってしまうかもしれません。

そんなことばを言われた人は、きっと「あなたに何が分かる」と心を閉ざすでしょう。
人は、「自分の気持ちが分かってもらえない。理解されない」と感じれば、心を閉ざすものです。
人は、自分のことを理解してくれる。わかってくれると思う人にしか、本当の心の内を、はなさない。
しかし悲しいことに、人間は、完全には、人の心をわかることはできない。
分かろうとする、共感しようとする、苦しみや悲しみを想像して、泣くことさえ、できるかもしれない。

しかしそれでも、人は完全に、他者の心を知ることは出来ません。

心の痛みを、悲しみを、人はすべて知って、わかり合うことはできません。

ただ唯一「すべての人の心をご存じの主」だけは、主イエスだけは、

私たちの心を、すべて知っておられる。知っていてくださる。

それは、あのユダの心のすべてをさえ、主は知っていてくださったはずなのです。
ユダもまた、主に愛され、選ばれた弟子であったのだから。

人は互いを、知りわかり合えないかもしれない。

しかしそれでもなお、人が互いを信じあい、愛しあい、共に生きていくことを諦めないのは、
心のすべてを知っていてくださる主が、わかり合えないでいる、わたしたちひとりひとりを、神の愛によって、繋いでくださっているからではないですか。

その証として、今、あの弟子たちは、共に主に向かって、心を一つにして祈っているのです。
祈り合うことなどしなかった彼らが、今や心を一つにして祈る仲間になっている。

そしてその10日後に、彼らの上に聖霊が降り、教会が誕生していくのです。

聖霊は、心を一つにして祈り合う仲間の上に降り、お互いを繋ぎ、そこに教会が生まれたのです。

教会。それは、聖霊によって、心を一つにして祈り合う仲間。

直接には、互いにわかり合えなくても、知り合えなくても、

すべてを知っていてくださる主に祈り、心が一つになる喜びを知っている仲間。

主にあって、主において、共に分かち合う喜びを、知った仲間。

わたしたちは、今も確かに、互いを繋いでくださるイエスは、いきておられると、

証する仲間であるのです。