「主イエスの傷に癒され」(2016年3月20日 花小金井キリスト教会主日礼拝 メッセージ)

イザヤ書53章1節〜12節

 今、主イエスの受難を覚える礼拝で、主イエスの時代より、数百年前に記されたイザヤ書の言葉が、読まれました。
 主の僕が、苦難を受ける。そのさまが、連綿と記される「苦難の僕」の詩(うた)

 この苦難の僕について語った、第二イザヤと呼ばれる預言者が、そのとき、いったい何を思いながら、これを記したのかはわかりません。
 しかし、それから数百年後、主イエスが苦しみのすえに、十字架の上で死んだことの意味を、最初の教会は、このイザヤの語る、「苦難の僕」の姿の中に見いだし、新約聖書の中に書き記していきました。


マタイの福音書は、主イエスが人々の病をいやされたことを書き記しながら、同時に、
これは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった・・・・「彼はわたしたちの病を担った」とこのイザヤ書53章4節を引用します。

使徒言行録を書いたルカは、8章32節で、預言者イザヤの書を朗読している宦官と、伝道者フィリポの会話をかいた時、その宦官が、イザヤ書53章にでてくる、

「屠り場にひかれていく小羊のように、毛を刈るものの前にものをいわない羊のように、彼は口を開かなかった」とは誰のことなのか。

「捕えられ、裁きを受けて、彼は命をとられた」のは、誰のことなのか。
どうかおしえてくださいと、伝道者フィリポに尋ねると、フィリポは答えたのです。これはイエスについての福音だと

この個所から説き起こし、旧約聖書から、イエスについて福音を告げ知らせたと書いてあります。

そして教会は、今に至るまで、約2000年にわたって、この苦難の僕に、主イエスの受難を見る信仰を、受け継いできました。
この苦難の僕こそ、神が人を救うためにつかわした、メシア、キリストのお姿であると、その信仰を受け継いできました。

しかし、この苦難の僕の中に、主イエスの受難の中に、メシア、キリストの姿を見るという信仰。
それは、イザヤ自身が冒頭

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」と叫ぶように、
実に、人には信じがたいことです。

この苦難の僕のなかに、主イエスの十字架の死の中に、救いをみることは、
人の理解も、思いも超えた、実に、不思議なことです。
人を救うお方が、苦しまれるという、その救いとは、いったいなんなのか。
救うお方が、十字架の上に無力に死んでいく救いとは、どういうことなのか。
人が思い描き、熱望し、期待している、「救い」というもののイメージを、根底からひっくり返していく、
人の思いをはるかに超えた、神による救いの不思議。
それが、この苦難の僕の姿の中に、語られていきます。

もういちど、イザヤの言葉を聞きましょう。

5節
「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

6節

「わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた」


神が人を救うということ。それは、人の罪を、この苦難の僕に、みがわりに背負わせることで、罪から解き放つという、救い。
新約聖書のへブル人の手紙は、それをこのように語ります。

9章28節「キリストは、多くの人の罪を負うために、ただ一度身を献げられた」と

これが、神が人を救うという、仕方なのだ。わたしたちを救う方、メシア、キリストは、わたしたちの罪を引き受け、身を捧げてくださったのだ。

苦難の僕となられ、わたしたちの罪の苦しみを、ご自分が苦しまれることで、救う。

これが神の救いのなさりかた。

この神の救い。わたしたちを救うキリストとは、十字架につけられていく、苦難の僕であるという真理を、私たちは捨ててはいけません。

 先週の信徒の学びの会では、戦争の時代、ドイツや日本の教会で、何が起こったのかを、学びました。
 神を信じていないわけではない。聖霊を信じていないわけでもない。しかし、時代の流れに押し流されるようにして、ドイツのある教会では、「ヒトラー」が、キリストに成りかわるようにして、ドイツを救ってくれるのだと、救い主の立場にたってしまったこと、

それは、同じように、当時の日本の教会においても、神を信じ、聖霊を信じていることは同じでも、いつの間にか、キリストの立場に、「天皇」が成りかわるようにして、礼拝されていった時代がありました。

 神風さえ吹けば、日本は救われる。戦争に勝つようにと、そういう「救い」を祈った時代がありました。

 神を信じていないわけではない。聖霊を信じていないわけではない。しかし、肝心のキリストが、救い主が、ほかのものに、

つまり、人間が期待する「救い」。目の前の問題から救うだけの、ご利益な救い主、キリストにすり替えられてしまう時に、

それが、「ヒトラー」であろうが「天皇」であろうが「軍事力」であろうが、「経済力」であろうが、

そのような、人を救ってくれるように見える、「力」あるものが、魅力あるものが、

やがて、実は、人間を束縛し、苦しめ、命さえ捨てさせていく、偽りの救い主、キリストであることを、わたしたちは歴史の教訓として、知っているのです。

このわたしを、目の前の苦境から、救ってくれるとすがる、魅力あるもの。力あるようにみえるもの。

それを預言者イザヤは、「偶像」といい、そんなものに頼るなと、糾弾しました。

そしてイザヤは、本当の、神による救いを成し遂げる「僕」とは、こういう存在であると告げるのです。

2節
「この人は主の前に育った。
みるべき面影はなく
輝かしい風格もこのましい容姿もない。」

彼は軽蔑され、人々に見捨てられるのだと。

人の目には、みじめで弱弱しく、救うことなど期待できない、軽蔑され、人々に見捨てられていくように見える、人の中に、

神は、神の救いを隠しておられる。

結局は、人の自由を奪い、人を犠牲にしていく、偽りの救いではなく、

人の心を束縛し、自由を奪う罪の苦しみを、引き受けて、苦しまれ、犠牲になる、苦難の僕のなかに、

神は、神の救いを実現なさる。

あの、主イエスが十字架につけられたとき、その周りにいた民衆、議員たち、ローマ兵、そして、共に十字架にかけられていた犯罪人のすべてが、主イエスを侮辱したことを、わたしたちは知っています。

「お前がメシアなら、キリストなら、救ってみろ」と、人々はいいました。

言葉は、時に残酷で罪深いものです。

体の傷は、目に見えても、言葉の刃物でえぐられた、心の傷は、目に見えないまま、深くその人を苦しめ続けます。

イザヤは言います。苦難の僕は、人々から軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知ったのだと。

この「病」とは、体の病とは限らず、残酷な言葉によって、心をえぐられた傷、病を、知ったということでもありましょう。

体も、心も、その病の苦しみを、この方は知ってくださった。

イザヤは言います。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのため」なのだ

彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」なのだと
責められるべきなのは、咎あるわたしたち。
あやまちをおかしているのは、わたしたちであるのに、
あやまちある人間の、その残酷な言葉を、その責めの言葉の刃物による傷を、
何も言わず十字架の上で受け続け、こころ刺し貫かれる主イエス
横で十字架につけられている犯罪人さえ、ののしられながら、

エスさまは、反論なさらない。

「そういうあなたは、なんだ」「そんなことがいえた義理か」「あなたはそれほど立派な人か」

人は自分を守るために、そういうでしょう。責めかえすでしょう。
しかし、このお方は一言も反論なさらず、その言葉の刃物を受け続け、
その人々のために、こう祈ったのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と
自分がいったい何をしているのか。自分がいったい何を言っているのか。
自分がなにをしているのかわからないまま、怒りにまかせて、してしまっている、いってしまっている。

自分が何をしているのか、わからないのです。
そう、天の父に、憐れみと赦しを祈ってくださった、主イエス
ここにこそ、神の救いがあるのです。


わたしは去年、「きみはいい子」という映画を見ました。
尾野真千子(おのまちこ)が、3歳の女の子の母親の役をしていました。
彼女は、普段、ママ友達たちに見せている、その笑顔の陰で、
家ではたびたび、大声で娘を怒鳴りつけ、手をあげてしまう役です。
娘の体には見えないところに、あざがたくさんできている。
いうことを聞かなかったり、牛乳をこぼしたり、なにか失敗をするたびに、どなりつけ、手をあげてしまう彼女。
でも、そのあと、「ママ、ママ」と、慕ってくる子の声に、自分を責め、嗚咽する彼女

映画の後半。
彼女は、あるママ友達の家に、娘と一緒に遊びに行きます。
その場面で、娘があそんでいて、友達の家のなにかを壊してしまって、謝ろうとしないのを、恐ろしい顔でしかりつけはじめる彼女。
その時、友達のママが、彼女をすっと抱き締めていうのです。
「あなたも親にされてきたんだね。その手の傷跡。たばこでしょ」
そういい、「わたしもされてきたんだ。わたしはここ」と、髪の毛で隠していたたばこの傷を見せる。
そして、もう大丈夫だからという思いを込めて、彼女をしっかりと抱きしめるシーン。

この場面に、自分自身も、深く心探られる思いを抱いたのでした。
だれもが心に傷を負っています。自分より強いものによって、傷を受けていきます。
その痛みを、人には味あわせたくない。自分は同じことをしないと、笑顔で頑張ることもあるでしょう。
子どもに、伴侶に、部下に、後輩に、友達に。自分は、同じことをしない。自分がされた痛みを、味あわせることはしないとおもう。
しかし、ある日、ちいさな一言が、ちいさな出来事が、心の傷口にふれるとき、
笑顔は消え、してはならないことを、いってはならないことを、自分がされてきたおなじことを、

こどもに、伴侶に、部下に、後輩に、していってしまう。
それは、痛んでいる心の傷口に、手を触れられたときの、本能的な防衛反応にちかい。
自分の意志ではどうにもならない感情におされて、してはならないことを、いってはならないことをいってしまう。
そういう意味で、わたしたちはみな、どうしようもなく病んでいる。痛んでいる。
聖書の語る罪とは、そういうもの。どうしようもなく病んでしまっている、心の傷ゆえの、束縛。。
自分でもどうして、こんなことをしているのか、何をやっているのかわからない。
そういうどうしようもなく病んでいる人間の、罪の痛みを、
主イエスは十字架の上ですべて受け止め、祈られたのです。


「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と
主イエスは、そんなわたしたちの傷を、それゆえに、自分が何をしているのかもわからずに、罪を犯し続けてしまうわたしたちを、そのまま受け止め、
「父よ、彼らをお赦しください」と、執り成し祈ってくださいました。
人の罪ゆえの傷を、ご自分が受けとめ、傷つけられるまま、赦しを祈られた主イエス

そして預言者イザヤはいうのです。
「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」のだと
わたしたちにはどうにもならない傷の上に、その痛んでいる患部に、覆いかぶさるようにして、
主イエスは、その傷をご自分に引き受け、赦しを祈りつつ、死んでくださったのだと。


この主イエスの受けた傷によって、わたしたちは癒されていく。
傷の痛みを、恐れ、噛みついてしまうことから、解放されていく。
主は傷を包み込むようにして、
「もう大丈夫だよ」「わたしはあなたを愛しているのだから」と
やがで復活なさったあと、ご自分の傷あとを、弟子たちに示してくださったように、

わたしたちも、この礼拝のなかで、復活した主イエスの傷によって、また新たに、癒されていくのです。

イザヤ書53章の最後を朗読して、説教をおわります。

「彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった」

祈りましょう。