使徒言行録14章8節〜18節
寒い日が続いていますね。体調が優れずに、この場に来られないかたも覚えています。
一回一回の礼拝が、当たり前ではない神様の恵みの時。そう信じて、感謝しつつこの時間を過ごしたいと思います。
さて先週から、再び使徒言行録を礼拝で読み始めています。
飛び飛びにはなりますけれども、3月まで、この使徒言行録から、メッセージを聞き取っていきたいと願っています。
主イエスが十字架につけられ、三日目に復活なさった。
この主イエスこそ、メシア、キリストです。
この方を信じて、あなたも救われよう。
そう語り始めた、イエス様の弟子たち。
イエス様が十字架につけられた時には、逃げ去っていた弟子たちが、まるで人が変わったように、逃げも隠れもしないで、福音を語り伝えた、その様子が記されている使徒言行録。
弟子たちを導く、聖霊の活き活きとした働きを感じさせられる、この使徒言行録。
先週の礼拝では、教会の指導者の一人、ヤコブが、ヘロデ王に殺され、またペトロもヘロデに捕らえられたという出来事を読みました。
生まれたばかりの教会にとって、指導者が殺され、また捕えられるという出来事は、どんなにショックだったことかと思います。
この時代に、そんなことが起こったら、教会は解散してしまうんじゃないか。そう思います。
ところが、最初の教会は、その苦難をきっかけに、むしろ一つとなって熱心に祈ったのだと、報告されているのです。
迫害という苦しみは、憎しみではなく、祈りを生み出したのでした。
それは、主イエスの十字架の苦しみ、受難が、苦しみでは終わら、復活の喜びに至ったように。
教会の歩み、この世界に福音が広がっていくプロセスも、
なんどもなんども、小さな十字架と復活を繰り返しつつ、進んでいくのでしょう。
わたしたちの人生もまた、小さな十字架と復活を繰り返して進む、人生。
私たちが信じる、福音信仰の中心こそ、この「十字架と復活」であるのです。
苦しみと喜びが、一つとなる神秘。ここにわたしたちの信仰のユニークさがあります。
苦しみだけでも、喜びだけでもない。十字架と復活は一つ。
十字架と復活というのはもはやまどろっこしい。思い切って繋げてしまって、「十字架復活」といいたい。
「十字架復活」どうですか。もう切り離さないで一つにしてしまいましょう。
この信仰に生きるわたしたちは、目先のご利益のために、自分が得するために、熱心に祈る信仰とは、違うのです。
むしろ福音を信じることで、自分が損をしたり、苦しむこともあるかもしれません。
かつて、クリスチャンを迫害していたユダヤ人の「サウロ」もそうでした。
エリートで、社会的立場もあった彼は、クリスチャンの信仰はおかしいと、迫害していたその矢先に、
復活の主イエスと出会うという体験をしてしまう。
その結果、やがて自分がかつては迫害していたクリスチャンとなり、ユダヤ人から迫害を受ける側になってしまう。
名前も、サウロから「パウロ」に変わりました。
さて、今日の聖書の箇所は、その「パウロ」と「バルナバ」という、教会の2人のリーダーが、異邦人に福音を伝えるための伝道旅行を始めたころの、お話です。
パウロは全部で3回、伝道旅行をしました。これはその第一回目です。今のトルコの真ん中あたりを巡った旅でした。
先ほど読まれた、このリストラという町にたどり着くまでにも、福音を語り伝えたパウロは、ユダヤ人から口汚く罵られ、憎まれたと書かれています。
また、このすぐ後には、ユダヤ人たちからパウロは、石を投げられ殺されそうになるのです。
なぜ、そうまでしてパウロ、主イエスをつたえずにはいられないのか。
しかも、当時は電車も自動車もない時代です。
徒歩で数千キロをあるくのです。このパウロを変え、突き動かした不思議な「力」に、わたしたちは聖霊の働きを見ます。
そして聖霊は今も、わたしたちの教会に働きかけ、導いておられると、信じます。
さて、パウロとバルナバがやってきた、このリストラという町に、足の不自由な男性が座っていました。
生まれつき足が悪く、まだ一歩も歩いたことがなかった。と書かれています。
実は、生まれつき足が不自由な方が出てくるお話は、使徒言行録の3章にもあるのです。
底においても、うまれつき足の不自由な男性が登場します。彼はエルサレムの神殿の、門のそばに置かれていたのです。
そこに通りかかったペトロとヨハネが、彼をじっとみて言いました。
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレのイエスキリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」
そして彼はその言葉を信じて立ち上がり、歩き始めたと書かれています。実にこのリストラでの出来事と似ています。
今日の箇所では、パウロが彼に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」といったという言葉が印象的です。
「自分の足でまっすぐに立ちなさい」という宣言。そして、この彼は、「自分の足で立ち上がる」にふさわしい、信仰があったのだと、書かれています。
彼が経験した癒しとは、「自分の足でまっすぐに立つ人になる」という癒しなのです。
そういう意味でいうなら、福音を信じる信仰とは、「自分の足でまっすぐに立つ人になる」信仰ということができるのです。
それは体のことだけの話ではなく、神が与えた自分自身の人生を、自分の足でまっすぐに立って歩いていけるように、
福音を信じる信仰は、わたしたちを癒すのだ、とそういうことではないでしょうか。
物乞いをしていた人が、神を信じて、自分の人生へと立ち上がって歩き出したように、
このリストラの町の男性が、「自分の足でまっすぐに立ち上がって歩き出したように」
福音を信じる信仰とは、信じる人を、自分の足でまっすぐに立って歩み出す人へと、癒していく。
さて、引き続いて、この癒しの出来事を目撃したリストラの人々の反応はどうだったでしょうか?
「自分の足でまっすぐに歩み出す」ということが起こったでしょうか。
そうではありませんでした。むしろパウロとバルナバを、神様に祭り上げて、依存しようとしたのです。
群衆は言いました「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになったのだ」と。
パウロとバルナバを、それぞれ「ヘルメス」「ゼウス」と呼びました。これはギリシャ神話の神々の名前です。
当時こんな言い伝えがあったそうです。
ある女性が、「ゼウス」と「ヘルメス」の神が、人の姿をとってやってきたとは知らずに、その旅人をもてなした。
その行為によって、この女性は後に報いを受けたという、そういう言い伝えがあったそうなのです。
そこに、バルナバとパウロがやってきて、癒やしをしたのですから、このバルナバとパウロは、神の化身だと思い込んだのも、無理はない。
「ああ、神様が、リストラの町にもやってきてくださった。ちゃんともてなして、いけにえを捧げて、礼拝しよう。そうしないと、報われないかもしれない」そう思ったことでしょう。
当然、そういう動機があったでしょう。報われたいという動機があったでしょう。
宗教を信じる人の、その根底に、その動機があるでしょう。熱心に信じたなら、信じただけ、報われたいという動機があるでしょう。
そこで、その町の「ゼウス」の神殿の祭司たちまで、パウロとバルナバのところにやってきて、、いけにえを捧げ、礼拝しようとしたと書いてあります。
ここで何が起こっているのか、その本質を簡単にいうなら、こういうことです。
つまり、人間は、自分で勝手に、「神」を作り出して、自分が報われるために、拝むものなのだ、ということです。
もう一度言います。
人間は、自分で勝手に、「神」を作り出して、自分が報われるために、拝むものなのです。
それは、人間を造った「神」ではないのです。
人間が作りだした、「神」なのです。その自分が造った「神」に、自分から頭を下げているのです。
自分が報われるために。これが多くの宗教の原理です。
バルナバとパウロは、こんなことをする人々に驚き、服を裂きました。
ユダヤ人が「服を裂く」のは、「神を冒涜した」という怒りの表現でもあるのです。
「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間に過ぎません。
あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち返るように、私たちは福音を告げ知らせているのです」と言いました。
「偶像を離れる」とは「むなしいことを捨てる」と訳してもいい言葉です。
自分も同じ人間なのだ。人間は人間を救えないのに、
本当に救うことができる、神を無視して、人間を「神」にまつりあげて、すがろうとする、むなしさ。
人間は人間を救えない。
救いは神のもの。神の業。神の領域の出来事です。
さて、礼拝の前の朝の教会学校に出席された方は、今日は、マルコの福音書の2章を読まれたでしょう。
家の中で、神の言葉を語るイエスさま。
そのイエス様を囲む大勢の人々。
そこに病気の友人を担架にのせた、4人の男たちがやってくる。
家に入れない彼らは、屋根に上り、屋根に穴を開け友人屋根から釣りおろして、
友人を、イエスさまの目の前に連れてきたという、出来事でした。
さて、この4人の信仰を見たイエス様は、この病の人に、なんと言われたでしょう。
「あなたの病はいやされた」と言われたでしょうか。
そうではありませんでした。
「あなたの罪は赦された」と言われたのです。
それを聞いた、律法学者たちは心の中で憤慨します。
「神を冒涜している、神以外に罪をゆるすことなどできるだろうか」と思ったのです。
そうなのです。体の癒しよりも、なによりも
「罪を赦す」ことだけは、神にしかできないことなのです。
この自分を愛し、目的を与えて命を与えて下さった、神さまから離れ、迷い出ててしまった、的外れな生き方。
罪とはそういうことです。
イエスさまは、羊飼いから迷い出てしまった羊のたとえで、罪を語っています。
本来、神に愛されている子であるのに、
神に向かい、「天の父よ」と親しく呼んで、
神とともに、神に助けられながら、自分に与えられた人生を、自分の足でまっすぐ立って歩んでいけるのに、
神ではないものに、心がひかれて、
金や名誉や地位や、人間や、そういう目の前のものを、神様にまつりあげては、それに頭をさげて、振り回されて生きている、的外れな生き方。
「パウロ」自身も、かつて、「サウロ」だったときが、そういう的外れな生き方をしていたところから、
その罪を赦してくださる、神の恵みに出会って変えられたのです。
福音を信じるとは、この的外れな人生を生きてきた、罪を、赦してくださる、神の恵み。
主イエスの十字架と復活を信じる信仰にほかなりません。
人間は、こんな救いを与えることはできません。
神だけが、わたしたちを罪から救い、新しい人へと救い出してくださるのです。
神に愛されている自分へ、神に愛され、神と共に生きる、本当の自分へと、
神だけが、救い出せるのです。
しあkしリストラの人々は、パウロを「ヘルメス」と呼び、バルナバと「ゼウス」と呼び、
人間を神に祭り上げました。
教祖を探して、祀り上げて、その人に依存する。
自分の問題を、その人に何とかしてほしいと依存することは、
自分の人生を、自分自身の足で、立ち上がって、歩くことをやめてしまうことです。
自分で考えることをやめて、丸投げしてしまうことです。
今の日本も、誰かが救ってくれると、丸投げして、自分たちで考えることを止めていませんか。
国のリーダーたちを、「ヘルメス」や「ゼウス」の神に、祭り上げてはいけないのです。
それはかつて日本が、天皇を神に祭り上げて、天皇が救ってくださると、信じ込み、
命さえ捨てさせられた歴史に、逆戻りしてしまいます。
リストラの人々がしようとしていることの本質は、まさにそこにあるのです。
人を神に祭り上げて拝む。
それは、自分自身の自由を投げ捨ててしまうこと。
自分の人生を、だれかほかの人に支配させることです。
パウロは、そんなことをしようとするリストラの人々に、叫びつつ、こう言いました。
「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間に過ぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」
さらに、パウロは語ります。
「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です」と。
本当の神は、人間が造った神ではなく、人間を造った神。
この創造主こそを、神と信じ、立ち帰ること。
これこそ、本当の意味で、神に生かされている人生を、自分の足でまっすぐに歩いて行くことなのです。
創造主である神は、そのために、ちゃんとわたしたちに、すでにあらゆる恵みを下さっています。
パウロは言います。「天からの雨を降らせて、実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びでみたしてくださっているのです」と
青い鳥を探すように、どこかに神を探さなくてもいい。
今すでに、注がれている、神の恵みに気づ区だけでいいのです。
すでに注がれている、与えられている、与えられてきた、そしてこれからも与えられ続けていく、神の恵みに、愛に、ただ、心を開けばいいのです。
幸せは、どこかに探すものではなく、感じるものです。
今、神の恵みを感じるその時、わたしたちは、なにものにも支配されない自由に生き
自分の足でまっすぐに立ち上がって、生き抜いていけるのです。