「あなた方の中にある光」(2016年5月1日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

今日から5月になりました。教会のハナミズキの花も、もう散ってしまいましたね。

昨日は召天者墓前礼拝で、大型バスで、富士霊園まで行ってきました。途中、美しい富士山が見えた時には、思わず皆さん、賛美歌ではなくて、富士山の歌を歌い始められて、富士山というやまは、すごいなぁ。日本人にとって、特別な山なんだなぁと、つくづく思いましたね。

富士霊園も、実に美しく整えられていて、美しい花々に心癒され、都会とは違う新鮮な空気に、リフレッシュいたしました。

日ごろ、雑然とした日常の中にいきていると、心の中にいろいろなゴミがたまってくるものでしょう。

わたしはよく、ちゃんと話をきいていないでしょうと、妻に怒られます。そういうときは、妻の話を聞きながら、頭の中は、何かほかの考えでいっぱいなのです。
自分の考えを自答自問していたり、同じ考えが頭の中でぐるぐる回っているとき、人の話が耳に入ってこない、という経験は、みなさんにもあるでしょう。

話が聞こえてこないだけではなく、見えているのに、見えていないことがある。

わたしは10年ほど前、開拓伝道をしていた最初のころ、何ヶ月か落ち込んでうつっぽくなっていた時期に、妻と娘を乗せて車を運転していて、乗用車と接触事故をしたことがあるのです。ちゃんと目の前の状況を、みて、確認していたはずなのに、横から走ってくる車が見えていない。それほど心の中が、自分の思い悩みで一杯。心の隙間がない、余裕がない状態だったわけです。

そんな時は、たとえ美しい富士山をみても、美しい花を見ても、本当の意味で見えていない、心に入って来ない、ということも起こるでしょう。

先週の礼拝では、悪霊に心縛られ、口が利けなかった人を、主イエスが解放してくださった話でした。

その解放の喜びの出来事を見て、喜べなかった人たちが、あれは悪霊の頭が、子分に命令しているだけだと、いってみたり、もっと納得させる、天からのしるしを求める人がいた、という話を読みました。

目の前で、美しい出来事がおこった。そこにいた人々は、それを確かに見ている。

しかし、その主イエスのなさった美しい出来事の感動が、喜びが、なぜか心の中に入らない。

むしろそのひとの口から、「あれは悪霊の仕業だ」という、そのひとの思いこみが、考えが口をついて出てくる。

それはいうなれば、美しい花をみていても、心の中では、自分の思いこみ、考えでいっぱい。
花の美しさを通して、語っておられる、神の愛も、心に入らない状態にも通じるのではないですか。

主イエスが今、神の言葉を語っておられるのに、神の働きをしておられるのに、

神が、今、主イエスを通して、語りかけておられるのに、

神の遣わしたメシアが、救い主が、今、救いの働きをしておられるのに、それを見ながらも、見えていない。

それが先週の礼拝で読んだ、聖書の物語でした。

今日は、その続きです。

主イエスのもとに集まる人々の数、群衆の数がますます増えてきたとあります。

人々は、いったい主イエスになにを期待して集まってきたのでしょう。何を主イエスに求めてきたのでしょう。

エス様はその人たちに向かって、こういわれるのです。

「今の時代のものたちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」


ますます集まってくるユダヤの人々。その人々に主イエスは言われます。しるしを欲しがる、この時代の人々は、よこしまだと。

主イエスがいわれた、「この時代」それは、ローマ帝国という大国に抑圧されていた、ユダヤの人々に、民族の解放運動が高まっていた時代。

次々に、我こそ、ユダヤを救うメシアであると、自称メシアが現れてきた時代。自称メシアが、追従者を引き連れて、ローマへの小さな反乱、テロを引き起こしていたような時代。

そんな時代に、ユダヤの人々が、主イエスのところに群がるように集まってきた理由は、自ずとわかります。

人々は「しるし」をほしがったのです。その「しるし」とは、もちろん、メシアのしるし。

そのメシアとは、ローマ帝国と戦い、倒す指導力と奇跡的な力をもつ、メシアである「しるし」です。

そういうメシアの「しるし」を見たかった。自分たちの民族を救う、メシアの「しるし」を求めた。

そんな時代を、イエス様は、よこしまな時代だ、まがっている時代だと言われます。

「よこしまな時代」

それは、この時の、ユダヤの人々のように、自分たちの民族が解放されるために、戦うことを求める時代のことだとすれば、

そういう「よこしまな時代」は、今までも、なんども何度も、繰り返しやってきたとも言えるでしょう。

人々が、あのヒトラーや、天皇をメシアにした、あの時代、自分たちの民族を救う、そういうメシアを求めるという、「よこしまな時代」は何度もあった。

主イエスは、今、私たちの時代を、どのような時代だと、言われるのだろうかと、思います。

主イエスは、そういう自分たちの願い、思いを実現してくれる、メシアの「しるし」を求める群衆に言われます。

「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と。

ヨナの話は、ユダヤ人は、だれでも知っている聖書の物語。

その昔、ユダヤからすれば、罪深い外国人、異邦人の国ニネベにいき、悔い改めるよう、語れと、神に遣わされたヨナの話です。

ヨナは、あんな罪深い奴らのところにいきたくないと、ごねて、逃げて、そして船から海の中に投げられたりしますけれども、結局、ニネベの町にたどり着き、いやいやながら、悔い改めるように語ったところ、ニネベの人々は、そのヨナの言葉で悔い改めてしまい、ニネベは滅びから救われたという、物語です。

あの罪深い外国人。ニネベの人々さえ、ヨナの語る言葉を聞いて信じ悔い改めた。異邦人でさえ、ヨナの「しるし」で悔い改めたのだ。

そして主イエスは言われます。わたしはこのよこしまな時代に、ヨナにまさる「しるし」として、やってきたのだと。

もう一つ、南の国の女王の話もなさいます。

これもユダヤ人なら誰でも知っている話。

昔、栄華を極めたソロモン王の時代。

ユダヤ人にとって、誇り高き時代。全世界から人々が知恵を求めてやってきた時代。南の国の女王、有名なシバの女王さえも、神の言葉をもとめて、神の知恵を聞こうとやってきて、頭を下げたではないか。

異邦人の王さえへりくだり、ソロモンのところにやってきた。

しかし、主イエスは言われます。わたしはそのソロモンにまさる「しるし」なのだと。

このヨナにまさる「しるし」。ソロモンにまさる「しるし」

わたしたちもまた、そのように主イエスのことを、曇りなくみることができているでしょうか。

主イエスの光が、まっすぐに見えているでしょうか。

33節から、イエス様はこう語られます

「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く物はいない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く。」

ここで主イエスは、ご自分のことを、ともし火にたとえられます。

主は、人々の前に、隠されている光ではないのです。燭台の上において、部屋全体を明るくする、ともし火です。

主イエスは、どこにも逃げも隠れもせず、人々の前で、神の言葉を語り、神の働きをしたのです。

福音は、隠された秘密のような、一部の人々だけに理解できる真理ではありません。すべての人に開かれています。

燭台の上に置かれているともしび。主イエスは、この世界を照らす光。わたしを、あなたを照らす光。救う神の子メシア。

人々は、明らかに主イエスの言葉を聞き、働きをみたのです。光を見たたのです。

主イエスの言葉は、人々に聞かれたのです。聞かれて、心の中に入ったはずなのです。

主イエスが語る、神の言葉は、人々に聞かれ、人々の心に入った。人々の中に主イエスの言葉は宿った。みことばはやどった。

今、主イエスの言葉を聞いている、わたしたちも同じです。主イエスの言葉を聞き続けている、わたしたちも、主イエスの言葉が、心に入っている。

主イエスの言葉。その光は、わたしたちのなかにすでに宿っている。

しかし、その主イエスの言葉という光に、毎週毎週、照らされていながら、主イエスの言葉を聞きながら、

なお、わたしたちの心が、明るくなれないとするなら、

主イエスは言われます。あなたがたの中にある、光が、御言葉が消えていないか、調べなさいと

わたしはそのように、この個所を受け取ります。

主イエスの御言葉は、どこにも隠れていないのです。いつも部屋全体を照らす、ともし火のように、語られてつづけ、聞かれつづけています。

わたしたちは毎週、主イエスの言葉を聞いています。しかしなお、その私たちの中に与えられている、主イエスのともし火の光が、

わたしたちのなかで、生きて働き、わたしたちを照らしているのだろうか。

そのみことばの、ともし火が、光が、消えていないか調べなさいと、主イエスはいわれるのです。

それは、だれでも心の目というものが、濁ってしまうことがあるから。

「目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、体も暗い」と主はいわれます。

「濁っている」というギリシャ語は、「よこしま」という言葉と同じなのだそうです。

よこしまな時代。自分の救いだけを求めて、力づくで相手を倒そうとする時代。そのようなメシアを求めて、人々が主イエスのところに群がった時代。

彼らの目は、濁っていたのです。目の前の主イエスが、神の言葉を語り、神の働きをしていることを見ているのに、見えなかったから。

神が何を求めて、主イエスを通して、語り、働いておられるのかが、見えていなかったから。心の目が、濁ってしまっていたのです。

自分の願い、自分の思い、考えによって、だんだん、心の目が濁ってしまうことに、わたしたちも、気がつかないでいることが、あるのではないですか。

子の前の水曜日のお祈り会のときに、ある方が白内障の手術をした時のことを聞かせてくださいました。

目を覆っていた眼帯をはずしたときに、目に飛び込んできたまばゆい光の世界に、本当におどろいた、ということをおっしゃっていました。

世界はここまで明るかったのかと、驚かれた。

それは、初めて眼鏡を作ったときも、そういう衝撃がありますね。ああ、本当の世界は、こんなに明るく、色鮮やかで、鮮明で、美しかったのかと。

その美しい世界を、見えているつもりだったけれども、なんと見えていなかったことかと。

見えていると思っているうちに、すこしづつすこしづつ、目が濁っていることがあるでしょう。

毎週、こうして主イエスの言葉を、聞き、神のともし火を見続けていながら、しかし、気がつかないうちに、だんだん、自分の考え、自分の願い、自分の思いで、一杯になって、心の目が濁っていくことが、あるでしょう。

主イエスの御言葉を聞きながら、心の中の光が、消えてしまったような、日々を経験することがあるでしょう。

いや、今まさに、そういう暗闇を歩んでいると、思う人もいるでしょう。

だんだん濁っている心の目に、わたしたちは自分では、なかなか気づけないものです。

主イエスは言われます「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と。

「調べなさい」と訳された言葉は、「注意しなさい」、「目を配りなさい」とも訳されることばです。

旧約聖書箴言にある言葉を、思い起こします。

4章23節
「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」

「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」


守るべきなのは、まず、自分の心。そこに命の源が、神の光、主イエスの御言葉が、宿っているのだから。

その大切な光を、ちゃんと確かめ、見守る。

それはほかでもない、私たち一人一人に託されている大切なつとめではないでしょうか。

主イエスが、山の上で人々に教えられた、山上の説教のなかで、主がいわれた言葉も思い起こします。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして、升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方のよい行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」


主イエスの御言葉という光は、御言葉を聞いた私たちの中にとどまり、宿っています。

すでに光は、わたしちのなかにあるのです。

にもかかわらず、わたしたちはその光を、みことばを、大切に見守ることを忘れ、

いつの間にか、自分の思い、考え、願いで、目を濁らせてしまう。光が見えなくなる。

思い煩い、恐れ、怒り、倦怠感、むなしさ。そんな暗い日々を生きてしまう。

それは、このユダヤの人々の生きた時代のことと、他人ごとにはできないのです。

わたしたちも、主イエスのみことばを聞き続けながら、心の目が濁ってしまうことがあるはずだから。


だからこそ、だからこそ、わたしたちはこうして集い、心の目を澄んだ目にしてくださいと、神様の憐れみを祈り求めます。

自分の願う救い主ではなく、無力に十字架につけられた、主イエスこそ、神の愛の「しるし」であると、目を澄まして、晩餐式をいたします。

ヨナにまさる救いの「しるし」

ソロモンにまさる神の救いの知恵の「しるし」

人の目には、愚かに見える、あの主イエスの十字架を、

自分では自分を救えない、暗闇に生きるわたしたちを、

その暗闇の失望のただなかに、主イエスの十字架は、神の救いの「しるし」、ともし火として、輝いているのだから。

わたしたちのために、血を流し、暗闇の絶望の叫びを叫んで死なれた、主イエスこそ

わたしを明るく照らす、神の愛の「しるし」であることに、心の目がひらかれるために、

わたしたちは、今日このあと、ともに晩餐式にあずかります。

この光だけは、この、十字架という光だけは、

わたしたちの心の中から、決して消し去ることはできないのです。