「恐れなくていい」(2016年5月29日 花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

今日も、聖霊に導かれて、一人ひとりが、この礼拝へと集うことが許されました。

2000年も前に、この地上を歩まれたイエス様と、復活し、今も生きておられるイエス様と、

今日、この礼拝の現場で、聖霊によってわたしたちは新たに出会います。

いや、すでに道に迷う一匹の羊を、探して群に引き戻してくださった、羊飼いのように、

エス様は、恐れや不安のストレスを抱えた、わたしたち一人一人の名を呼んで、集めてくださり、

「恐れなくていい」と、語ってくださいます。


聖書の中で、なんどもなんども、弟子たちに語りかけます。「わたしだ恐れるな」「ちいさな群れよ恐れるな」「恐れるな」と

今日、与えられた御言葉もまた、主イエスがわたしたちに、「恐れるな」と語ってくださいます。

それは逆をいえば、それほど人は、恐れてしまう弱いもの、一匹の羊だからでしょう。

先週は、戦後初めて、現役のアメリカの大統領が、広島の地にたちました。被爆者の代表の方々と、オバマ大統領が抱き合う姿に、わたしは単純に、感動しながら、テレビを見ていました。

駆け引きとか、計算もあるのかもしれませんけれども、この出来事を通して、赦せなかった心のしこりのようなものが、少しでも溶かされ、和解が広がるのなら、それは、人の思い、駆け引きを越えて、そこに神様のお働きがきっとあるから。神の恵みが働いているから。

決して一つの場所にいることさえできなかった人たちが、抱き合うという出来事がおきるのは、神の恵みだと、わたしは単純に信じる牧師です。

大統領は、演説の後半で、こう言いました。

「私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません」

そう、核の問題は、アメリカだけの話ではなく、保有国すべての課題。

自分たちは、なぜ核を持ち続けようとしているのか。それは「恐怖の論理」だからだと、みんなわかっている。

核を持たなければ、核にやられる。その恐れによって、国は、どんどん軍事力に手を染める。

「恐怖の論理から逃れるべきだ」

どうか、その言葉にたち続けて、具体的に、勇気ある一歩を、踏み出すようにと祈ります。

それはまた、わたしたちも同じであって、わたしたちも、ついなにかを恐れ、自分を守ろう、守ろうと、行動してしまいがちだからです。

先週の礼拝では、ファリサイ派の人々が、神に従っているようでいて、実は人の目を気にして、恐れていた。その偽善を、主イエスが厳しく指摘した個所を読みました。心の内側を見つめないまま、外側を取り繕ってしまう人間の姿が、そこにありました。


今日、朗読された御言葉は、その続きです。1節から主イエスは弟子たちに向かって、「ファリサイ派のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と教えます。

自分の内側を隠しながら、外側はよく見られるようにと、仮面をかぶり、演技してしまう。

本当の自分を偽って生きてしまう。そんなあり方が、主イエスの弟子たちの中に、広がらないようにと主イエスは言われます。

つまり、これはファリサイ派の人々の問題ではなくて、それはどんな人も、教会も例外なく陥りやすいことであると、主イエスは言われるのでしょう。

なぜ、本当の自分を偽ってしまうのでしょう。仮面をかぶってしまうのでしょう。なぜですか。なぜそういうことをせずにはいられないのですか。

そこには、恐れがあるからではないでしょうか。この本当の自分を、自分の内側を知られてはならないという、恐れが、外側を飾らせ、仮面をかぶらせるのではないですか。

内側も外側も作られた神は、そのすべてを知っておられるというのに、

わたしたちは、いったい誰を恐れて、仮面をかぶっているのでしょう。あの人でしょうか、この人でしょうか。

上司、友達、家族、伴侶。牧師ですか、信徒ですか。

わたしたちは、なにを、だれを恐れて、本当の自分を偽ってしまうのでしょう。神はすべてを知っておられるというのに。

主イエスは、弟子たち、そして私たちに、こう宣言します。

「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上なにもできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」4節5節

わたしたちが恐れている存在が、何であるとしても、主イエスは言われます。

体を殺しても、それ以上なにもできない者を恐れなくていい。

恐れるべきお方は、命を与え、命を取り上げる、権威を持っておられる方なのだから。

神をこそ、恐れなさい。そう主イエスは言われます。

なぜなら、それこそが、人を恐れてしまい、人の奴隷になってしまうことから、解放されることだから。

本当の自分を偽り、外側を飾り続ける、うその自分を、演技している自分を、生きてしまうことから、

解放される唯一の道だから。

神ではないものを恐れることからの解放。それは、神を恐れることにある。

神様をこそ、恐れる。

しかし、この神への恐れとは、なんでしょうか。

神を恐れるとは、どういうことなのでしょう。

それは、失敗や、してはいけないことをするたびに、地獄に投げ入れられるんじゃないかと、毎日びくびく恐れることでしょうか。

今日、礼拝の中にこどもたちが、何人もいますけれども、

子どもたちが、ちょっと悪いことをしそうなとき、よく、こう言うじゃないですか。

「神様は、いつもみておられますよ」って。人の目はごまかせても、神様の目はごまかせないよって、ちょっと、脅しっぽくいいませんか。

でも、それが聖書の神様なんでしょうか。つまり、いつもわたしたちのことを、悪いことをしないかと、監視しつづけている神様。

その神様に監視されていることを、わたしたちは恐れなさいと、主イエスは言われているのでしょうか。

ある教会学校に来ている男の子が、イエス様ってストーカーのようだねって言ったというんです。それは、目に見えなくても、イエス様は神様として、いつもそばにいてくれる、という意味でいったんだと思いますけれども、そのいつもそばにいてくださるお方を、どうイメージするかは、大問題じゃないですか。

いつもみていてくださるお方。この方を恐れなさいと言われた、神様とは、どういうお方でしょうか。

主イエスは言われます。6節〜

「五羽の雀が2アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本の残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」6節、七節

アサリオンというお金は、一日分の労働者の給料の18分の一だそうですから、2アサリオンは約9分の一。分かりやすく一日9000円もらうとすれば2アサリオンは1000円。雀一匹一匹200円。

 あまり具体的な数字にしても、しょうがないのですけれども、とにかく人の目に、雀はそんなに価値あるものとは見なされなくても、神の眼差しはちがうのだ。
神は決して雀一匹忘れない。

それが、いつもわたしたちを見てくださっているお方のまなざしですよ。監視カメラのようなまなざしじゃない。愛のまなざしです。

ましてや、あなたがたの髪の毛の数さえ、一本残らず神は知っておられる。わたしたちの隠したかった内側も、外側も、みんな知っておられるお方が、こう言われるのです。

「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」のだと。

私たちはいったいなにを恐れているのでしょう。人からどう見られるか、どのように値踏みされるか。あなたの価値は200円くらいだねと、見破られることでしょうか。そんな人だとは思わなかったと、失望されることでしょうか。いてもいなくても、変わらないんじゃないかと、ある意味、そんな人の言葉によって、精神的に殺されることを、恐れているのでしょうか。

「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」

これを、死んだ後、地獄にさえ落とすことができる権威のあるお方の言葉として、主イエスは宣言したのです。

恐れるな。あなたがたは、たくさんのスズメよりも、はるかにまさっているのだと。恐れるなと。

礼拝は、この私たちの内側も外側も、髪の毛の数さえも知っておられる神さまが、

この世の旅路の中で、恐れてばかりのわたしたちに、「恐れるな」「恐れなくていい」と、権威を持って語る言葉を、聞く現場。

礼拝は、神の霊、聖霊が働かれて、私たち一人一人に、この「恐れるな」と告げる神の言葉が宣言される現場。

3節で主イエスは、「あなた方が暗闇でいったことはみな、明るみで聴かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」といわれます。

弟子たちが聞いた、主イエスの言葉は、言い広められる。まさに、2000年の時を越えて、今、ここにおいても、言い広められている。

なぜでしょう。それは、聖霊が、働かれているから。

そして、一本残らず髪の毛の数を知っておられる神の前に、

地獄投げ込まれても、仕方がない、罪あるわたしたちが、

今、こうして礼拝できる。主イエスを信じ、主イエスは今も生きておられると信じて、わたしたちがここで礼拝できるのは、

ただただ、聖霊が働いておられるからです。

わたしたちが、神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し、恐れるなと、ここに招いてくださいました。

わたしたちが、恐れなくてもいい根拠。髪の毛の数さえ数えられている神に、愛され受け入れられている確信。

それは、聖霊によって与えられる神の恵みです。



伝道者パウロは、主イエスに出会うまでは、その確信がありませんでした。

神に愛され、受け入れられている確信のないまま、ファリサイ派の律法学者として、熱心に律法を行っていた、かつてのサウロ。のちのパウロ

彼は当初、クリスチャンを迫害していたのです。クリスチャンたちが、律法をないがしろにしているように見えたから。イエスが復活したなどといい、人々を惑わしているように見えたから。サウロはクリスチャンを迫害さえしていた。

しかしその彼は、ある日、ダマスコという場所で、主イエスとの不思議な出会いをして、変えられて行きました。

「主イエスとの出会い」それは、まさに神の霊、聖霊のお働きです。

のちに、パウロはそのことを、こう言い表しました。

聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえないのです。」1コリ12:3

コリントの手紙12章3節です。これはパウロ自身の体験だったから。

そして、かつては神の愛を信じられず、自分はこれでいいのだと思えず、それゆえに、律法に対して、いい加減に生きているように見えたクリスチャンを迫害せずにはいられなかったパウロ


こう言い切るまでになったのです。


ローマ8章33節〜

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるのでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に
定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座って、わたしたちのためにとりなしてくださるのです。」

人を義とする、受け入れるのも、罪に定めるのも、人ではなく神。

わたしの罪を贖い十字架に死に、復活させられた、神の子が、主イエスが、

今、わたしのために、わたしたちのために、天で、神にとりなしてくださっている。

このキリストの愛からだれが引き離すことができるのですか。

艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か・・・

・・・どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことができないのです。

このパウロの確信。神の愛の宣言。キリスト告白。

これは、聖霊によってのみ、語ることのできる確信。信仰告白です。

そして、今日与えられたルカの福音書の後半のテーマも、信仰告白です。

わたしは、主イエスの仲間であると、言い表す。主イエスを告白することがテーマなのです。

「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」

「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」

エスさまは、わたしの仲間です。わたしはあの方を信じています。そう告白できるなら、それはなんと、恵みなことか。

そう言い表す人、告白するひとを、主イエスも終わりの時、神の天使の前で、自分の仲間だと言ってくださいます。

3月のイースターで、二人の小学生のこどもたちが、自分の言葉で、僕はイエス様を信じますと、一言告白できたことが、どれほど神の恵みであることか。つたない言葉でも、たった一言、イエス様を信じます。信じています。わたしはイエス様の仲間です、と告白させたのは、聖霊であるから。

聖霊によらなければ、主イエスを告白することはできないのです。

やがて、この後、主イエスが十字架につく前に、弟子たちはみんな逃げてしまいます。そして弟子のペトロは、3度も主イエスのことを、「知らない」と、呪いの言葉さえ吐いてしまいます。

では、ペトロはどうなんでしょうか。主イエスを呪ってしまった、ペトロは、もうだめなのでしょうか。

10節では、こう言われているではないですか。

「人の子の悪口を言う者は、皆赦される」と。

主イエスを知らないといい、呪いの言葉さえ口にしたペトロを、主は赦された。

そして、ペンテコステの日に、聖霊が下ると、真っ先に、あのイエスなど知らないといった、ペトロが告白したのです。

十字架に死んだ主イエスを、神は復活させたのだと。主イエスは生きておられるのだと、告白したのです。

それは人間の努力などではないのです。聖霊が働らいておられるのです。聖霊は、あのペトロを、あのパウロを、

そして、今、ここに集う一人ひとりの口から、主イエスは生きておられます。主イエスはわたしと共におられます。わたしを愛し救ってくださいますと、告白させてくださる。

主イエスを告白し、賛美し、礼拝する現場に、聖霊は、今、満ちています。


この、聖霊の働きを否定してしまうなら、今、現に働いておられる聖霊の働き、神の赦しと愛の働きに、

心を閉ざしてしまうなら、赦されるものも、赦されないではないですか。

主イエスが言われている、「聖霊を冒涜するものは赦されない」とは、そういうことでしょう。

エスなど知らないと三度もいいきったペトロをさえ、

クリスチャンを迫害し、苦しめる恐ろしい罪を犯したパウロ

そして、わたしたちの内側に隠されている罪さえも、

神は主イエスの十字架のゆえに、赦されている。

この神の計り知れない愛と赦しを、示される聖霊の働きを、心を開いて受け止めてほしい。

聖霊」を冒涜しないでほしい。主イエスの十字架の愛と赦しを、受け取ってほしい。

聖霊を冒涜するものは赦されない」とは、聖霊による神の赦しに招く、主イエスの呼びかけであり、招き。そう信じます。

今も、聖霊は働いておられるのですから。

わたしたちの、内側も外側も、一本残らず髪の毛の数さえ知って知っておられる神に、そのすべてを赦され、愛されている、

その神の絶対的な赦しを受けて、恐れることなく歩みだすよう、

今も、聖霊は働いておられるのだから。礼拝は聖霊の満ちている現場です。わたしたちは、礼拝のなかで聖霊を体験し、今生きておられる、主イエスと出会い直すのです。

さ、聖霊によって主イエスと出会い直したわたしたちは、もい、人を恐れません。

わたしたちに、力はなく、弱くとも、

この世の中で、小さく、無価値な雀のように見られていても、

わたしたちは、神に愛されているのですから、恐れません。

聖霊が勇気を与え、語らせてくださる愛の言葉を、語り続けて行きます。

11節12節を読んで、メッセージを終わります。

「会堂や役人、権力者のところにつれて行かれたときは、なにをどう言い訳しようか、なにを言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」