消火礼拝メッセージ(2016年3月20日夕礼拝)

shuichifujii2016-03-22


消火礼拝・・・みことばと賛美。罪の告白とともに、ろうそくの火を一つずつ消していくことで、主イエスの受難を深く覚ることを目的とした礼拝


 実は、ある方から「消火礼拝とはなんですか、神の怒りを消すのですか」とお尋ねいただいて、あらためて「ああ、そういう理解もできるのだな」と思いました。

「神の怒り」。みなさんは、どう思われるでしょうか。

不従順なものに神の怒りが下る。終わりの日に神の怒りが望む。
そういう表現は、新約聖書の中に確かにたくさんあります。
神は、人間の罪を怒っている。それゆえに、主イエスは、神の怒りを鎮める「なだめの供え物」「罪を償ういけにえ」となられたのだ。そういうみことばもあります。

神の怒り。そして主イエスの十字架は、その怒りの火を消す供え物。
消火礼拝は、そのような、神の怒りを消すという意味で、わたしたちは罪の告白をし、ろうそくの火を消していく、ということでしょうか?

そもそも、神の怒りとは、なんなのでしょう?

 わたしは酒田にいた時、節分の季節には、あの辺りには、「あまはげ」という鬼にふんした大人が、幼稚園にやってきて、子どもたちを脅すんです。わるいこはいないかーと、なまけているものはいないかーと、脅すんです。あれは本当に怖い。子どもはトラウマになるんじゃないかと思う。そうやって、脅して怖い思いをさせることで、悪いことをしないようにさせる。

 さて、神の怒りも、そういう「あまはげ」のような神が、怒っているので、わたしたちは「わるいことはもうしません」「ごめんなさい」と罪の告白をするということでしょうか。

 田舎に行くと、キリスト看板といって、「神の裁きがある」とか「神の怒りが下る」と、聖書の怖い短い言葉だけを切り出して、黒字に黄色の文字で太く書いて、張ってあります。あれなどもまさに、神はあまはげのように、怒っているのだから。悔い改めて、よい子になって、天国に入りなさいという、そういうメッセージを発信しているように読めます。

しかし、それは「福音」なのでしょうか。

 そもそも旧約聖書を開いてみれば、神様が怒るのには、理由があるわけです。
愛しているイスラエルの民が、神を捨てて、神ではないものに心ひかれるとき、イスラエルが戻ってくるようにと、神の怒りを、預言者がかたっていくわけです。

 ですから、「神のねたみ」、「ねたむ神」といういい方さえあります。(申命記5:9)。新共同訳聖書では「情熱の神」と訳していますけれども、いずれにしろ、愛しているからこそ、離れていくことに心痛め、引き戻そうと呼びかけている。

 その状態のことを、神の怒りと呼ぶのなら、「あまはげ」のように、悪いことをするものを脅し、罰を与え、ロボットのようにいうことを聞かせる神というイメージは、聖書の神ではないでしょう。

ちなみに「受難」という言葉は英語では、パッション。「情熱」という言葉でもあります。

 神が、天の親が、私たちをどれほど愛しているのか。その情熱の表れが、まさに、「神の怒り」という言葉で表現され、主イエスの受難につながっている。

わたしたちは、神の怒りが怖いので、悔い改めたり、罪を告白したりしているのではありません。それでは、心からの悔い改めにも、罪の告白にもならないのです。それではまるで、取調室で脅され、無理やり言わされた自白とかわりません。

「神の怒り」。それは主イエスの受難、十字架と切り離せないのです。

 人がどんなに神から離れても、「もうどうでもいい」「あなたとは無関係だ」と、神様は切り捨てられない。

 どんなに人が不従順でも、神は人との関わりを切ることをなさらない、愛の情熱が、神の怒りであり、そして罪ある人を、どうしても切り捨てられない神の究極的な愛が、主イエスの受難、十字架へと至ったからです。

神が怒り、「もう人間などしるか」と、捨ててしまったのが、主イエスの十字架なのではなく、
むしろ神が人を愛し、共にいたいと遣わされた主イエスを、人のほうが、「お前など知るか」と捨てた。それが受難であり十字架。

それでも、人を捨てず、そのような罪深い人をあきらめず、なお共にあることを願われる神の「情熱」は

十字架につけられた主イエスを、三日後に復活させ、神と人とが共にある救いを実現して下さるに至る。

この神の情熱。愛のパッションとしての主の受難、十字架を、

今、心から見上げていきたいと願います。