「神の賜物は金で買えない」(2017年11月5日 花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

11月になりましたね。今年も残すところ2ヶ月です。
「もういくつ寝るとお正月」ではありませんが、あと何回かここで顔を会わせたなら、もう「クリスマス」です。

 主イエスが招いて下さっている、一回一回の礼拝の時間に感謝です。こうして顔をあわせられることも、決して当たり前のことではありません。

週報の個人消息に、書きそびれてしまいましたけれども、教会員のNさんが、先週から入院しておられますから、どうぞお祈り下さい。

水曜日のお祈り会では、教会の様々な課題や、人のことを覚えてお祈りしていますから、お祈りに覚えてほしいことがありましたら、ロビーのコミュニケーションカードに書いて、箱に入れてください。

主イエスの名で、二人、三人の人々が共に集まる時、そこに主はいてくださいます。祈りを必ず聞いて下さいますから、互いのために、祈り合いましょう。

さて、先週の日曜日は、ホルンの宮田四郎さんをお迎えしました。

午後からのコンサートでは、ホルンの演奏はもちろん、宮田さんの「お話」がよかったと、参加した方々が、口々に私に語ってくださったんですよ。

わたしの説教よりも、身近な話題で、わかりやすくて、心に響いたんじゃないですかね。

何と言っても、体験談は説得力がありますよ。イエスさまを信じた「証」。イエスさまと出会って、自分の心が変わっていった「証し」「その人の体験談」には、力がある。

宮田さんは、クリスチャンになってから、むやみにやたらに、ほしがらなくなった自分の心の変化や、人から褒められたいというプライドから解放されたことや、ゆるせなかった人、憎かった人を赦し自由な心になった自分のことを、包み隠さず、ストレートにお話し下さったわけです。

「主イエスと出会って変えられた、自分の体験」

言い換えるなら、自分のなかで働く、「聖霊」の働きへの気づきですね。

それは、宮田さんだけが特別にそういう体験をしているのではなくて、主イエスと出会い、聖霊があたえられた人は、自分で気付いていようと、いまいと、そういう信仰の体験があるはずなんです。

みなさんも、それぞれに「聖霊に導かれた証」が、きっとあるでしょう。


さて、11月の礼拝では、7月まで読んでいた「使徒言行録」を、また再開して読み始めるのですけれど、

この「使徒言行録」という最初の教会の記録、物語こそ、聖霊に導かれた証の物語です。。

十字架について死んだイエス様は、復活し、聖霊として、信じる人々の中で、生きて働き、導かれるようになった。

この「使徒言行録」はまさに、その信仰の体験談。証しの物語と言えます。

エスさまが十字架につけられるために、捕えられたとき、自分たちも捕まえられるんじゃないかと

ユダヤ人を恐れ、逃げ隠れていたあの弟子たちが、

主イエスが十字架につけられ死なれたあと、しばらくして、人々の前に堂々と現れてきて、こう語り始めたのです。

「あなた方が十字架につけたイエスを、神は復活させ、あなたを救う救い主、メシアとなさったんです」

主イエスは復活したんです。生きているんです。わたしたちは出会ったんです。体験したんです」と。

エス様が十字架に死んだ過ぎ越しの祭りの日から50日目の、ペンテコステの祭りの日。

聖霊が弟子たちの上に降ったあとから、弟子たちは、もう、このことを語らないではいられない人々になってしまった。


「主イエスは今も生きているのです。この方こそあなたを救うメシア、キリストです」と

迫害されても、投獄されても、語りつづけるのです。

神は唯一であると信じるユダヤ人にとって、イエスが神の子であるとか、メシアであると言いふらすようなやからは、

神を冒涜する者であると、憤慨し、我慢がなりませんでした。



今日、朗読された聖書の箇所の冒頭で、ステファノという教会の指導者が、殺害されたと書いてありました。ユダヤ人の民衆に迫害され、石打にされて殉教したのです。

そしてエルサレムの教会に対して、大迫害が起こりました。

主イエスは生きておられると「証」したからです。

1節の冒頭で、サウロは、ステファノの殺害に賛成していたと、書いてありますけれども、このユダヤ人サウロもまた、復活のイエスと出会ってしまい、

同じように、「イエスは復活した。この方こそメシア、キリスト」ですと、命をかけて「証」していく伝道者パウロとなるのです。その箇所は、再来週の礼拝で読むことになります。


この「使徒言行録」は、なんという「証し」「信仰の体験」に満ちた文書でしょう。

この「使徒言行録」を書いたルカは、この最初の教会の姿、弟子たちの物語を書き残すことで、

今もいき、聖霊として働いておられる主イエス「証」しているのです。

ですから、この「使徒言行録」を読むとき、2000年の時を越えて、あの時と同じ聖霊が、今もわたしたちを導いて下さっているのだと、励まされ、勇気をいただくことができるのです。


たとえ今、逆境のなかにあっても、試練のなかにあっても、

最初の弟子たち、教会もまた、幾多の逆境、試練のなかにあっても、

いやむしろ、そういう時にこそ、聖霊に導かれ、試練を乗り越えていったように、

今も、私たち一人一人の人生のなかで、教会のなかで、聖霊は働かれ、導いて下さっています。

わたしたちも、この「使徒言行録」の続きを、今、この場所で生きています。

聖霊が働かれ、導かれている神の物語を、わたしたちも、今生きています。

牧師のわたし自身、今日、ここにいることは、不思議な神の導きだと思っています。

山形の酒田で、一生を終える覚悟でいたけれども、そんな自分の思いを、神様に砕かれて、

2年半前に、花小金井教会に導かれたのも、聖霊の導きだと信じますし、

そのようにして、聖霊はこれからも、わたしの思いとか願いを越えて、

自由に導き、遣わされていくことに、委ねることにしているのです。神様、どうぞわたしを自由に使ってください。それがわたしの献身です。


さて、今日の使徒言行録の物語に登場してきた、「フィリポ」という伝道者も、聖霊に導かれて、自由に飛び回った人でした。

このサマリアの町に福音を語った後、来週読む箇所では、彼は、たった一人の人に「福音」を語るために、サマリアからずっと南の「ガザ」という町に、旅立ちます。聖霊が導いたのです。


わたしたちも、今日、顔を会わせましたけれども、来週、そして来年、わたしたちは、それぞれにどこにいるか、わからないでしょう。

わたしたちがこうして出会っているのも、わたしたちの意思を越えて、神の導きと招きがあるからです。

つまり、わたしたちは聖霊に導かれているからこそ、今ここで出会っているのです。


今日読まれたみ言葉は、聖霊に導かれたフィリポを通して、福音がサマリアという町に広まった出来事です。

ユダヤから一歩、外の世界に福音が広まった最初の出来事です。そのためには、特別な力が必要だったのでしょう。

フィリポを通して、人々の病が癒やされ、悪霊が追い出される、ということが起こりました。

悪霊なんて、古代の話だと片づけられません。

昔も今も、人間は時に、実に残酷なことをするではないですか。

悪霊に取り憑かれているとしかいえないほどの、悪を、人はおこなう。

先週も、座間市のアパートで、何人もの人を殺害した事件があったことを、わたしたちは知らされたばかりです。

自分の力では、どうにもならない心の束縛。わかっていてもやめられない悪。怒り、憎しみ、イライラ、否定的な感情を、自分の力ではどうにもならない、その心の束縛、悪霊の力から、

主イエスは私たちを解放する、今も生きて働くお方であることを、先週の宮田四郎さんの証においても、語られていたと思います。

主イエスは、今も生きて働き、私たちを解放してくださる。神の国は始まっている。

フィリポが、病を癒やし、悪霊を追い出していたのは、彼の力などではなく、主イエスの霊、聖霊の働きです。

フィリポの個人の力ではないのです。フィリポは、自分の名声を広めようとして、そんなことをしているのではありません。

そうではなく、フィリポを通して働いている、主イエスの名を広めるために、しているのです。

フィリポの目的は一つ。主イエスの名を広めること。福音を告げること。
病の癒やしも、悪霊を追い出すのも、主イエスの名を広めるためです。

しかし、奇跡とか癒やしのような力は、人の心を奪う、怖い側面があります。

人は、そういう力を、自分の為に手に入れたがるのです。そして、自分のために利用することで、道を外してしまいます。

さて、フィリポがやってくる前に、すでに「シモン」という魔術師が、サマリアの町で活動していたのです。

彼は人々を驚かせるような、魔術をしていました。本当のところは、マジックだったのかもしれません。

でも、人々からは、あの人は不思議な力を持っていると、信じられ、注目されていたのです。
いつの時代も、ヒーラーとか霊能者とか、そう呼ばれる人はいるものです。

文明の発展した現代にも、霊能者とか占い師を求める人は、後を絶ちません。

新興宗教には、カリスマの教祖が必ずいます。いや、カリスマ教祖がいなければ、新興宗教は始まらないのです。

あの人は、普通の人とはどこかちがう、特別な能力がある、癒やしの力があると、信じられたからこそ、人々は、その宗教に救いを求めて集まってくるわけでしょう。

日本は、新興宗教に関わっている人の割合が、諸外国よりも多いと聞いたことがあります。

人間を、神様や教祖に祭り上げることに、疑問を感じないメンタリティーなんでしょう。
これは、ユダヤ教キリスト教では考えられないことです。

かつて、戦前の時代、国を挙げて、天皇は神であると、信じさせた時代がありました。
そして、神であり天皇のために、若者たちに命を捨てさせた、暗黒の時代でした。

人が神のように崇められる。教祖に祭り上げられるとき、恐ろしいことが起こるのです。

この魔術師「シモン」は、自分は偉大な人物だと、「自称」していた人です。

自分で自分のことを、神の力で奇跡を行う人間だと、宣伝していたわけです。

人から注目されたい、人の上に立ちたい、人をコントロールしたいという欲求でしょう。

でも、このシモンという人は、実はたいした奇跡は出来なかったんじゃないかと思います。

フィリポがもっとすごい奇跡を行ったら、すごすごと、シモンは、フィリポの後に従ったのですから。

また、エルサレムの教会から、ペトロとヨハネが遣わされて、

バプテスマを受けた人々の上に、二人が手を置いて祈ると、人々の上に、聖霊が降るという不思議な出来事が起こって、

シモンは、おもわず金を持ってきて
「わたしにもその力を授けてください」と言ったのです。

とにかく、シモンは、人々の注目を集めたい人だったのです。彼は、教祖になりたいのです。偉大な人と呼ばれたいのです。

だから、もっと自分に力を手に入れたい。だから金で、その力をうってくれないかと、願った。

もちろん、人助けのため、人を苦しみから救うために、シモンは特別な力を、自分の手に入れようと、しているのでしょう。

しかしそうであっても、罪人に過ぎない人間が、神のように、人から崇められるのは、罪であると、厳しく断罪するのです。

ペトロは、シモンに厳しく言います。
「お前は腹黒いものであり、悪の縄目に縛られていることが、わたしにはわかっている」と。
教祖になりたいとか、人々を魅了して、自分に従わせる、神の力を手に入れたいという、欲求の行き着く先が、独裁者であるわけです。

神ではないものを、神のように崇めるとき、自由は奪われ、苦しまなければなりません。

天地を造られた神だけが、神。

そして、「主イエス」を崇め、礼拝するのは、「主イエス」は、人となられた「神」であると信じるからです。

だから、フィリポがいくら奇跡を行っても、癒やしを行っても、彼は、自分のことを宣伝したり、偉大な人物であると、自称したりしないのです。
ただ、イエスキリストの名を伝えるのです。

フィリポに力があるのではないのです。

そうではなく、主イエスが、フィリポを通して、働かれるのだから。

それでも、人間は弱いから、どうしても、目に見えない神ではなく、目に見える人を、教祖にしたくなるでしょう。

フィリポのような力強い奇跡を行う人から、バプテスマを受けたなら、フィリポを教祖に祭り上げたくもなるでしょう。

そうならないように、エルサレム教会から、ペトロとヨハネが遣わされたんじゃないかと、わたしは思っているのです。

つまり、主イエスを信じて、バプテスマを受けて、人が聖霊を受けて、救われるという、出来事は、

フィリポだけの、個人の働きでは完結しない。ペトロとヨハネ祈りがあって、

つまり個人ではなくて、教会の働きとなってはじめて、聖霊が降り、人は新しい人へと、救われていく、ということが、ここで教えられているのだと、わたしは信じるのです。

 去年のクリスマスの礼拝で、ある方のバプテスマ式がおこなわれましたね。わたしはその時なんとインフルエンザで寝込んでしまって、私の代わりに、Fさんにバプテスマ式の司式をしていただいたのでした。

そのバプテスマを授ける時に、Fさんはこう言われたのですね。

父と子と聖霊の名によって、教会はあなたにバプテスマを授けますと。

後から伺って、感動しました。そうなんです。牧師が授けるのではない。教会が、この方にバプテスマを授けるのだと。

今思えば、あのタイミングでインフルエンザにかかってしまったのも、このことを教えるための、聖霊の導きだったんじゃないかとさえ思います。


人間が、教祖になってはならない。魔術師シモンはもちろん、フィリポも、ペトロも、ヨハネも、誰一人、人間が教祖のように崇められてはならない。

それは牧師も、神父もそうです。

すべての人間は、罪ゆるされた罪人なのです。人間は人間を救えない。どんなカリスマ牧師も、カリスマ神父も、人は人を救えない。

わたしたちを、本当に救うことが出来るのは、

死からよみがえられた、唯一の方。

神の御子、イエスキリスト。この方だけなのです。