「今日共にパラダイスに」(花小金井キリスト教会4月9日主日礼拝メッセージ)

shuichifujii2017-04-10


 今朝、教会に来られて、ロビーの雰囲気が違っていて、驚かれた方もおられるでしょうか。

主イエスの受難を覚える意味で、クリスチャンの画家の方から、絵画をお借りして、受難週の間、飾らせていただくことになりました。

 初めての試みでもありますし、とくに、正面の大きな絵は、腕っ節の強そうなローマ兵にいたぶられる、主イエスの姿が、とてもリアルに描かれていますから、心穏やかではいられないかもしれません。

 あの絵画に描かれている、すこし幼子のような顔をしたイエス様の姿を見て、イエス様のこんな言葉を、わたしは思い起こしました。

「この小さなひとりにしたことは、わたしにしたことなのだ」という言葉を。

 この世界のなかで、小さくされた人々、弱くされた人々に、したことは、わたしにしたことなのだと言われたイエスさま。

その言葉と、あの幼子のような顔の主イエスを、太い腕をしたローマ兵が、いたぶっている姿が、重なるのです。

強い者が、弱いものいじめて平気な世界。いたぶって平気な、病んだこの世界のなかで、

神の子である主イエスは、強い者の側ではなく、弱い者の側に、いじめる側ではなく、いじめられる側に、苦しめる側ではなく、苦しめられる側に、その身をおいておられる。共に苦しんでおられる。

そのような連想をさせられます。


 先週の礼拝では、「十字架につけよ」と叫んだ群衆のなかに、わたしたち自身の姿をみました。

自分が叫んでいる、主張。「イエスを殺し、バラバを救え」。その自分の正義が、なんと神の目に的を外した、残酷なものなのかが、わからないままの人々。

人はみんな、自分のしていることが、行っていることが、人を傷つけ、神の御心を悲しませていることに、気づけないものなのです。

自分が分からずにおかしてしまっている罪に、気づき悲しむ時、

しかし同時に、今日のみ言葉にある、十字架の上で祈られる、主イエスこの祈りを、

「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りが、なんと慰めであることか。そのことを深く思いました。

先週一週間を振り返ってみても、また感情的になり、言わなくてもいい言葉を、しなくてもいい態度をしてしまったことを、神はすべて知っておられるでしょう。

あのロビーに飾られた、腕の太いローマ兵のように、自分より弱い人を、傷つけていたことを、神は存じでしょう。

人は、自分より強い人のまえでは隠せても、弱い人の前でこそ、隠していた傲慢や、プライドが、現れ出てくるものです。

目下の人や、年下の人、部下や子ども、お店の店員に対する態度に、その人の本当の姿が、現れるように。

まったく無力なイエス様をまえに、人間の残酷さが、あぶり出されてきます。

十字架につけられ苦しむイエスさまを、議員たちは、あざ笑って、こういいます。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と

苦しむイエス様に向かって、さらに「自分を救え」と追い打ちをする議員。

それはまるで、あの福島から自主避難した人々は、自己責任。「自分で自分を救ったらいい」と、声を荒げた大臣のように。

ユダヤの議員は、十字架につけられ苦しむお方を、なお、言葉で苦しめる。

ローマの兵士たちも、古くなって酸っぱくなったぶどう酒を突きつけ、主イエスに言いました。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と

主イエスがつけられた十字架の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられていたからです。

神に選ばれたメシアなら、ユダヤ人の王であるのなら、自分を救ってみたらどうか。

そのように、寄ってたかって主イエスを侮辱し、馬鹿にした人間の言葉を、ルカは詳細に書き記すのです。

ルカは、主イエスの肉体的な苦しみについて、ほとんど書きません。十字架の横木に、太い釘で、手を打ち付けたはずなのに、そういう肉体的な苦しみについて、福音書はほとんど書きません。

むしろ、十字架につけられた主イエスの周りで、人々は何を言ったのか。その言葉の一つ一つ。言葉による暴力の事実を、克明に書き残します。

人は、言葉において深刻な罪を犯すから。

主イエスと共に、十字架につけられた、二人の犯罪人のうちの一人も、主イエスを罵っていいました。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。

この犯罪人も、十字架につけられ、苦しみと死の恐怖を味わっているのに、主イエスに向かって、「お前はメシアではないのか。救ってみろ」とののしってしまう。

人生の最後の時まで、誰かをののしることに、時間とエネルギーを使いきって終わってしまう人生とは、なんと不幸な人生でしょうか。

自分のおかした罪に向き合えないままに、主イエスを責めることで、自分のプライドを守らずにはいられない、人間の姿。

ああ、人はなんと自分自身の姿が、自分で見えていないのでしょうか。

この犯罪人が、何をしたのかはわかりません。十字架刑は、ローマ帝国に反抗を企てた指導者への、見せしめという面があったので、もしかしたら、ローマへの反乱を企てた人だったのかもしれません。

そうだとすれば、自分はユダヤのために、正義のために、神のために闘ったのだと、そう思っていたかもしれない。

神のためにローマと闘ったのに、神はなぜ助けてくれないのだと、神への怒りをぶつけているのかもしれない。

「お前がメシアなら、神の子なら、神のために闘った、我々を救え」と

いずれにしろ、ユダヤの議員、ローマの兵士、この犯罪人の一人のすべてが言ったのです。

お前がメシアなら、ユダヤの王なら、自分を救い、我々を救えと。

いったい、彼らが叫んでいる「救い」とはなんですか。

なにを指して、「救え」と言うのですか。

もちろん、それは、十字架から降りてきて、死ぬことから救われよ、ということです。

それが「救い」というものじゃないか。彼らはそういった。

苦難や苦しみ、そして死から「救う」。それが救いじゃないか。

あなたは、病気を癒やし、死んだ者をよみがえらせたじゃないか。

救ったじゃないか。同じように、自分も救ったらどうか。

十字架の上で、今、主イエスは激しい誘惑の言葉を、浴びている。

あの、主イエスが最初に活動を始めたすぐ後に、

サタンがやってきて誘惑した言葉を、思い起こします。

おなかがすいたら、石をパンに変えればいいじゃないか。あなたは、神の子だろう。

神殿の上から飛び降りても、神はあなたを守るんじゃないのか。

この世界を支配するために、来たんじゃないのか。わたしを拝め。

そのようにサタンは誘惑した。それこそが、「救い」というものじゃないかと。

この世のなかで、石をパンに変え、失敗から守られ、力を手に入れる。

それが救いじゃないか。そうサタンが誘惑したあの誘惑の声を

今、主イエスは人々の口から聞いている。お前は、神が選んだメシアなのだから、自分を、救え。出来るだろう。そこから降りて、ユダヤの王、世界の支配者になればいい。

それが「救い」だろう。

しかし、主イエスは十字架から降りませんでした。
ご自分を救いませんでした。わたしたちを救うために。

「救い」。それはいったいどういうことなのでしょう。
どうなることが、「救い」なのでしょう。

目の前の困難から、救うということが、聖書が伝えている、救いなのでしょうか。

主イエスは、いったいわたしたちを、何から救ってくださる、救い主、メシア、キリストなのでしょうか?

ルカの福音書は、十字架につけられた、もう一人の犯罪人の口を通し、その「救い」とは何なのかを明らかにしていきます。

十字架につけられた犯罪人のもう一人は、こう言いました。

「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方はなにも悪いことをしていない」

彼は自分を救えとも、我々を救えとも言いません。

むしろ、自分のやったことの報いをうけるのは、当然ではないかというのです。

この苦しみから、救われなくても、当然ではないかと、言ったのです。

自分がやってしまったこと、言ってしまったこと、傷つけてしまったこと。

それは、どんなに自分のなかに、正当な理由があっても、世間のせいや、時代のせいにしたいとしても、

自分がやったこと、言ったことの報いは、自分で受けるべきではないかと、彼はいったのです。

これは、驚くべき言葉です。なぜなら、今、この人は、

自分の視点からではなく、神の目から、神の視点から、自分の本当の姿を、ちゃんと見つめているからです。

周りの人はすべて、自分の目から、自分の視点から、自分の正義を主張しているだけ。

その自分自身の姿を、醜さを、自分では見ることが出来ないからこそ、主イエスを罵った。


しかしこの最後の人は、「自分のやったことの報いを受けるのは当然だ」と言った。

この人は、自分の本当の姿が見えている。この人は、自分の視点から離れて、神の視点から、自分をみつめている。

この視点の変化は、人間業ではありません。人間の努力で、こんなことは起こりません。人間は努力すればするほど、まじめな人ほど、自分は正しいと正当化するのだから。

この人はもう一人の犯罪人に向かって、「神をも恐れないのか」と言いました。

この人の目には、イエスを罵しる人々のしていることが、神をも恐れない行為であることが、ちゃんと見えている。

そして、主イエスのことも、「この方は、何も悪いことをしていない」ことがわかる、心の目が開いている。

心の目を開らく。それは人間業ではなく、神の業であり、神の恵み。

これこそ、神が救ってくださっている人の姿ではないでしょうか。

その神が救ってくださっている人の姿とは、

「自分のやったことの報いをうけるのは、当然だ」と言えるほど、自分の本当の姿が、罪が見えるようになった人であり、

それゆえに、主イエスに向かって、

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい」と、主イエスへの信仰を告白できる人。

今、無力に、十字架につけられている、この主イエスのなかに、

やがてやってくる、神の国の王の姿を、みることができる、心の目が開かれた人。

その神の国が来たとき、どうかわたしを思い出してくださいと、信仰を告白できる人。

ここに神の救いを受けている人の姿が、現れている。

この後、十字架につけられた主イエスは復活したと信じる人々、心の目が開かれた人々によって、教会が生まれていったとき、

その最初の教会を、激しく迫害した、サウロという人がいました。

クリスチャンを迫害し、殺すことさえ正しいことだと、神に仕えることだと信じて、迫害していたサウロは、ある日、復活の主イエスに出会い、目からうろこが落ちるようにして、心の目が開かれたのです。

そのサウロはやがて、使徒パウロとなり、手紙の中で言いました。自分は、罪人の頭なのだと。そして、今の、自分がいるのは、ただ神の恵みなのだと。

神が、心の目を開いてくださるなら、その人はすでに、主イエスと共に、パラダイスに、楽園にいることに、気づくでしょう。

「楽園」と訳されている、ギリシャ語のパラダイス。

詳しい説明はできませんけれども、仏教がいう、死んでからいく極楽のような、そういう場所のことではないのです。

もしそうなら、主イエスはこういわれたでしょう。

「あなたは今日、わたしと一緒に楽園に入っていくだろう」と

パラダイスとは、死んでから入っていく場所ではないのです。そうではなく、主イエスはこう宣言なさいます。

「今日、わたしと一緒に楽園にいる」と。

パラダイス。それは、主イエスが、共におられる現場のことです。

主イエスが、ともにおられる現実そのものが、パラダイス、楽園です。

やがて完成する、やってくるのが、神の国だとすれば、

今日、今、復活の主イエスが共におられることに目覚めた現場が、まさにパラダイス。

それは使徒パウロが、手紙の中で、

キリストを知る素晴らしさに比べれば、律法学者であったことなど、この世の名誉、栄光など、「ちりあくた」にすぎないとさえ、告白させるほどの、心の充足感を、喜びを、体験させる、今、ここに実現する、パラダイス。復活のキリストを知る喜び。

今日、今、置かれた場所で、味わっている苦難のなかで、
なにも変わらないようにみえる現実のなかで、

神はなぜ救ってくれないのかと、神などいるのかと、叫びたくなる現実のなかで、

主イエスと出会い、主イエスが共にいてくださることを知った人は、

今日、パラダイスにいる。

パラダイス。それは、復活の主イエスが共におられるところに、今日実現する喜び。

地上の命がつきて、眠りについたとしても、そこに主イエスがともにおられるなら、パラダイス。
そして、やがて終末の日、終わりの日がやってきて、主イエスが、王としてやってきて、神の国を完成させ、わたしたちを神の国に入れてくださる日がやってくる。

その、救いのために、主イエスは今、人々のすべての罪を、もう一人の犯罪人が叫んでいる、あの罵りの言葉の罪をさえ引き受け、すべての人の罪を背負い、

十字架のうえで死んで行かれるのです。

キリストの十字架のゆえに、この世界は、すべての人々の罪はあがなわれ、「救われ」たのです。

その神が実現した、神の救いというものに、わたしたちの、心の目が開かれさえすれば、

今、自分の状況が、世界の状況が、とても救われているとは、思えないほど、痛み苦しんでいるとしても、

その目の前の「救い」を超え、やがて実現する、神の「救い」を信じて、

今、キリストと共に、パラダイスにいきることができる。

神が赦し、神が愛し、神が救う、この神の恵みに、心の目が開かれさえしたら、

今、キリストが共にいてくださることさえ分かったら、

どんな状況であろうと、そこはすでにパラダイス。

あの二人の犯罪人の姿は、別々の人の話ではなく、わたしたちの一人一人の姿。

目の前の救いだけを求め、神に文句をいうこと、
つらい現実や、悲しい出来事を前にして、なぜ癒やされないのか、救われないのかと、文句を言うこともあるでしょう。

「メシアなら、自分を救い、我々を救え」といいたくなることもあるでしょう。

その叫びを、主イエスは、その鋭い言葉の数々を、主イエスは十字架の上で受け止めてくださり、赦してくださっている。

その恵みに、やがて気づくとき。
神の恵みが、心の目を開くとき、

わたしたちは、気づくのです。

自分は、いったい何をいっていたのかと、何をやってきたのかと。

神のまえの、本当の自分の姿に、気づき、悔い改め、

その罪を背負い、十字架の上で苦しむ主イエスを見上げさせていただくのです。

そのわたしたちの上に、主イエスのこの、力強い宣言が響くのです。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に、楽園に、パラダイスにいる」