「沈黙して神に向かう」(2017年8月6日 花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

詩編62編

 先週、私と小学生の息子とで、長野県の「聖山」という標高1000メートルの高原の施設で開催された、小学生のキャンプに行ってきました。

3泊4日の長いキャンプだったのですけれども、そのキャンプの名前はなんと、「ぶっとびキャンプ」というのです。

「ぶっとびキャンプ」。すごいネーミングですね。

その名の通り、ぶっとんでいました。

1教会が主催するこどもキャンプですけれども、10年前に、長野の聖山にあった、東京都の林間学校の施設を買い取ってから、(東京ドーム二つ分の広大な土地)

教派、教会を越えて、ひろく始めた「こどもキャンプ」が、「ぶっとびキャンプ」だったわけです。

10年前には夏に一回していたキャンプも、今は子どもたちを、150人くらい集めて、夏に2回している。そのエネルギーにふれて、わたしもまた元気をいただいて、帰ってきました。


実は10年ほど前、山形で開拓伝道をしていて、まったく人が教会に集まらなかったころ、行き詰まって、落ち込んで、「自分は開拓伝道の牧師なんて、向いてないんじゃないか」「ダメなんじゃないか」

そんなことを、心の中でいつも自分に語り続けていたころ、

この「ぶっとびキャンプ」というものが始まったことを知って、

せめて、いつもさびしい想いをさせていた、わたしの当時小学生の2人の子供たちに、「教会のキャンプ」で、神様を賛美することの喜びを、楽しみを、味あわせてあげたい。

わたしも、なにか元気がもらえるんじゃないかと、わらをもつかむ思いで、二人の子どもたちを連れて山形から長野まで車で8時間くらいかけて参加したのが10年ほど前。

そして、そこで、まっすぐに力いっぱい、元気に神様に向かって、賛美し、み言葉を生きている、たくさんの人々にふれて、「こういう世界があるんだ」と、わたしもこどもたちも、元気をいただいて帰ってきたわけです。

そして、小さな家の教会でも、「子ども会」を始める元気をいただいて、だんだん子どもたちが集まるようになって、地域の人も手伝ってくれるようになったことがありました。


目の前にみえる厳しい現状、厚い壁をまえに、失望してしまい、

「なにをやってもだめなんじゃないか」

「無理なんじゃないか」「無駄なんじゃないか」と、

自分の心の中で、自分に向かって語りかけてしまうことがあるでしょう。

「なにをやっても無理だ」「もうやめよう」「おしまいだ」

そんなネガティブな言葉を、自分にむかって語ってしまう。

その自分自身の否定的な言葉を、沈黙させて、神に向かう。



今日、朗読されて、詩編62編を歌った信仰者は、こう言いました。

2節〜

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」


逆境のなかで、希望が見えない中で、
失望の言葉が、どうしても心から湧きでてしまうとき、
なお、いやだからこそ、わたしたちも

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神に私の救いはある」
神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」

このみ言葉を、生きていきたいのです。



 さてこの詩編を歌った信仰者には、彼を責める人々がいたのでした。

4節、5節で、この人はこういいます。

「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり/人を倒れる壁、崩れる石垣とし
人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。」


人はなぜか、人を責め、争わずにはおられない。

今日8月6日は、72年前、広島に原爆が投下された日。

「不戦」と「平和」を願う、8月が今年もやってきました。


天地を作った神が、この地上に生きよと、人を愛して命を与えてくださったと信じる私たちは、

神が与えた人間の命を、神でもない人間が、暴力的に奪い取ってはならないと信じます。

ある生物学者の本を読んでいたら、動物のなかでも、同じ「種」を殺すのは、人間だけ。サルでも、縄張り争いで戦うことはあっても、殺すまではしないと、きいたことがあります。

人間だけが、同じ人間を殺すことができる。

人間はなぜか、同じ人間同士が愛し合い、支え合っていきる、その「本能」が、壊れてしまっているのでしょうか。

人間が同じ人間に、暴力を振るう。

そのもっとも大がかりな暴力が、国による暴力。

国の外に向かう暴力は「戦争」であり、国の内側に向かうなら、「圧制」「独裁」「粛清」です。

今日の詩編62編の信仰者は、11節でこういいます。


「暴力に依存するな。搾取をむなしく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな」とありますが、新改訳聖書は、「暴力」と言う言葉を「圧制」と訳します。

国の外に向かう「暴力」も、国の中に向かう「圧制」も、

人が、人を、力尽くで支配すること。

そんなあり方は、神を信じ、神の愛を信じる「民」には、相応しくない。

暴力にたより、依存し、力に心を奪われてはならない。

この詩編は、神を信じない人々に向けて語られているというよりも、神を信じる民に向かって、「暴力ではなく、神に信頼せよ」と語っているのでしょう。


つまり、実は、私たちクリスチャンであり、教会こそが、聞くべき言葉。

神を信じる人々が、必ずしもこの世界に平和を実現してきたとは言えない歴史を、私たちは知っています。

学校の歴史でさえ習うでしょう。

キリスト教の教会が、神を信じる民が、犯してしまった、数々の暴力の歴史があることを、習うでしょう。

十字軍、魔女狩り、異端審問、宗教戦争、インディアンへの迫害、植民地支配への関与。

そして、今もまた、「正義のため」なのだと、暴力を認めてしまうことがあるでしょう。


教会も、この地上における「力」「パワー」を手に入れていくなかで、

かつて、「あなたの敵を愛しなさい」と無力のまま、十字架につけられていった、主イエスのお姿から、遠く離れていく。

「力が力を生むこと」に心奪われ、

「暴力」にむなしく依存し、神さまの御心を悲しませてきた、歴史の数々に、わたしたちは、ちゃんと向き合いたいのです。


12節でこの詩編はこう宣言するのです。

「力」は神のものであるのだと。

「力」は人間のものではない。神のものなのだと。

らさに、「慈しみ」「愛」も、神からくるのだと。

「力」も「慈しみ」も神のもの。これは切り離すことができない。

「愛」のない「力」は、神からではなく、人間の罪の産物。

「愛」のない「力」は、人間が人を支配する罪の業。

この詩編は、最後にこう言います。

神は、その「愛」のない人間のした「力」にしたがい、報いをお与えになるのだと。


そう歌われて、この詩編は終わります。

平和を祈る8月。わたしたちは深く思います。

72年前の8月6日に、

広島に原爆を落とすために出発した、エノラゲイ爆撃機の乗組員の無事を祈った、従軍牧師や、アメリカの教会の姿を

また、

アジアを解放すると信じ、日本の勝利を願って、敵の滅びを祈ったであろう、日本の教会の祈りを。

時代の波にのまれるとき、

「愛」のない「力」を、「慈しみ」のない「暴力」を、神に求てしまった教会の姿を、思います。


今、わたしたちは

本当に、神を信じ、神に信頼し、神の救いを信じて、平和を祈る、ということは、どういうことなのかと、問われているのではないでしょうか。

今、隣国がミサイルを撃つのではないかと、不安や恐れに、心騒ぐこの時代に、


今こそ、この詩編の言葉に耳を傾けたいのです。

2節〜3節

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」

「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」

心騒がせる存在を前にしても、なおこの詩編はこう告げます。

6節〜9節
「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。」
「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない」
「わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある」
「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ」


沈黙して神に向かう。
自分の思い、自分の願いを黙らせ、沈黙し、神の御心を尋ね求めて、神に向かう。

ただ「力」を求めることが、本当の「救い」ではないから。

「愛」のない「力」は、「救い」ではなくむしろ「滅び」をもたらしてしまうから。

わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。

神こそが、神だけが、「愛」と「力」で、この世界を、わたしたちを、救ってくださるお方だから。

十字架の「愛」と、復活の「力」

神の独り子主イエスが、無力なままに、十字架につけられ死なれたことのなかに、

このまったくの無力さの中にこそ、罪人を救ってくださる、神の「愛」が表れ、

十字架に死んだ主イエスを、復活させた、神の「力」が、

今、時代を超えて、わたしたちの中で、生きて働いている。

教会は、この十字架の「愛」と復活の「力」を証する民です。

人間を支配したい。自分のいうことを聞かせたい。自分の思い通りに、人を動かしたい。

そういう、「愛」のない「力」によって、目の前の問題を、とにかく解決するのだと、

はやる心、「力」に依存する自分に向かって、

この6節の言葉を、語りかけたいのです。

「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。
神にのみ、わたしは希望をおいている」と

十字架につけられた主イエスに向かって、

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と叫ぶ人々。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とあざ笑う人々の声のなか、

主イエスは、沈黙しつづけられました。

同じように、隣で十字架につけられていた、犯罪人さえも

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いました。

神の子なら、「神の力」を発揮して、自分を救い、この世界を救ってみろ。

この世界の悪を、「力」によって打ちたたけ。それがメシア、救い主じゃないのか。

この最後の誘惑の声に、主イエスは、一言も言い返すことなく、沈黙を守り続けた。

ただ、天を見上げ、天の父に、天の親に向かい、そして最後にこう叫ばれた。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と。

そう言って息を引き取られた姿を見た、ローマの兵隊、百人隊長はこう言いました。

「本当に、この人は正しい人だった」「神の子だった」と。

まさに、十字架の上で沈黙しつづけ、ただ神にのみ向かった主イエス

「力」、「暴力」をまったく放棄して、十字架の上で殺されたイエスを、

神は三日目に復活させられたのです。

わたしたちは、この十字架の「愛」と、復活の「力」こそ。

この私を救い、世界を救うことを、信じてつどう仲間です。

主イエスにならい、沈黙して、ただ神に向かい、祈る仲間です。

今日の、詩編を記した信仰者は、神を信じる民に語りかけます。

9節〜10節

「民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ
神はわたしたちの避けどころ。

人の子らは空しいもの。
人の子らは欺くもの。
共に秤にかけても、息よりも軽い。」のだと。

どれほど、力を誇る権威者も、組織も、国も、

やがてすべて空しく過ぎ去っていきます。

預言者イザヤは言いました。

「肉なるものは皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹き付けたのだ。
この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:7-8)

人の力は、草のように枯れて過ぎ去っていく。
しかし、神の言葉はとこしえに立つ。

このとこしえに立つ「神の言葉」こそ、今も生きておられる主イエス

あの、大ナポレオンは、なくなる前、こう言いました。

「昨日の我が友は、いずこへ。ローマ皇帝カイザルも、アレキサンダー大王も忘れられてしまった。私とて同様である。」

これが、大ナポレオンと崇められた私の最後である。

主イエスキリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれた私との間には、あまりにも大きく深い隔たりがある。

キリストは愛され、礼拝され、キリストへの信仰と献身は、全世界をつつんでいる。

これを「死んでしまったキリスト」と呼ぶことが出来ようか。

エス・キリストは、永遠の、いける神であることの証明である。

私は力の上に帝国を築こうとして失敗した。

キリストは、愛の上に王国を打ちたてた。」と。


暴力に依存し、「力」を求め、「力」に心奪われたものの最後は、空しい。

しかし、力なく、無力に十字架につけられた、主イエスの人生を通して、あらわれた、

神の「力」と「慈しみ」を、見つけた人は、実に幸いです。

とこしえに立つ、神の言葉として、主イエスを信じ、

主イエスを、キリストと告白し、

このお方の前に向かって、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは動揺しない

と祈る人。

最後に勝つのは、「力」でも「暴力」でもなく、

「主イエスの十字架の愛」であることを、知ったわたしたちは、

実に幸いなものなのです。