「今の苦しみなど取るに足りない希望」(花小金井キリスト教会5月21日夕礼拝メッセージ)

ローマの信徒への手紙8章18節〜30節
 わたしは51才なのですけれども、40才を過ぎた頃から体の健康の管理に気を遣うようになりまして、特に食べ物に気を遣うようになりました。若い頃は、何を食べようと気にしなかったのですが、ある時から体調が悪くなり、病院にいってもよく原因がわからず、いろいろ悩んで調べて、行き着いたのは日々の食べ物に気をつけるということ、ストレスを抱えないようにするということ、よく眠ること。運動すること。当たり前と言えば、当たり前ですけれども、この生き物としての当たり前のことが、バランスを崩していく時、体は悲鳴を上げることで、バランスを戻そうとしているのだということ。

 風邪を引くと熱が上がるのも、熱を上げることで体の免疫力を高めて、体内に入り込んだウイルスと闘おうとしているわけです。そうやって体のなかには、バランスを取り戻そうとするプログラムが、神さまによってちゃんと備わっている。不思議です。

 そのことを知らないままに、安易に解熱剤で熱を下げてしまうと、体がウイルスを追い出して、体に調和を取り戻そうとする働きの、邪魔をすることになる、ということに、気がついた人は安易に薬に手を出さずに、神さまが与えてくださっている自然治癒力を高めるほうに、意識を集中するわけです。

 人間の体は非常に良く出来ていて、その仕組みを知れば知るほど、そのデザイン、設計図をDNAに書き込まれた神さまをあがめずにはいられなくなります。

 それは、人間だけではなくて、すべての生き物が、それこそ単細胞のアメーバーでさえも、完全にデザインされていて、だからこそそのままの形で、何万年も生き続けているわけです。アメーバーは別にそれ以上進化しなくても、それで十分生きていける完成形であるわけです。そうでなければ、生き残れないのだから。それはこの世界の数え切れない生物のすべてがそうであって、それぞれの生き物は、すでに完全な形として、ユニークな形としてそこにある。
わたしたちは、それは、神がそのように創造なさったと、聖書の言葉から信じているものたちです。

 聖書の冒頭、旧約聖書の最初で、「神が天と地を創造した」と宣言して始まる、神とこの世界の関係を、信じています。つまり、その関係とは、創造主と被造物の関係だ、ということです。


 今、朗読したローマの信徒への手紙を書いたパウロも、神とこの世界の関係を、創造主と被造物の関係で見ています。

つまり、「神」というものを、ある特定の宗教。「●●教の神」と、人間が決めた枠組みの中に、閉じ込めないのです。パウロはそもそも、この時、キリスト教を広めているとは思っていなかったでしょう。イエスさまも、そして弟子達も、自分たちが広めているのは、「キリスト教」の神だと、そのように考えてはいなかったはずです。

 キリスト教というカテゴリー自体、そもそも後の時代につくられたのであって、パウロキリスト教という宗教を始めようと思っていたのではなくて、旧約聖書が語っているこの宇宙を無から創造した、想像主を信じ、その想像主である神は、今や、復活したイエス・キリストにおいて、この罪によって、神と人、人と人とが、分断されてしまった世界を、共に生きる世界へと、神の国へと、救いだされるのだという、「福音」を、よき知らせを告げているわけです。

つまり、パウロは、沢山の宗教がある世界の中に、またあらたに、キリスト教という、新しい宗教で新規参入して、信者の獲得合戦をしようとしているわけではないのです。

わたしたちは、つい、自分の救いという、個人的な救い、という視点で宗教を見てしまって、あっちがいい、こっちがいいと、宗教のショッピングをしがちだけれども、

聖書はそもそも、個人の救いという、信者獲得合戦に参入するために書かれているのではなく、この全宇宙を無から創造した神がいること。この主なる神は、ご自分が造られた世を愛していて、神に背いて罪に縛られてしまった、この世界全体を、丸ごと神の国へと救いだすという、壮大な計画を、すすめているのだ。


この視点。つまり被造物の救いという視点で、パウロは救いを語っているのです。

そもそも、このわたしが、救われればいい。あの人、この人は、救われなくてもいいという、エゴイスティックな救いは、救いではないでしょう。

あなたが救われないなら、わたしも幸いではない。あなたが救われるなら、わたしも救われる。そういう救いでなければ、つまり、自分は救われたけれども、ほかの宗教や、キリスト教の文化に生きていない人は、救われないという救いは、この宇宙を想像した、神の救いと、そもそも言えるのですか、ということです。


仏教の世界に生きる人、イスラム教の世界に生きる人、様々な宗教、文化のなかにいきる人、さらに人間だけではない、全被造物を、創造主である神は、愛し、目的をもって、造られたのではないか。滅ぼすためにつくられたというなら、そういう神が、愛であると信じることは、難しいではないですか。

この宇宙すべての神の被造物を、意味あるものとして創造し、愛し、救おうとなさっている。それが聖書の神ではないですか。

そして、そのような神様と、わたしたちは、イエスキリストを通して、親しい関係に入れていただいている、というか、神の愛は変わらないけれども、私たちの心の目が、キリストにおいて開いたわけです。

そういう意味で、わたしたちは、神に愛され、救われていることに、気づいた。そしてやがてこの全宇宙は、被造物は、神によって救われるという、壮大なるスケールの救いのストーリーの、一部を担うものとして、生かされていることに、気づいていく。

わたしが救われるとか救われないとか、そういう小さな話ではない、大きな救いのイメージをもちたいのです。


さて、パウロは言います。被造物はうめいており、産みの苦しみを味わっていると。

被造物が虚無に服している。むなしいものとなっている。滅びに縛られ、隷属されている。それは、始めに神によってよいものと創造された被造物の世界に、最初の人アダムによって持ち込まれた、罪によってそうなってしまったとパウロは理解しているのでしょう。

本来、神の創造した世界は、調和を保った美しい世界であった。それを象徴しているのが、アダムが置かれた「エデンの園」であったとすれば、今、その「エデンの園」から人は追い出されて、さまよう人となった。

聖書は、そのさまよう人から、救いを始めようと、後にアブラハムを選び、アブラハムの子孫であるイスラエルの民を通して、この世界を救うという壮大な計画を実行に移されるわけです。そして時至って、イスラエルの子孫から、イエス・キリストが生まれ、このキリストの十字架と復活によって、この世界の根源的な罪は、打ち砕かれてしまった。そして、この世界は今は、イエスキリストが、聖霊として宿る、神の器となった。

今、私たちのなかに、イエスさまは、聖霊として宿っている。それは、やがて完成する「神の国」に向けて、この世界を導く神の霊として、この世界は、被造物は、イエスキリストを、宿すことによって、決定的に神によって救われる道を歩み始めた。

だから、パウロは今日の箇所の冒頭で言います。

「現在の苦しみは、将来私たちに表されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と。

今、この世界は、宇宙は、神によって救われていくプロセスにある。ただ、そのプロセスは、産みの苦しみなのであって、子どもを産む女性が「うめく」ように、苦しみの中を、しかし、やがて生まれる喜びを信じて、忍耐して待ち望む道なのだと、パウロは語るのです。

その希望は、まだ目に見えていない。赤ちゃんは生まれてくるまで、目に見えないのと同じです。でも、生まれてくるのは確かなのだ。なぜなら、こんなに陣痛があり、痛い思いをしているのだから、うまれてこないわけがない。そのように、今の苦しみがむしろ、目に見えない将来の希望への、確かな証拠にさえなるように、パウロは25節で、「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるのなら、忍耐して待ち望むのです」というのです。

わたしたちも同じでしょう。今、目に見えているものは、むしろやがて目に見えなくなっていく。なくなっていくのです。人も物も、あらゆる目に見えるものは、たった100年後には目に見えなくなっているんじゃないですか。なくなっているのではないですか。

しかし、反対に、100年後には、今、目に見えていないものによって、世界が埋め尽くされているかもしれない。
100年前には、携帯電話もスマフォもなかったでしょう。その時代の人々に、スマフォを見せて、離れた人とテレビ電話でもやって見せたなら、きっと、魔法使いだと思われるに違いない。そんなものを、今、一人一台もっている時代なのです。100年前の人の目に、そんな世界が見えていたわけがない。

今、目に見えないものこそが、やがて実現していく。やがて神の国が完成するときには、今、目には見えない、想像さえできない素晴らしい世界が、わたしたちを待っているに違いない。
しかし、それは平穏無事な道のりではなくて、生みの苦しみであり、「うめき」なのだとパウロはいいます。確かにこの世界の歴史を振り返った時、この世界は沢山の「うめき」声を上げながら、目に見えなかったものを、生み出していった、神の歴史だったと思う。

クリスチャンと呼ばれる人々も、沢山の失敗をしてきたでしょう。迫害されることもあったけれども、異教徒を迫害することも、弾圧することも、戦争することもあったでしょう。神の名をかざしながら、差別を助長することもあったでしょう。

神が愛し、創造された全被造物が、共に生きる世界ではなく、自分たちがかってに枠を決めて、その枠組みの中にいる仲間の繁栄を祈り、枠組みの外にいる、異教徒とか、外国人とか、そういう人々を、むしろ敵にして、呪ってしまったこともあるでしょう。

わたしたちは、どう祈ることが、神さまの御心なのか、わからないものなのです。雨を求めて祈っている、農家の人の心を知らないまま、明日の運動会は、天気になってほしいと祈ったりするのが、人間だから。

パウロは26節で、わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、「霊」自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださる、といいます。

また28節からは
神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。と言います。

弱く、限界ある私たちのために、聖霊が執り成し、失敗も含め、万事が益となるように、主が働いてくださり、尻ぬぐいをしてくださる。

だから大丈夫なのだ。

ここに、希望を抱きましょう。

わたしたちは、神が完成へと導かれていく、神の歴史の中にいきているのですから。

それは、産みの苦しみのゆえに、うめきながらの道のりだけれども、わたしたちは一人でいきているのではなく、主イエスの霊が、聖霊が共にいて、共に苦しみ、共にうめいて、

ちゃんと、新しい希望を、命を、出来事を、生まれさせてくださいますから、忍耐して待ち望みます。

わたしたちの教会は、今どうでしょうか。新しいなにかが生まれるまえの、生みの苦しみの時でしょうか。

ひとりひとりの人生においても、どうでしょうか。今、辛い時期だと感じているのなら、それはむしろ、今まで思いもしなかった、新しい何かが、生まれようとしている時期を、過ごしているのではないですか。

これから、この日本も、世界も、生みの苦しみ、うめきの時代に入っていくのかもしれませんけれども、それは今までもなんども、そういう時代を通ってきたし、それは必ず新しいよきものを生み出してきたのだから、わたしたちは希望をもって、忍耐します。

そしてパウロを一緒に、わたしたちもこう告白したいのです。

18節
「現在の苦しみは、将来私たちの表されるはずの栄光に比べると、取るにたりないとわたしは思います」と