ルカによる福音書2章1節〜21節
クリスマス おめでとうございます。
2017年のクリスマス礼拝を、ご一緒に、この場所で共に捧げられることは、本当に神様の恵みです。
わたしは、去年のクリスマス礼拝の日に、インフルエンザで寝込んでしまって、この会堂の後ろの2階にある、牧師館で寝ていたのですね。
場所が近いので、会堂から音が漏れ聞こえてくるんですよ。
ああ、始まったなぁ。讃美歌が聞こえてきた。
次は、バプテスマ式だなぁとか・・・
みんなで歌っているときだけ、多少、音が聞こえてくるわけです。
多少音が聞こえるというのは、嬉しいような、むしろ寂しいような、複雑な気持ちがするものです。
今は、インターネットで礼拝の風景を流す教会もありますね。わたしたちの教会も、そういうことを考える必要がありますねと、執事会で話しているところなのです。
最初に申し上げたかったことは、つまり、ここにこうして、体を運ぶことができるということは、決して当たり前ではないこと。神様にゆるされて、ここに集わせていただいて、クリスマスの礼拝をささげているということを、あらためて感謝したいからなのです。
それは同時に、今、ここに集いたいと思いながらも、集うことのできない一人一人の仲間を、覚えて祈りたいということでもあります。
今も、一人寂しく過ごしている方々に、病の中におられる方々に、
このますます生きにくさを増している、日本の社会で、心沈んでいる人々に、
この場所に来ることができた一人一人が、それぞれの場所で、
ここでいただいた喜びを、分かち合っていきたい。
それが、本当に価値ある、喜びに満ちた、クリスマスの過ごし方じゃないでしょうか。
わたしがそのことに気づかされたのも、去年のインフルエンザのおかげなんです。感謝しています。
さて、先ほどルカの福音書の2章が読まれました。
世界で一番最初のクリスマスの光景には、きらびやかな電飾もおいしいケーキも出てきません。
巨大な帝国ローマに支配され、「税金」と「兵力」を提供するために、住民登録をさせられた、ユダヤにいきる、ごく普通の若者。マリアとヨセフの間に、神は、主イエスをやどらせたのでした。
この闇の世を照らす、神の救いの光は、
実にひっそりと、目立つことのない、人が見向きもしないところに、
まるで隠すようにして、ともされたのです。
皇帝アウグストスという、人間の権力、力の象徴。
誰の目にも明らかな、この人間の栄光。人間が作り出した、偽りの救いの「光」が、この世界に満ちているこの時代に、
神は、本当にひっそりと、小さな小さなともしびを、マリヤとヨセフの間に、ともされた。
ルカによる福音書は、この人間の権力という「光」と神の救いの「光」を、実に鮮やかに、コントラストをはっきりさせて、私たちにつたえています。
この世界を本当に救う存在とは、
人を支配し、「税金」と「兵力」を提供させる者ではなく、
むしろ、ひっそりと、だれからも注目されない、小さな人々のなかにこそ、宿ったのだ。
これがクリスマスの大切なメッセージです。
もっとも、皇帝アウグストスが、住民登録を命じたからこそ、預言者が、その昔に予言していた通りに、
ヨセフとマリアは、ダビデの町、ベツレヘムに向かうことになり、そこで主イエスは、預言の通りに生まれることになるのです。
そういう意味でいえば、皇帝アウグストスも、実は、神に動かされて、この世界の救いのために、用いられた、一人の人だったと言えます。
歴史の主は神であり、どれほどその時代を席巻した王であろうと、人間は神に用いられているにすぎない。
それが、聖書の視点です。
大国バビロンも、アッシリアも、ローマも、みんなそうだった。
そして、どんな大国も、一瞬光っては消える、打ち上げ花火のように、やがてきえていく幻なのです。
草は枯れ、花はしぼむと、預言者イザヤはいいました。
そして人も、どんな国も、草や花とおなじようにしぼんでいくのだと。
しかし「神の言葉はとこしえに立つ」、とイザヤが預言した、
決して消え去ることのない、この世界を救う、「神の言葉」
主イエス・キリストは、
ひっそりと、貧しい夫婦の間に、宿ったのです。
そして、今も、主イエスは、時代を越えて、私たちの間に宿ってくださいます。
今、強いものはますます強くなり、弱いものはますます弱くされるような、時代の中で、
むしろ弱さのなかに、小さいもののなかに、消えることのない、過ぎ去ることのない、
神の救いの「光」を見ることができる人は、実に幸いです。
地上に生まれた時から、彼には、居場所がなかったといわれた、
この赤ちゃんは、やがて、その生涯の最後には、人々に見捨てられ、十字架につけられて、
死んでいかれるのです。
ほんとうなら、誰の記憶にも残らなかったはずの、この主イエスのなかに、
いつまでも消えることのない「神の、救いの光」を、わたしたちは見ることができたから、
今、わたしたちは、ここで礼拝しているのです。
そんな私たち一人一人の中にも、主イエスは宿っていてくださるのです。
そのことを信じて、わたしたちは共に、クリスマスを祝います。
世界が不安と恐れに満ちていようとも、
人間の罪、不正、暴力に満ちていたとしても、
神は、今日も、ひっそりと、目立たない人々の間に、
小さくされた人々のなかに、主イエスという、救いを宿らせてくださっている。
孤独のなかにある人の中に、神の救いを、主イエスを生まれさせてくださっている。
だから、大丈夫。この世界を神は救って下さる。
それが、今日の1つ目の、大切なメッセージです。
さて、二つ目のメッセージをお伝えしましょう。
ひっそりと、神が宿らせた救いは、
天使によって、最初に野宿をしていた、羊飼いに告げられました。
羊飼いのまえに、突如、天の窓が開いて、彼らは、メシアの誕生の知らせを聞くのです。
それは喜びの知らせです。大きな喜びを告げると、天使は言いました。
この世を救うメシアの誕生の知らせなのだから。
しかし、この喜びの知らせ受け取るために、羊飼いたちは、「非常に恐れる」という経験をしたのだ、ということは、あまり注目されないところです。
その個所をもう一度読んでみます。
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
これは、羊飼いたちが、不思議な光景を見たので、怖かったのだ、という話でしょうか。
そうではなく、ここで言われているのは、人間が、神の出来事と遭遇するという恐れなのです。
旧約聖書においては、人間は、神と直接、顔と顔を合わせるようなことはありえず、もしそういうことがおこったなら、その人間は死ななければならないということだったのです。
罪ある人間は、聖なる神の前に立つことはできない。たてば滅ぼされる。
そのような聖なる神にたいする恐れが、あった。
であるからこそ、ユダヤの民は、神を礼拝するために、まず、自分の罪の身代わりとして、羊などの命を、自分の身代わりとして、犠牲として捧げていたのです。
そうしなければ、神のまえに立つことなどできない。神を礼拝することなど、できなかったのです。
この、聖なる神の前に、人は決して立てないという、感性、信仰、神に対する畏怖。
ここで天使と遭遇した、羊飼いたちが抱いた「恐れ」とは、そういうものであったでしょう。
そして、この「恐れ」を知り、体験した人は、その後、その人生が大きく変わっていくものなのです。
宗教改革者のマルティンルターは、最初は、法律家になるために、ロースクールで学んでいたのだそうです。
しかしある日、大学に向かう途中の草原で、激しい雷雨にあう。
それは、今まで経験したことのない、恐ろしい雷でした。かれは、ここで死ぬと予感した。そして恐れのあまり叫びました。「助けてください。修道士になりますから」と。
この経験の後、その後親の反対を押し切ってルターは修道士になりました。
彼は、あの雷の中で、神との出会いをしたともいえるでしょう。その結果、彼はやがてこの世界を大きく変えることになる、宗教改革の中心人物となるのです。
あの有名な讃美歌。アメージンググレースを作ったジョンニュートンという人がいます。
彼は熱心なクリスチャンの母のもとに生まれながら、金目当てで、奴隷船の船長となったのです。
そんな自分に何の疑問な感じないまま生きていたある日、
舟が嵐にあい沈みそうになる。もうだめだと、死の恐れのなかで、彼は、わすれていた神に叫ぶ。
そして、嵐が静まった後、彼は違う人になった。やがて彼は奴隷船をおりて、神の愛を伝える牧師となる。
そして、アメージンググレースという歌をつくったのです。
「こんな罪深い私を赦してくださるとは、なんという神の恵みであろうか」という歌をうたったのです。
神との出会い。それは喜びの知らせです。しかし、それが本当の意味で、喜びとなるためには、
聖なる神の前に立たさえるような恐れ、試練。苦難がやってくることがある。
そこで、見えていなかった自分の姿を、みようとしていなかった、本当の自分の中の醜さと、向き合わされ、
自分に失望、絶望し、もう、死ななければならないほどの恐れの中を、通らさせられることが、あるのです。
その恐れのさきに、死ぬような絶望の先に、
天から声が響いてくる。
「恐れるな」という声を。
羊飼いたちは、その声を聞いたのです。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げるのだ」と。
神の栄光の光によって、自分の本当の姿、罪が照らされるという経験。
それは、わたしたちにとっては、思いもしない出来事と遭遇し、
怒りやねたみ、憤り、やっかみ、様々な悪い感情が、噴出してくるということかもしれません。
自分の心の闇が、神の光によって照らされるという、経験なのかもしれません。
神の前にたつことのできない、自分の心の闇を知らされ、恐れを感じたのなら、
その人は、実は、幸いなのです。
なぜなら、その恐れの只中にこそ、天からの、救いの知らせは、響いてくるからです。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」という、神の救いの知らせが、
その人にとって、本当に自分を救う、メッセージとなるからです。
すでに満ち足りてしまった心には、響かない、天からの救いのメッセージ。
「恐れるな。・・・あなた方のために救い主がお生まれになった」
この救いの宣言を、自分自身を、罪から救ってくださる、天からのメッセージとして、心に響く人は幸いです。
今日、あなたを救うメシアが、あなたの心にうまれたからです。
それが今日お伝えしたい、二つ目のメッセージです。
さて、このメッセージを信じた羊飼いたちは、この神の救い、神の愛の「しるし」を探しに、すぐに出かけていきました。
12節
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と、出かけたのです。
クリスマスとは、良い知らせを聞いて、信じて終わり、ではありません。
「恐れるな」「あなた方のために、救い主が生まれた」という、喜びの知らせを聞いたなら、
それがほんとうに、わたしを救う、神の救いであるとわかったなら、その人は、じっとなどしておれないでしょう。
聞いた知らせを信じたなら、その「しるし」を探しに、動き出さずにはいられないのです。
羊飼いたちは、主イエスを探しに出かけ、そして見いだしました。
信じて、求めて、探す人は、主イエスを見いだすことができるのです。
確かに、主イエスはこの地上に生まれたことを、
そして、今も、この生きにくい時代、不安な時代にも、救い主は、
人々の心の中に、生まれ続けてくださっていることを、
わたしたちは、きっと、見いだすことできるはずです。
2年前、わたしは、ある映画を見ました。
今、杉原 千畝(すぎはら ちうね)という映画です。
第二次世界大戦中、リトアニアの領事として日本から派遣された、杉原ちうねの物語です。
時代はナチス・ドイツが、この世の栄華を極めているかに見えた時代。
次々に国を侵略し、ユダヤ人を迫害していた時代。
欧州各地から逃れてきた人々。ソ連経由でして逃げ道を失い、隣のリトアニアに押し寄せ、ビザを求めて日本領事館にやってきたたくさんの難民の人々がいました。
大量のユダヤ人を受け入れることは、当時の情勢から難しい。でもうえの命令に反して、
ただ、目の前の人を救いたい一心で、大量のビザを発給し、数千人の避難民を救った、杉原ちうねの物語でした。
しかし、それは命令違反です。ゆえに、彼は外務省をやめさせられ、長い間、この出来事は、闇に隠されていたのです。
近年、この事実があらわとなって、名誉が回復し、映画になったのでした。
杉原は、ギリシャ正教の洗礼を受けた、クリスチャンです。彼の中に、主イエスは宿って、働いていたのです。
人々の目に隠されていたここにも葉、主イエスが宿っていたこと。救いのしるしを、見つかりました。
しかし別に、映画にならなくても、小説にならなくても、
約2000年前に生まれた、この世を救う救い主は、
今日も、誰にも知られないところで、一人孤独に生きる人のそばで、悲しみ涙を流す人々のそばで、
その人々と共に生きるために、救い主は今日も生まれてくださっているのです。
さて、今日、体をこの場所に運んで、共に礼拝をささげることができたわたしたちのなかにも、
主イエスは宿っていてくださいます。
そして、わたしたちのなかに宿られた主イエスは、わたしたちを導かれ、
だれの目にもとまらない、目立たない、孤独や悲しみある、ばしょへ、人々のところへ、
わたしたちを遣わされることでしょう。
「大丈夫。今日、あなたを救う方が、生まれたのだから」と。
希望と慰めを伝え、愛を分かち合うために、
わたしたちは、ここから、それぞれの場所に、遣わされていくのです。